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「委託製造の米飯の受入れリスクの検討なかったことが非常に大きな要因」吉田屋の弁当による食中毒の「原因」推定し保健所が公表・記者会見 “吉田屋弁当”集団食中毒

2023-10-16 18:38:58 | 社会
https://news.yahoo.co.jp/articles/c98229b05b86f0bdc645fc7f0d53a2b43b8aebd4 10/16(月) 15:01配信 青森テレビ
 青森県八戸市の弁当製造会社「吉田屋」の弁当による集団食中毒問題について八戸市保健所は16日、食中毒の原因が推定されたため「吉田屋」に対して改善指導をしたと公表。青森県八戸市内で会見を開きました。 

「検収手順・受入れ基準定めず高い温度の米飯を受け入れ」などの食中毒の原因推定 
 八戸市保健所は岩手県内の米飯製造委託業者について関係自治体に調査を依頼し衛生管理について大きな問題はなかったとしています。また、施設で保管していたコメも検査したということですが問題になる菌は検出されていないということです。このほかに保健所は、吉田屋が保管していた盛り付けが終わったあとの具材310件も検査しており、その結果2件から黄色ブドウ球菌、4件からセレウス菌が検出。菌が検出されたのは15日の茶飯と16日の酢飯と具材からだったということです。 

 八戸市保健所 石井敦子 衛生課長 「委託製造された米飯の受け入れが、どういうリスクがあるのかをきちんと検討して確認していなかったことが、非常に大きな要因だと考えています」 
 保健所では16日午前中に「吉田屋」へ推定される原因を報告するとともに改善指導。これを受け吉田屋は「大変重く受け止めており、ご迷惑をおかけしました。今後、再発防止に向けた改善に真摯に取り組んでまいります」とコメントしたとしています。 以下、八戸市保健所が公表した食中毒発生にかかる「推定される主な原因」です。 
【製造施設内】 
〇委託製造した米飯について、検収手順及び受入れ基準を定めていなかったことから、注文時の指示書より高い温度の米飯を受け入れ、米飯冷却までに原因菌が増殖した可能性がある。 
〇委託製造した米飯冷却が配送された外箱(発砲スチロール製)について、殺菌等の措置をせずに、盛り付け室に搬入したことから、米飯、具材などの原因菌が付着した可能性がある。 
〇自社炊飯分の米飯冷却に加え、予定にない、委託製造した米飯の移し替えや冷却が同時に行われたが、その製造記録が残されておらず、手指の消毒、手袋交換等のタイミングや方法が適切に行われず、原因菌が付着した可能性がある。 
〇臨時従業員に対して衛生教育や体調・手指の傷等健康状態の確認を行ったが、これらの記録が残されておらず、通常当該施設で実施されている衛生的な取扱いや健康管理が徹底されず、原因菌が付着した可能性がある。 

【その他】 
〇回収について、当該営業者(吉田屋)からの連絡が一部の販売店まで届かず、16日製造分の一部が販売され、食中毒患者が確認された。回収に関する連絡が確実に販売店まで届くよう、予め定めていなかった。 これまでの保健所の発表によりますと「吉田屋」の弁当(21種)による食中毒患者は29都道府県で計521人確認されました。 また、保健所の調査で患者の便と吉田屋が製造した未開封の弁当からは「黄色ブドウ球菌」と「セレウス菌」が検出されていました。 以下、八戸市保健所による菌の詳しい説明資料の全文です。 黄色ブドウ球菌による食中毒とは… 

【菌の特徴】
 ・人や動物の皮膚、鼻やのどの粘膜、毛髪や食肉、生乳など自然界に広く分布 
・特に、傷口やおできに化膿菌として存在 
・菌自体は熱に弱いが汚染された食品中で熱に強いエンテロトキシンという毒素を作る 

【原因食品】 
・おにぎり、弁当などの調理品 ・二次汚染を受けた食品 (多岐にわたる) 

【症状】 
・嘔吐・吐き気・腹痛など (潜伏期間は30分~6時間) 

【黄色ブドウ球菌による食中毒予防のポイント】 
・手指の洗浄を十分に行う 
・手に傷などの可能性がある場合は、食品にふれない、調理しない 
・調理器具の洗浄・殺菌の徹底 ・食品は低温管理(10℃以下)し、長時間放置しない ・調理にあたっては、帽子、マスクを着用 セレウス菌による食中毒とは… 

【菌の特徴】 
・土壌、河川水などの自然界を始め、農産物、水産物、畜産物などの食料に広く分布 
・熱に強い芽胞を作り、増殖時産生される毒素により食中毒が発生 
・嘔吐型、下痢型がある 

【原因食品】 
嘔吐型:チャーハン、ピラフ、焼きそば、スパゲティー 
下痢型:弁当、食肉、野菜、スープなど 

【症状】 
嘔吐型:吐き気、嘔吐 (潜伏期間:30分~6時間) 
下痢型:腹痛、水溶性下痢 (潜伏期間:8~16時間) 

