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平野啓一郎氏 国葬と私的な葬式は違う…「区別がつかない人が、どうしてこんなに多いのか」 "法的根拠ない国葬に無批判に従うことがマナーなのか?”

2022-09-17 23:21:21 | 旧統一教会
https://news.yahoo.co.jp/articles/7fb66f45df4ff4af391a4aec02e311b0e7bcd4fa 9/17(土) 18:50 スポニチアネックス 平野啓一郎氏

 作家の平野啓一郎氏(47)が17日、自身のツイッターを更新。27日に行われる安倍晋三元首相の国葬を巡り、私見をつづった。

【写真】安倍元首相の国葬の出欠確認はがきのアップ。返信の締め切り日が修正されている(画像の一部を加工)

 国葬を巡っては、各メディアの世論調査で反対派が賛成を上回り、岸田文雄首相の説明に納得していない国民も多い状況。野党は共産党、れいわ新選組、社民党が欠席を表明、立憲民主党は党執行役員が欠席する方針を決めた。

 そんな中、立憲民主党の蓮舫氏、辻元清美氏が自身のSNSに国葬の案内状の写真をアップしたうえで「欠席」を表明。これに対しては、故人や遺族に対して非礼だとして一部SNSなどで批判の声もあり、実業家の「ひろゆき」こと西村博之氏は「人の葬式に行かない人は、黙って行かなければいいだけです。『行きません』とわざわざ言う必要はないと思います。遺族と参列者に失礼です」とツイート。お笑いコンビ「ロザン」の宇治原史規はYouTubeチャンネルで「国葬だから普通の葬儀ではないけど、普通招待状が来て、SNS載せる?例えば結婚式の招待状が来て、載せるにしたって、本人に聞かへん?そんなことってええの?僕はちょっと非常に反対です」と語っている。

 また、自民党の二階俊博元幹事長は16日のTBSのCS番組収録で国葬に賛否両論がある現状に関し「黙って手を合わせて見送ってあげたらいい。議論があっても控えるべきだ」と指摘。「終わったら、反対していた人たちも必ず良かったと思うはずだ。日本人ならね」と語り、炎上状態となった。

 国葬を巡っては、以前から「反対」の立場を表明してきた平野氏。この日、自身のツイッターで「国葬と私的な葬式の区別がつかない人が、どうしてこんなに多いのか。私的な葬式はもう済んでいる。誰もそれは批判していない」とし、妻の昭恵さんが喪主を務めた安倍氏の葬儀は7月12日に執り行われていることを指摘。「国葬は法的根拠もないまま、政府が勝手に一人の政治家を権威化しようとしている。何故それに無批判に従うことが、最低限の『マナー』みたいな話になっているのか?」と続け、国葬と一般的な冠婚葬祭を同一視して議論することへ異議を唱えた。

感想
国葬は法的根拠がありません。

もう一つの大切な視点が、国葬に値する人かどうかです。
モリカケサクラ問題、友達の山口敬之準強姦(民事)の逮捕中止。
何よりも、日本国民を犠牲にしている旧統一教会に率先垂範して協力してきた安倍元首相。
これは売国行為に該当するのではないでしょうか?
その人を税金使って国葬すること自体がおかしいです。
その人の国葬に招かれて参列すること自体が、マナー違反云々より、人として問題ある行為になるのではないでしょうか。

『秋』かこさとし(未発表絵本)”戦争の絵本を出そうとずーっと推敲を重ね、亡くなられてから出版”

2022-09-17 19:15:15 | 本の紹介
かこさとしさんの新しい絵本『秋』には、絵本作家としての思いがつまっている。
https://madamefigaro.jp/culture/210921-satoshi-kako.html FIGARO 2021.09.21 文/瀧 晴巳


かこさとしさんに初めてお目にかかったのは、2013年の夏のことでした。あの懐かしい絵本『だるまちゃん』シリーズや『カラスのパンやさん』の作者に会うのだと思うと、もう大人なのに、サンタクロースと会うような不思議な感じがしたのを覚えています。  
この時87歳だったかこさんは、アロハシャツとパナマ帽で現れて、言いました。
「緑内障で左目がほとんど見えなくなったので、部屋の中でもつばのある帽子をかぶっているんです。万一どこかにぶつかりそうになったときこそ、このつばの出番です」
語りおろしの自伝『未来のだるまちゃんへ』の取材をするため、それから毎月のようにご自宅にうかがったのですが、ちゃめっけたっぷりのユーモアの底に、深い覚悟があることを知ることになりました。どうして絵本作家になったのかを訊ねたら、かこさんは、きっぱりとこう言いました。
「僕は、決して終戦とは言いません。あれは、敗戦です」

