配信 2023年8月14日 06:30更新 2023年8月14日 14:10 毎日新聞
太平洋戦争末期、日本の各都市は米軍による空襲に見舞われた。主な大都市が焼き尽くされると、1945年6月ごろからは全国の中小都市が標的になった。空襲では消火に当たることが国民の義務であり、避難するのは「非国民」――。国はそう国民に呼び掛けた。こうした統制が被害を拡大させ、青森市では行政による「脅し」が起きていた。
45年7月28日夜。当時9歳だった平井潤治さん(87)は、鳴り響く警戒警報で眠りを破られた。家族で空襲を避けるため、山間部の親族の家に身を寄せていたが、この日は2週間ぶりに青森市内の自宅へ戻ったばかりだった。
45年7月28日夜。当時9歳だった平井潤治さん(87)は、鳴り響く警戒警報で眠りを破られた。家族で空襲を避けるため、山間部の親族の家に身を寄せていたが、この日は2週間ぶりに青森市内の自宅へ戻ったばかりだった。
程なくして米軍機B29のごう音が響いた。母にせかされ外へと飛び出し、町外れの高台へ向かった。市街地を見下ろすと、周囲を焼き払う材料が入った爆弾「焼夷弾(しょういだん)」が、空から無数に降り注ぐのが見えた。町は真っ赤に染まっていた。
平井さんは不思議だった。「なぜ、みんなは家に戻ったのだろう」
それまで空襲を受けていなかった青森市では、14、15日に本州と北海道をつなぐ青函連絡船が敵機に襲われていた。多くの市民は「次は街が狙われる」と考えていた。
同様の体験をした人は他にもいる。金澤時信さん(90)で、避難先から戻った同じ日に空襲に遭った。中心部から逃げられず、火の海に包まれる中で一夜を過ごした。朝、周辺は焦土となっていた。「焼け焦げた遺体が忘れられない」。青森空襲では1000人以上の命が奪われた。
なぜ人々は危険な市街地に戻ったのか。
空襲10日前の7月18日付の地元紙が、当時の金井元彦・青森県知事の発言を報じていた。
「一部に家をからっぽにして逃げたり、といふものがあるさうだが、もっての外(ほか)である。こんなものは防空法によって処罰出来る」。避難を始めた市民に帰還を呼びかける内容だった。
防空法は国民に消火を義務付け、避難を制限していた。政府が国民向けに作った防空マニュアル「時局防空必携」では「命を投げ出して持ち場を守ります」という「誓い」も掲げられている。政府はこうしたマニュアルやポスターで焼夷弾を「恐ろしいものではない」と宣伝し、国民にバケツリレーの訓練を繰り返させていた。
青森市の対応も、拍車をかけた。「28日までに(自宅に)復帰しなければ、町会の人名台帳より抹消する。物資の配給は受けられなくなる」と通告した。物資不足の戦時下で、配給の停止は餓死を意味する。多くの市民が自宅に戻ったのはこのためだった。その期限の日、空襲は来た。
防空法制に詳しい早稲田大の水島朝穂教授は「逃げれば非国民にされるという社会的強制が、犠牲者の拡大につながった」と指摘する。
知事だった金井氏は、終戦翌年の46年に公職を追放された。街への帰還を呼びかけたことを、どう考えていたのだろう。はっきりと見解を示した資料は見つかっていない。ただ、空襲の6日後に国などに出した報告書には、空襲から得られた教訓を「人員疎開の徹底的な実行」と記していた。
死去翌年の92年に発行された追悼文集に文を寄せた青森時代の知人は、80年に再会した金井氏にこう打ち明けられたという。
「青森には良き思い出は全くない。ただ悲哀と苦労だけでした」【黒川晋史】
感想;
インパール作戦、ノモハン事件などを企画立案、実践した責任は死なずに戦後生きながらえました。
戦争を行った人は一部は東京裁判で死刑になったり自害されましたが、多くは生き残りました。
戦争に行かされた人の多くは亡くなったり、傷害を被ったり、大変な思いをしました。
戦争をやろうとする政治家に投票するということは、自分や家族が犠牲になっても仕方がないと思っているのでしょうか?
この事実は知りませんでした。
多くの人にせめて知ってもらうことです。
当時の金井元彦・青森県知事は責任をとっていません。