中学生の時、父親が突然他界。その後、病気により車椅子での生活を余儀なくされた母と知的障害のある弟、高齢の祖母がいる(ウイキペディアより)
・以前書いた、「弟が万引きを疑われ、そして母は赤べこになった」という記事が、ありがたいことにネットで大変な話題になった。
掲載していたのが「note」というブログサービスなのだが、noteには投げ銭機能というものがあり、そちらも大変な大入りになった。
・滋賀県出身、滋賀県在住の別所さんは、ツイッターでわたしたちの旅を見て、いてもたってもいられず撮影にかけつけてくれたのだ。
とんでもなく、いい人である。そして、とんでもなく、よい写真ばかり撮ってくれた。
・休職の2か月間、なにしてたかっていうと、寝たた。陸に打ち上げられたトドのようだった。でもたぶん、トドの方がまだ動いていると思う。
めちゃくちゃ、疲れるの。なにもしてなくても。
とにかく気分の浮き沈みが激しくて、自分の心に身体がついていかない。安全バーなしのジェットコースターに乗っているようなもん。・・・。
ジェットコースターへ乗ることになってしまったきっかけは、仕事で関わった、とある人の、とある心ない言葉だった。
・わたしは、とにかく自分を責めていた。
「あの人が心ないことをいったのは、わたしの仕事の能力が低かったからだ」
・みんなが当たり前にできることが、できない。
守るべきルールが、守れない。
どうにかがんばってみても、失敗ばかり。
ああ、わたしは、他人に迷惑をかけるために生まれてきた非常識人間だ。
そんなコンプレックスとともに、ずっと、生きづらさを感じていた。
でも、理解のある家族や友人に支えてもらって、なんとかやってきた。やってきたと思っていた。
でも、だめだった。27年間生きてきたけど、自分に自信なんてこれっぽっちももてなかった。・・・
心のシャッター閉店ガラガラ状態のときに。
わたしは4歳下の弟・良太と、1泊2日の旅行をすることになった。
良太は、生まれつきダウン症という染色体の異常があり、知的障害もある。・・・
良太は、姉がトド化している原因なんてもちろん、よくわかっていない。・・・
良太の強さを目の当たりにして、わたしは目が覚めた。人と同じようにできない自分を、迷惑をかけている自分を、恥ずかしく思ったり、情けなく思ったりしていたのは、だれでもない、自分だった。
他人じゃない。全部を自分のせいだと決めつけて、勝手に落ち込んでいたのも、自分だった。でも良太を見てみろ。当たり前のことをうまくやれなくたって、彼の人生はうまくいっている。楽しくやれている。楽しくやらない方が、損なのだ。・・・
とんでもなく楽しい旅行を終えたとき、わたしはなんとなく「ああ、もう大丈夫かも」と思った。その直感はあたっていて、少しずつ、少しずつ、大丈夫になった。
それからしばらくして、私は会社へと復帰した。良太のみようみまねで、くよくよ悩むことをやめてみた。人の目を気にすることをやめてみた。
・「車いす生活になるけど、命が助かってよかったわ」
母は笑っていた。・・・母はそれから2年間、入院した。・・・
「もう死にたい」母の声が聞こえた。聞いているのは、看護師さんのようだった。
「歩けないわたしなんて、ヒトじゃなくて、モノになったのと同じ。子どもたちにしてあげられることもない。生きていても仕方ない」
「死んだ方がマシだった」・・・
「ママ、死にたいなら、死んでもいいよ」・・・
「死ぬよりつらい思いしてるん、わたしは知ってる」・・・
「もう少しだけわたしに時間をちょうだ。ママが、生きててよかったって思えるように、なんとかするから」
「なんとかって・・・」
「大丈夫」・・・
わたしは母が生きていてよかったと思える社会をつくるため、福祉と経営を一緒に学べる日本にひとつしかない大学へ進学した。とこで、二人の学生と出会い、株式会社ミライロの創業メンバーになった。3年後、母を雇用した。