【セレウス菌による食中毒予防のポイント】 
・一度に大量の米飯や麺類を調理し、作り置きしない 
・穀類等が原料の食品は、調理後保温するか、小分けして速やかに低温保管(8℃以下)する

感想
 微生物に関する知識を高めることなのでしょう。
ご飯が高温だったので、食材に付着していた菌が増殖した可能性が高いようです。

 菌は、①栄養、②温度によって増えます。
食材は栄養の宝庫ですので、温度管理が抜けていたのでしょう。

 米飯を委託するということをしたことでの、その場合の管理が不十分だったようです。

 雪印乳業の大樹工場での微生物に関する知識不足が結局、会社を潰してしまいました。
 他社の失敗から学ぶことと基礎知識を修得することを普段から行うことが事故を防ぐのでしょう。

「人生の価値について」西尾幹二著 ”よく分からないが、考えるきっかけになりました”

2023-10-16 17:47:47 | 本の紹介
・いいかえれば人間は絶え間なく自分に向かって自分でお世辞を言っている存在なのではないか。他人から褒められたときには当然と思い、貶されたときには不当と思うのがその証拠である。・・・これはわれわれの弱さを表している。

・1970年、ソ連では、詩人や作家が原稿を書くと、書いた分だけ政府が原稿料を払ってくれる仕組みになっていた。・・・誰でも作家同盟に登録されると、順番で本を出してもらえる。作品の評価も読者でなく、作家同盟の幹部会がきめてくれた。

・どこかに機械的にきめられた客観的な尺度があるのなら、それはかえって安定しているが、そんな尺度がどこにもないのが「自由」ということである。

・自由という概念は、それだけで単独では成り立たないからではないか。よく考えれば、自由と平等は互いに排斥し合う相反概念である。

・平等は自由に対する歯止めの装置である。

・言葉を介しながら、ともあれ伝達は行われる。どの言葉にも、共通に理解される小さな部分があるからである。その小さな部分をつないで了解し合って人は生きている。誤解し合って生きている、と言ったほうが正解なのかもしれない。人間は相互に誤解をまき散らし、幻想に包まれて生きている、という意味だ。それでも、辛うじて伝達や了解が成り立つのは、言葉の力でなく、言葉が比喩的にほのかに代弁しているなにか背後にあるもの、人間としての共通の体験、共通の精神、社会的にあらかじめ共有されているもの力であろう。言葉はそれを象徴するだけであろう。

・強力な二国の戦争に介入すれば、自分が加勢した国が勝利した場合、勝利者は恩義を感じ、友情のきずなで結ばれる。敗北した場合でも、敗北者は運命の同行者に感謝し、力になってくれる日が必ずまたくる。これに対し中立の立場に立つと、必ず勝利者の餌食になるだろう。逆境のときに助けとならなかった怪しげな中立者は、征服される。他方、敗北者のほうでも、自分の運命を賭けようとしなかった卑怯者を軽蔑し、機会をつかんで意趣返しをする。ただし以上は強力な二国を相手にした場合で、恐れる必要のない弱小の二国の場合はには、一方に加担し、他方を滅ぼすようなことをしてはならない。両方を生かし活用すべきである、と、マキアヴェリはわざわざ但し書きを加えているのである。

・韓非子
「君主に説く者が重臣のことをあげつらうと、君主はこやつ自分と重臣との仲を裂こうとしているなと考え、他方、位の低い人のことをあげつらうと、こやつお上の権勢を笠に着て威張っているなど考えるだろう。君主の寵愛している人のことをとやかくいえば、こやつ彼らを利用し出世しようとしているなと考え、君主の憎悪している人のことをとやかくいえば、こやつわしの心を試そうとしているなだなと考えるだろう。・・・」

韓非子の悲劇にあの奸智に長けた宰相李斯の黒い影がつきまとっているように、歴史の動乱期には、とかくこの種の奸策が出現しがしである。

・人間の意識はたえず気ままに揺れ動き、一か所に止まっていない。正常な人間は、一瞬前に自分を襲った想念にいつまでもこだわっていないし、周りの変化する現実と適宜に交渉し、意識の転換を自由に行うことで、生活者としてのバランスを保つことに成功している。

・『天窓のあるガレージ』日野敬三著

・いずれにせよ、これら孤独な、よるべない心はなにものかに簡単に吹き寄せられ、最近では新宗教の名で呼ばれる集団的“囲いこみ”現象を呈して騒ぎになっているが、しかし考えてみると、自由衝動は現代人の誰にもある一般的傾向である。現代人は社会的な道徳や掟で自分を支えていた制約を失い、自由になった代わりに、自由が不安で、自分を維持するため各自が心のなかになんらかのガレージを装置しようとしてるからである。

・差別は、なくそうとしてなくなるものではない。・・・無差別が広がると別の面で差別が強まるのが人間社会の宿命であることは前にも書いた。

・苦も楽も一つである。幸福な人生といっても時間のなかのことであり、偶然が与えてくれた贈り物、あるいは無数の人間の苦悩するなかで束の間に掠め取ったもの-それはしょせん乞食が王様になった夢を見ているにすぎない。やがて夢からさめれば、人生の苦悩からほんの刹那の錯覚によって切り離されていただけだと悟るだろう。