航空士官になることを夢見ていたかこ少年は、日本が戦争に負けたあの時、それまで自分が信じていたことが全部間違いだったことを思い知ることになりました。自分は近視だったから軍人になれなかったけれど、軍人になった友人はみんな死んでしまった。何よりかこさんを失望させたのは、なんの責任もとろうとせず、手のひらを返した大人たちの姿でした。大人はもう信用できない。19歳の自分も、もう子どもとは言えない、大人の一員だ。深い悔恨の気持ちが、せめて未来を担う子どもたちのために何かできないかという想いに繋がっていったのです。

はじまりは、川崎のセツルメントの子どもたちのためにつくった紙芝居でした。子どもは正直だから、つまらなかったら、すぐどこかに行ってしまう。かこさんの絵本が長く愛されるのは「子どもたちに弟子入りする気持ち」でつくってきたからなのだと思います。
サラリーマンをしながら、週末は子どもたちに手作りの紙芝居を読み聞かせていたかこさんが『だむのおじさんたち』で絵本作家としてデビューしたのは1959年、32歳の時でした。

この秋、刊行された絵本『秋』はそれよりも前、1953年に最初の原稿が執筆された作品です。2018年にかこさんが亡くなった後、長女の鈴木万里さんが原稿整理をしていた際に、未発表の原稿を見つけたのだと言います。そこに描かれていたのは、かこさんが生涯憎んだ戦争でした。



〈秋は、本当にいい季節です。
私はちいさいときから、秋が大好きでした。

ところが、そのすてきな秋を
とてもきらいになったときがありました。
とてもいやな秋だったことがあります。

それは、今からずっとむかしの、
昭和十九年のことでした。〉

絵本の中に、盲腸で入院したかこさんの手術をしてくれたおでこ先生が出征することになり、俳句を送ったエピソードが出てきます。

何がなんでもの南瓜も食はで往くか君

この話は、自伝の中にも出てくる、かこさんご自身の体験です。この時の俳号が本名の「哲(さとし)」からつけた「三斗子(さとし)」。戦争中に紙代、インク代を節約するため、三文字の俳号は二文字で表記するようになったため、「三斗子」が「里子」になり、「加古里子(かこさとし)」というペンネームは、ここからきているのです。

それにしても「いつか戦争を描いた絵本を描きたい」と言っていたかこさんが、すでにご自身の体験をベースにした作品を描いていたことを知って、驚きました。それも敗戦から8年後。まだ絵本作家としてデビューする前に描いた作品で、きっと、描かずにはいられなかったのだと思います。絵本作家としての原点と言える作品が68年後の今になって息を吹き返し、新刊として届いたことに、今は亡きかこさんの強い思いを感じてしまうのは、なぜでしょう。
「プロフェッショナル 仕事の流儀 絵本作家・かこさとしの仕事」
はDVD化されているので、ぜひご覧になってください。目が悪くなり、体調を崩してからも一日も欠かさず机に向かったこの人の命を燃やす静かな戦いが記録されています。それは絵本『秋』に描かれたあの時から始まった、長い不屈の道のりだったのだと思います。
「『どろぼうがっこう』も、もともとは紙芝居だったんですよ」

そう言って、かこさん自ら読み聞かせをしてくれた夢のようなひとときを忘れることはないでしょう。それはひとりの人生の大先輩が、世の中がひっくり返って、何もかもに失望することがあったとしても、こういう闘い方もあるよ、と身をもって教えてくれた、この上なく優しい、かけがえのない時間でした。
「『おたまじゃくしの101ちゃん』を読んで、ちゃんと全部、数えた子がいてね。1匹足りないと手紙をくれたんですよ。こどもは本当によく見ているからね、侮ってはいけない」

そうして、その日の取材を終えて帰ろうとすると「お菓子を持っていきなさい」と持たせてくれようとするのです。素晴らしい絵本を読む時と同じように、かこさんの前では、いつも、ひとりの子どもに還ったような気がしました。もしかしたら、かこさんの中にも、19歳の秋のままの少年がずっといたのかもしれません。