母は見違えるほど、明るくなった。「歩けないなら死んだ方がマシ」ではなく「歩けなくてもできることはなんだろう」と、わたしと母は考えるようになった。
・母がいうには、ある手紙を読んでから、元気なフリをするようにしたのだという。
それは、父が高校時代に所属していた野球部の先輩からの手紙だった。
「ひろ美さんへ。
浩二(夫)さんを亡くされて、本当に悲しく、残念なお気持ちと思います。・・・
わたしは子どものこと、父を亡くしました。
子どもはゲンキンなもので、1年も経つと親の死という悲しみを忘れます。
でも、わたしがなによりも悲しくて苦しかったのは、毎日毎日、泣いている母を見ることでした。いまでも覚えています。
だから、ひろ美さん。とてもつらいと思いますが、子どもたちが元気になるまでは、元気なフリをしてあげてください」
・わたしは、下半身が麻痺してしまった母のために、なにかしたくてここへ来た。(関西学院大学)人間福祉学部社会企業学科という、日本にひとつしかないよさげな環境を選んだ。福祉とビジネスを学んだら、きっとなにかが見つかるはずだと思った。でも、なにかなんて名前のものは、どこにも存在しなかった。・・・
ガシャ、ガシャーン。
車いすの前輪が勢いよくウィクリーし、だれの手も借りず、段差を乗り越えていく彼を、わたしは呆然と見ていた。
彼の名前は、垣内俊哉。わたしとは別の大学に通う、2歳上の学生だった。たまたま他の大学の学生が参加できる講義があり、垣内はそこへ来ていた。・・・
「僕は生まれつきの病気で、車いすに乗って生活しています。ぼくの目線の高さは106センチです。この高さだから、見えること、気づけることがあります。だから僕は起業します」・・・
講義が終わって、わたしは弾かれたように彼のもとへとかけ寄った。
「いきなりですみません、起業の仲間に入れて下さい」
「うーん、そっか。じゃあ、なにができそう?」
わたしは言葉につまった。・・・
「ちょっとだけデザインができます! 営業資料や名詞をかっこよくつくれます」
うそだった。デザインといっても、MacBook Airに入っていたペイントソフトをちょっといじられるだけだ。・・・
「それは助かるわ。じゃあ今度、くわしい話をしようか」
帰り道、梅田駅の紀伊国屋書店に駆け込んで、有り金をはたいてデザインの本を購入した。そのあとなんとなくデザインができるようになったので、調子のよいことはいってみるもんである。
・「テレビ番組の『ガイアの夜明け』に出演させてもらおう」と思いついたときも、体当たりだった。無名のベンチャー企業がなんの予兆もなく出演できるわけもないので、とにかく、仕事が終わったら毎晩『ガイアの夜明け』を観た。数年分は観た。江口洋介が夢に出てきた。それでも観続けた。
すると、長く続いているテレビ番組には、ひとつの型のようなものがあると気付いた。社会背景の説明からはじまり、スタジオで専門家が語り、世論を調査し、課題を打破するために奔走する挑戦を追い、インパクトのある画をとらえ・・・といった感じだ。・・・
その型に合わせて、ミライロではどんなシーンを撮ってもらえるかを書き出した。取材に協力してくれるクライアントや、取材が可能な日時まで細かく書き足した。自分が番組の構成作家になったつもりで、企画書のようなものを完成させた。
その企画書のようなものをメールで受け取った番組のディレクターから連絡があった。
「この企画書、このまま会議に出せますよ。助かりました」・・・
ミライロは『ガイアの夜明け』への出演を果たした。これが大反響で、たくさんの仕事が会社へと舞い込んだ。
・ミライロを設立してから3年後。
なんと、母が社員として加わった。
きっかけは、とあるレジャー施設からもらった依頼だ。
