・原典(教)、実践(行)、信心(信)、悟り(証)の四本の軸である。
・父殺しの悪人アジャセ(阿闍世)は、はたして救われるのか。『教行信証』という作品の全篇に流れる基調低音であり主題である。
・親鸞が最終的にたどりついた結論が、条件づきの悪人救済の道だった。善き師につくこと、そして深く懺悔すること、の二条件がそれである。その最後の主題が、この『教行信証』という作品の後半になってしだいにせりあがり、明らかにされていく。
・「凡小」と「愚鈍」への関心集中-親鸞が終生手放さなかった覚悟である。何を信じ、どのように行動したらよいのか。悪への誘惑に溺れる人間の性-親鸞思想の中核が「悪」の追究にあったことがここでお示されている。悪を転じ、徳につけ、という先の問題意識に、それはそのままつながっている。
・「浄土真宗」の拠るべきテキストはただ一つ。『大無量寿経』のみだ。とする宣言である。往相還相の真実を明らかにする原典は、この『大無量寿経』をおいてはかにはないとする確信的な告白である。
・かれの信仰のマニフェストとでも言うべき『正信念仏偈』が、それだった。
これは正信の念仏を讃える詩篇と言っていいものだが、親鸞自身の手になる念仏賛歌である。全体で7言、120句から成り、本願寺教団では、第八代法主の蓮如以降、朝夕の勤行用のテキストとして使われてきた。
・『正信念仏偈』は前後の二部構成になっている。前半は『大無量寿経』の本質は何かと問い、無量寿仏(=阿弥陀仏)の本願を信じ、本来の念仏を唱えることだと答える讃歌。そして後半は、この本願=念仏の教えを伝えてきたインド、中国、日本の七高僧の説を要約して、その徳を讃歓歌している。
七高僧とは、、インドから龍樹、天親の二人、中国では曇鶯、道綽、善導、そして日本の源信、源空(法然)。
龍樹-念仏こそ救済への最短、催促の捷径であると説いた。それを「難行の陸路」に対する「易行の水道」と表現した。
天親-阿弥陀如来の誓いだけが大衆を救うはたらきをもっている。それを本願力の廻向と説いた。
曇鶯-浄土往生の道には往復キップが用意されている。それを『往還廻向』という。廻向とは、本願力(すなわち他力)のはたらきそのものだと説く。
道綽-浄土往生が必然であるのは、現在が末法時代(像末法滅)だからである。念仏こそ悪から脱する唯一の道だと説く。
善導-凡人と悪人を救うもの、それが名号(南無阿弥陀仏)であり、『本願の大智海』である。『一念』の念仏こそ人生最大の歓喜、と説く。
源信-『極重悪人』の救済への道は念仏をおいてほかにはない。しかし浄土には真実と方便の二種があり、人間の機根に応じて区別されていると説く。
源空(法然)-ただ一つ選択される念仏だけが、善悪を問わずこの末法の世に生まれた凡夫のすべてを救済する。ひたすら信心を大切にせよ、と説く。
・真実の信心(信楽)は阿弥陀如来の本願によって賜ったもの、まことの心(真心)は釈迦牟尼仏のあわれみにおって恵まれたものだ。
・『難治の機』すなわち阿闍世王(父親殺し)は、はたして救われるとしてどのような手立てがあるのか、その救済への道筋を巡って、このあと曲折に富む物語が展開していく。
・耆婆との出会いによって、阿闍世は懺悔の重要性を教えられる。『重悔』と『慚愧』のここによって犯した罪が洗われ、病苦から逃れることを知る。
・『難化の三機』といえども、如来の『大悲の弘誓』を信じ、その『信海』に身を投じて念仏を唱えれば、かならずや救済の喜びが訪れるであろうと言っている。は、仏の本願力のおかげ(廻向)であるにちがいない。それが還相の利益であり、利他(衆生救済)
・この悟りの境地(証)についてであるが、これは『常楽』であり『寂滅』であり、『無常涅槃』、『無為法身』
である。また『実相』とも『法相』とも『真如』そして『一如』ともいいうる境地だ。何とでも表現できるが、要は、それらすべてが如来からたまわったものであるということである。
・『大無量寿経』の『三心』とは至心、信楽、欲生のことだ。『観無量寿経』の『三心』が至誠心、深心、廻向発願心であるという。同じか異なるか。
・親鸞思想の本質-『懺悔三品』と『善知識』
感想;
親鸞が比叡山で学び、法然の弟子で学び、そして自問自答し、そしてその考えをまとめたのが『教行信証』です。
浄土真宗では『歎異抄』が有名ですが、弟子の唯円が親鸞の教えをわかりやすくまとめたものです。
親鸞の悩みは私たちの悩みでもあるように感じました。
親鸞が一番悩んだものは親殺しの悪人は救われるかどうかでした。
自分で人生を何とかしようとする(自力)⇒阿弥陀仏にお願いする⇒阿弥陀仏に全てを委ねる(他力)
親鸞は女人に対する欲望を抑えることができませんでした。
当時僧は妻帯していませんでした。
親鸞は女人への欲望を断つために修行に努めました。
しかし断つことができません。
あるとき、真っ暗な闇から声が聞こえてきました。
「断つ必要はない」
親鸞は悟りました。
女人への欲望を断たなくれも悟りは開ける。
そして妻帯(恵心)しました。
浄土真宗では僧は妻帯しています。
それが他の宗派にも広がっています。
どうしても自分が残り、すべてを任せることができません。
全てを委ねることで救いがあるのです。
キリスト教でも心の中にイエス様を住まわせるというのは全てを任せることなのでしょう。