〈青い空や澄んだ秋晴れは、
戦争のためにあるんじゃないんだ。
空襲や戦争のために、青く澄んでいるなら、
こんな秋なんかないほうがいいんだ。
はやくどこかへいってしまえ!
そしてはやく、一日もはやく、
平和な春がきてほしいーー
私は願いました。
切に私は思いました。〉

感想
絵本の後書きに鈴木万里(かこさとしさんの娘)さんが書かれていました。
「2020年、ステイホームの期間中、加古の紙芝居についての執筆のため、手書きの古い作品を一作一作見直していたところ、あの『秋』の絵(1957年10月13日画とある)とともにセリフと、そえrを絵本として出版するときお編集上の注意点がなどが書かれた原稿用紙が一緒にあるのを見つけました。驚いたことに『子どもたちへ、今こそ伝える戦争』(講談社刊)で語っている内容に加え、初めて知る事柄が表記されていました。しかも、差出人がない手紙も入っていて、長い間お預りしていたものの、自分の力不足で出版することができず誠に申し訳ない、といった編集者の方からと思われるお詫びが認めてありました。
その原稿によると、1953年10月23日作、1955年加筆、1982年改訂とあります。実に30年がかりで、絵本として世に出すべく手を入れていたことを知りました。2008年、最初にこの作品を手にした際に、内容・文面まで詳しく見ていなかった自分を、心から情けなくお観ました。と同時に、それから10年以上、加古作品と向き合ってきて、秋という題字の色に込めた思いもよくわかりました。澄み切った爽やかな空の色、そこに揺れるコスモスのピンク、そして暗い影を落とした戦争の黒です。
コロナの蔓延で価値観が変わるようなことが起こる一方、世界各地での紛争は止まず、加古がこの紙芝居に込めた思いを強く感じて、今こそ、かつて適わなかった、その思いをかなえたく、それが実現いたしましたこと、加古に代わり衷心よりお礼申し上げます。」

「未来のだるまちゃんへ」かこさとし著 ”子どもたちのために、子どもたちから学びながら”
僕は、いつか「戦争」を描いた絵本をだしたい、出さなければ、と思い続け、何回も企画を立てては、自らボツにして、いまだに果たせずにいます。

かこさとしさんはずーっと、子どもたちに戦争のことを伝えたいと思って、何度も見直しされていたようです。
そして生きている間にはとうとう出すことができませんでした。

かこさとしさんは、紙芝居が原点のようです。
「かこさとしと紙芝居 創作の原点」かこさとし・鈴木万里共著 "子どもたちの成長に絵本を通して尽力”
紙芝居を通して、子どもたちの育成をされていたようです。
かこさとしさんの絵本には、ダムの話など、楽しみながら知ることができるようにされています。
『秋』も先ずは紙芝居として作られていたようです。
お薦めの絵本です。

『秋』
上記サイトで少しだけ絵本を見ることができます。

戦争は多くの人の悲しみを生むことをあらためて痛感しました。
戦争を決めた人は命を落とすリスクはほとんどありません。
しかし、戦争に行かされた兵隊さん、多くの兵隊さんが亡くなりました。
また重傷を負った人も多かったです。
その家族も深い悲しみに沈みました。
多くの人が戦争に翻弄されました。
まさに、今それがウクライナで進行中です。

国民一人ひとりの考えと行動が国の方向も決めてしまうのでしょう。
声をあげられなくなる前に、声をあげないといけないのでしょう。
声をあげるには、子どもの頃から戦争のことをきちんと伝えることも大切なように思いました。

下記の実話も絵本に取り入れておられます。
ただ、実際の新聞記事では当時の政府の考えが色濃くでていました。
政府に忖度しないと出せなかったのでしょう。
「宮城に擧手の禮」
宮城は天皇が住む場所 宮城県ではないです。
擧手は手を挙げること
禮はうやまう/敬意を払うこと
飛行機が撃墜され、パイロットがパラシュートで落下しました。
ところがパラシュートの紐が引っかかってそのまま落ちてしまい亡くなりました。
それを新聞記事では、「皇居に向かって拝みながらパイロットが命を落とした」と説明したようです。
実際はそんな余裕はなく、何とか紐を解こうとしたと思います。
それが描かれています。
新聞紙法により事前の検閲があったようです。