「お年寄りのお客さんも多いから、うちもバリアフリーにしたいんです。でも、工事をするのはお金も時間も厳しくて。なんとかなりませんか?」
ハード(施設)は変えられなくても、ハート(人の対応)は変えられる。そう思ったわたしたちは、建物の改修ではなく、スタッフの研修を提案した。・・・
教えるのは、障害のある人がいい。なぜならその方が、わかりやすいからだ。
そこで、私の母を講師として抜擢した。・・・
「岸田先生のおかげで、車いすに乗っているお客さまの心配ごとがよくわかりました。これで自信をもってお客さまをお迎えすることができます。本当にありがとうございます」・・・
帰りの新幹線で、母はほろりと涙を流した。わたしは石のようにかたいアイスクリームをつつきながら、ギョッとした。
「歩けへんくなってから、はじめてだれかからありがとうっていわれたかもしれへん」
うん。
「こんなわたしでもまだ、だれかの役にたてたにゃ」
うん。
「奈美ちゃん、ほんまにありがとう。わたし生きててよかった」
うん
・「ママは、わたしのことなんか嫌いなんやろ。いらんのやろ」
母はびっくりして、理由をたずねた。
「なんでもかんでも、良太のことばっかり。わたしより良太の方が大切なんやろ」
母が、頭をガーンとなぐられたような周夫劇を受けたらしい。母は、わたしと弟を、同じくらい愛していたからだ。
そのころ良太は、本当に手がかかった。急に走り出したり、泣き出したりを繰り返していた。障害があるから他の子どもより、成長も遅かった。
「ゴメンね。奈美ちゃんが良太を守れるように、しっかりしてほしくて、ママは叱っててん。でもそれが奈美ちゃんを寂しくさせてたんやね。ゴメンね」・・・
それからだ。わたしが弟に優しくして、ふたりで仲よく遊ぶようになったのは。
「人を大切にできるのは、人から大切にされた人だけやねんな」母はしみじみいった。
・「岸田さんが苦しいのは、いまの岸田さんを好きになれていないのかもしれない。自分が嫌いだと、他人に評価を求めようとするからね」
そのとおりで、なにもいえなくなった。わたしだって、じぶんのことを好きになりたい。それなのに自信がもてないし、なにより、自分が大好きというのは立派な大人からほど遠いような気がした。
だけど、思い返してみれば、好きな自分でいられるときほど、他人に優しくできているのかもしれない。好きな自分でいられるというのは、行動や考えに確固たる自信をもっていて、見返りがなくとも愛をわけあたえられる状態だ。自分が幸せでなければ、他人の幸せなんて考えられない。
しゃあ、どうすれば、自分のことを好きになれるんだろうか。ぼんやりと悩みつづけて、いろんな人と話し、いろんな本を読んで、浮かび上がった答えは「好きな自分でいられる人との関係性だけを、大切にしていく」だった。
感想;
父が中学生の時に亡くなる。
母は頑張ったことで病気になり、命は助かったが車イス生活になった。
弟はダウン症と知的障害を持っていた。
まさに人生から過酷な試練が問われていました。
著者は母を助けるために福祉とビジネスを兼ねた日本で最初に出来た学部に入学して学びました。
高校二年生の模試ではその学部判定はE(5%の確率)で、何としてでも入りたくて必死に勉強しました。
ミライロの創業者3人の一人として、そしてブログが人気が出て本に。
そして今は作家として活躍されています。
ロゴセラピーでは自分が人生の意味を見つけるのではなく、人生の方から問いかけ(過酷な試練を含め)に応えて必死に生きていると意味を、自分の役割を見つけると言います。
まさに著者はそうだったようです。
そして、母のためにとそれがいろいろな出逢いにもつながったようです。
自分の人生はまさに自分が生きているのです。
それに応えて、できることをする。大きなことでなくてよいのです。
もし出来ることが誰かのために何かのためになると、それはさらに意味あるものになり、自分のためにもなるのでしょう。