ドリアン助川氏「生きることのもう一つの意味」”ハンセン病施設のみどりの遺言”

2022-09-17 15:32:00 | 社会
主催 一般社団法人JELF 2022年9月17日
ご講演を聞いてメモしたものです。
間違えている箇所があるかもしれません。


 作家としてたくさんの本を書いて来ました。『あん』は21言語で翻訳され出版されました。20言語はロシアからでした。

 ロシアでも反戦を叫んだ人がどんどん拘束されている。
前半『あん』の話、後半は「みどり」の話。樹木希林はすべて樹木林と。
 なぜハンセン病に取り組んだのか?
 国立系13か所。基督教系は1か所。入所者がみどりとどのような関係にあったのか。
増刷分から、21か国のお祝い文がカバーになる。9月15日が希林さんの命日。吉井徳江さんを希林さんが演じた。ハンセン病にかかると収容所にずーっと閉じ込められた。人生を終えるしかなかった。そういう法律があった。永瀬さんが殺人を犯して刑期を終えて、借金あってどら焼き屋をやっていた人を演じた。徳江さんは甘いものを作る生菓部。火事になっても消防車来ない。自分たちですべてしないといけない。生菓部は入所者のお誕生日をお祝いするものを作る。指先が麻痺してくる。最後は舌で点字を読む。最後に残るのは口の中。舌の機能が残る。

 英国においても既往症があると死んでも仕方が無い雰囲気がある。いやそうでない。誰でも生きている価値がある。それを教えてくれる本だった。

 深夜のラジオ番組で若者の相談受けていた。1回/3か月日本放送で若者に集まってもらって話を聴いた。産んで欲しいと言っていないのに人として生まれた。
話し合いは人生を考える場になっていた。生きる意味に回答があるわけない。
万引きする、援助交際する。善悪ではなく、何で生きているんだと。
 10人とも「社会のために役立つために生きている。役立たないとだめ」と言った。
つい大人が「人助けせよ」と言ってしまう。本当にそうなのだろうか?
「みどりの遺言」も自然と人がどうなのだろうかと。
「社会のために生きる」を肯定しがたい気持ちがあった。
ハンセン病についてはまったくの素人だった。
『砂の器』松本清張氏の名作でハンセン病を扱っているが、怖いイメージも与えていた。
療養所内で社会の為に役立つことができなかった。社会の為に役立つことが正義、それに納得できなかったし、反論できなかった。もやもやしたまま帰路に着いた。
どんな環境に生まれても生きていることが意味がある。
ハンセン病のことを何か書きたいと思った。
 北条民雄さんの本を読んでショックを受けた。この苦しみは味わった人以外は書けない。
全ての苦しみはすべて書かれている。また文書のクオリティが高い。

 結局10年かかった。
 その間はいろいろなことを考え、行動した。自殺者が多かった。米国にいたとき、隣のメキシコの自殺率が低い。そこでメキシコに行った。

 帰国してピエロのかっこして歌っていた。そのときに多摩全生園の入所者がコンサートに来ていて、多摩全生園に来ないかと言われて行って道が拓いた。
 2時間上映終わってスタンドオベーションだった。
当初本は大手から出版することになっていた。
11回書いた。それも最初から。
しかし、最後になって出版しないと言われた。
ハンセン病について作品は出せなかった。
多摩全生園の人に出版を約束していたので、出版できないと言われ絶望になった。

 ウクライナの映画祭に行き、オデッサに行った。戦争中だったので危険だった。
希林さんから「そういうところだから行きたいわね。行ってあげたいわね」「それは行きたいと言うことですか?」「そうとも言えるわね」
そこで特別な保険に入って行った。
アジアからは2人だけだった。

希林さんはいつもニコニコしていました。
カタールにも行った。デザートがすごく多かった。映画館から出ると砂漠。
なぜ生きるかは伝わるが、それ以外は伝わらない。
日本の「あんこ」を知らない。「どらやき」も伝わらない。
ハンセン病は昔は不治の病。神経をダメにする。でも死ぬ病気でない。
聖書にもライ病(ハンセン病)の逸話が載っている。
1943年プロミンが開発して通院する病気になった。
なので、なぜ日本で隔離が続いていたかが理解されなかった。
でも吉井徳江さんの命の意味が世界の人に伝わった。

 多摩全生園にいらっしゃいと言われた森本さんは中学生の時に発症した。森本少年は合格して岡山の療養所に移った。客車は用意されず貨物列車に入れられ鍵をかけられて移送された。
その貨物列車に感染者輸送中と垂れ幕が蒔かれていた。
それを聞いてかけるかもしれないと思った。義憤が大きくなるほど書けないと思ったが、入所者の方と話をすることで気づいた。主人公を二人立てば書けるかもしれない。
森本少年は大学に行きたいと思ったが行けなかった。先生がだったら東京の多摩全生園には図書館があるから自分で勉強すればよい。
当時何をしても上手く行かず、収入もなかった。
お菓子の話を書こうと思って、お菓子の学校に入っていた。
それもつながった。

 この像はお遍路さん。親と子。砂の器にもこのようなシーンがある。
取り壊しがキーワード。
多摩全生園にあった夫婦寮も取り壊されている。
ここに住めた人は幸せ。結婚した二人が一緒に暮らせる場所がなかった。
結婚するには優生保護法で男性側の避妊(パイプカット)が必須。
当時は医師でない人が手術していた。出血止まらなかったことも、赤ちゃんができてしまうこともあった。
夫婦寮できるまでは婦人寮に男性が入ることができた。一部屋で。個人に尋ねたら発狂した女性もいた。
 これが納骨堂、2千体の御骨。郷里に帰れない人がここに眠っている。

 多摩全生園今年で113年。
広さは36万平方メートル。東京ドーム4万7千。東京ドームが8つぐらい入る。
多摩全生園は郊外に作る。結核療養所も近くにある。
ソメイヨシノを入所者が植えた桜。せめて桜だけでも自由にと剪定をしなかった。今は憩いの場になっている。
 上野正子さんが吉井徳江さんの心のモデル。高等学校で「さあ、学校の先生になろう」としたとき、発症した。お弁当はおかゆだった。おかゆとあだ名されたた。
高等女学校の同級生はひめゆり部隊。皆亡くなっている。自分がハンセン病になっていなかったら死んでいた。
この人の手記を読んでモデルにしたいと思った。それで手紙に書いてだした。

 桜を植えることをやっている。樹木希林さんが上野さんのところへ二度会いに行った。
手を見て演じたいと。その二日前に希林さんの娘さんから母が亡くなった電話があった。
 上野さんから「希林さんお元気?」と問われて、困った。「お元気だと思います」というしかなかった。

 2022年5月全国入所者数927人、平均年齢87.6歳 多いときは約12,000人入所していた。
隔離していた柊の木が全て刈られた。収容所は国の施設。入所者がいなくなったらどうなるのか。東村山市は反旗を翻して、『人権の森』として残そうと。252種3万本の木。
国家がどうするか。
 木に名前が付いている。お金払った人の名前。
ここで亡くなると、自分のお墓を作れない。つまりこの木が自分のお墓になっている。
 木の声を聴く「よく頑張ったね」。徳江さんが聴くと。
同情される人生ではない。よく頑張ったね。私たちが亡くなるとここに木を一本飢えて来たのよ。
みどりで気持ちを和らいだだけでなく、一人ひとり。
みどりをどう残していくか。
「ハンセン病療養所のみどりの遺言」という話をさせていただきました。

感想
入所者の方も高齢になり、いつかは亡くなられます。
そうすると日本のハンセン病のことは消え去るのでしょうか。
お話を聴いていて、ぜひ残したいと思いました。
そしてそこから学びこれからの時代に生かしていくことが私たちの役割でもあると思いました。

ドリアン助川氏講演「生きることの新しい意味~積極的感受~」(東京いのちの電話 主催)

主催者のテーマが「みどりの遺言」です。
遺言として財産を自然環境維持のために寄付することを弁護士の団体と自然環境団体をがタッグを組んで行っているようです。

さすが、ドリアン助川さん、多摩全生園の森と木のみどり、それを残していくことの意味をつなげておられました。

「線量計と奥の細道」ドリアン助川著 ”被災地の支援は十分か? 原発事故を生かそうとしない政府?”

「メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか」明川哲也著 ”4つの宝物”

「水辺のブッダ」ドリアン・助川著 ”償い尽くせない人生を生きること”

日本人が持っていたはずの「正直さ」の美徳はもう戻らないのか(三枝成彰) ”国会で嘘を118回ついて国葬”

2022-09-17 09:58:00 | 旧統一教会
https://news.yahoo.co.jp/articles/36f5ec17a941f15d42186234343e4554d5557866 9/17(土) 9:06 日刊ゲンダイDIGITAL

 芸術家に求められるのはルールを破ることだ。いつの時代もモラルを疑い、社会の常識をひっくり返してみることで、新しい芸術は生まれてきた。

 政治家に求められるのも、凝り固まった旧弊をひっくり返して現状を打破する力だろう。しかし、もっとも重要な資質は嘘をつかないことだ。大言壮語は大いに良し。しかし、国民を欺くことは、決してやってはいけないのだ。

 以前に当コラムで、安倍元総理の最大の罪は「嘘が通る社会をつくったこと」だと私が書いたゆえんはそこにある。

 安倍政権発足以来、本来なら国民に範を示すべきリーダーや官僚たちが公の場で平気で嘘をつき、国にまつわる数字や公文書を改ざんするようにさえなってしまった。そのために日本社会のモラルは崩壊したのだ。

 私は同じコラムで「安倍元総理の人柄と業績は分けて評価すべきだ」と述べた。著名人が亡くなって世の中が“追悼モード”になると、日本人はすぐに故人の人柄と業績とをいっしょくたにしてしまう、と。

 たとえその人が罪を犯していたとしても、日本人は「もう亡くなったのだから」と許してしまいがちだが、その罪が消えてなくなるわけではない。人道に対する罪などは、犯した者が生涯にわたり背負っていくのが世界の倫理観だ。日本人の考え方は通用しない。

■森友、加計、桜、東京五輪…

「モリカケサクラ問題」も疑惑が消えたわけではなく、現にその中で命を落とした人もいる。真相追及の作業は大方が積み残されたままだ。

 とくに加計学園のことは単に学部設置に便宜を図っただけにとどまらない。獣医学部の看板を借りて、安倍さんが秘密裏に細菌兵器の研究を進めようとしたという説さえある。獣医学部のみが、実験を含めた研究を行えるからだ。

 国会議員が、いわくつきの宗教団体と集票や無償労働などと引き換えに密接な関係を結んでいても、「何が悪いのか」と反省する態度すら見せない。

 オリンピックが巨大な利権ビジネスなのは周知の事実だ。政府が表立って関われない水面下の招致交渉などを広告代理店に任せるのも当たり前。しかし、賄賂の授受がバレても嘘さえつき通せば何とかやりすごせるという風潮が出来上がった責任は、安倍さんにある。

 日本人が持っていたはずの「正直さ」という美徳は、もう戻ってこないのか? 精神科医の和田秀樹さんがご自身のメールマガジン「テレビでもラジオでも言えないわたしの本音」で、いまの政治を分析しておられるのを紹介したい。当コラムとも通ずる話題を取り上げており、共感する部分も多い。

 いわく、「企業なら結果が悪ければ責任を取らされるが、政治家は結果が問われない」「いいことをやって結果を出すより、何もしないほうが選挙に勝てることも(岸田総理は)知っている」「アベノミクスにしても、理屈は立派だが、結果は悲惨だ」など。

 和田さんのエッセーは私以上の毒舌だ。毎回、政治や医療や教育などを独自の見方で斬っておられる。有料の購読制だが、ご興味のある方はどうぞ。
(三枝成彰/作曲家)

感想
いろいろな人がいろいろなコメントをされています。

太田光さんのように、安倍元首相を擁護される発言をされています。
ただ自己矛盾に気づかれていませんが。
「安倍元首相が濡れ衣着せられているから、調査した方がよい」と。
調査したら、調本人だとわかり、太田光さんのように擁護もできなくなるから安倍元首相も調査せずに、証拠改竄し、岸田首相も調査をする気はまったくないのです。
太田光さんは調査しなかった安倍元首相や岸田首相にその視点での批判はされていません。

誰の発言が適切かどうかを見極めるだけの知恵を身に付けたいものです。
そうしないと太田光さんのような発言を堂々と言ってしまい、ご自分の間違えさえ気付いておられません。
そして太田光さんの発言をまともと勘違いする人がでてくるのです。
ただ、変な発言をするからと言って、脅しや強迫は決してしてはいけないです。