・インド人の太古の聖賢のことば
「世界はあるともいえないし、また、ないともいえない。なぜなら世界は夢に似ていて、旅人が遠くから見て水かと思う砂上の陽光のようなものだし、また旅人が蛇かと思う投げすてられた縄にも等しいからである」

・フランス18世紀のモラリスト、ヴォーヴナルグ公爵『省察と箴言』
「理性よりも、この苦痛は必然のものだという考えの方が、苦痛を和らげてくれる」
 苦しみを癒すのに、たしかに理性は役立たない。自分のこの苦しみは偶然に自分ひとりにだけ課せられたものではなく、同時代にほぼ例外なく、必然的に与えられたものあって、いかにしても逃れるすべはなかったのだ、という認識は、百の説教よりも、私たちの苦痛を癒すのに役立つであろう。改善の可能性が閉ざされている場合には、人は苦痛さえ感じないことがある。不幸それ自体が人を苦しめるのではなく、自分だけが不幸で、しかもひょっとしてうまくやれば自分は不幸から逃れたかもしれないのにと失錯の意識が、人を苦しめ、不幸の実感を一段と際立たせるのである。

・たとえどんな悪い過去でも、自分の過去は自分のいとおしい一部なのである。

・人はその長い人生を後悔せずに生きていくことは難しい。しかし後悔した甲斐もあって、おかげでなにか良いことが成就されたというためしはほとんどない。後悔したことを後悔さるのが関の山である。心の内側に出口を失ってとぐろを巻く自家中毒は、気休めさえ与えてくれない。

・私は自分でなにかの行動をしておきながら、後になって、あんな行動はできればなかったことにしておきたいのだ、などと考えること自体が無意味に思える。そんなことをするくらいなら、自分の行動がたとえ悪い結果を生んだとしても、とにもかくにもそれは自分のしたことなのだから、自分でその負債を全部背負い込むほかなく、したがって、結果の善し悪しをのっけから問題にしないように意を決したほうがいい。後悔しても、過去の自分は消えてなくなるものではない。過去はたとえ失敗の連続であったにせよ、その過去は現在のなかに流れ込み、現在の自分の一部を形成しているのである。それをしも否認することはできないのだ。後悔は、だからこそ、現に存続している今の自分を裏切る自己欺瞞ということになる。
 それだけでなく、後悔を重ねて、自分の過去の悪を切り捨てよう、切り捨てようと意識しているかぎり、今これからしなくてはならない行動、未来へ向けての行動にかえって災いを引き起こすことになりかねないだろう。私はそういう人をたくさん見て来た。過去ばかり気にして――一見良心的で、誠実な人間に見えるのだが――、未来に対する行動において判断の目を失い、ふたたび同じ失敗や間違いを繰り返すという例である。まるでかの罪に取り憑かれて、いつまでも呪縛されたままであるかのようにさえ見える。後悔は、この点で百害あって一利ないのだ。
 それなら過去に犯した罪や失敗に対し、われわれはどう対処したらよいのだろう。一切無視してしまえということなのか。考えないことにしてしまえがよちおいうことか。あきらめてしまえばそれでよいのか。私はそういうことを言っているつもりはない。むしろ、自分がなにかの行動をした結果がたとえ悪と判明したにしても、そこ結果から問題を判断してはいけないと言っているのである。自分なにかの行動をした――その時点での行動はそれなりに重いのであって、結果の善し悪しとは別に、そのときの自分をもっと尊重したらどうか、と言っているまでだ。・・・
 失敗や過失を否定するのではなく、むしろ歓迎するという思い切った心の転換こそが必要ではないか。

・パスカル
「人間というものは、どんなに悲しみで満ちていても、もし人が彼をなにか気を紛らわすことへの引き込みに成功してくれさえすれば、そのあいだだけは幸福になれるものである」

・「人は真実を知る権利があるというが、誰にでも知りたくない事実というものがある。自分の弱点を人は知りたがらない。また他人に知られたくない」

・私の言いたいのは、つきつめて考えると、この人生に生きる価値があるのかどうかを問うことをわれわれはある意味で封じられているということである。そういう問いが心中に沸き起こるのは自然なことであり、いかにも避けられない。われわれに生には究極的に目的も意味もないのかもしれない。そう問うことは自由であり、可能である。けれども人生はは無価値だと断定するのもなが虚偽なのである。なぜなら、人間は生きているかぎり、生の外に立って自分の生の全体を対象化して眺めることはできないからである。われわれは自分の人生の価値について客観的な判定者にはなれない。

感想
 西尾幹二氏はニーチェ研究者で有名だそうです。
普段持たない、視点が至る所にあり、人生の価値をそう言った視点から眺めてみるのも良いかもしれません。
 なにより、"後悔”することは意味がないとのことはその通りだなと思いました。
悪いことも含めて今があるのです。悪いことだからないほうがよいと思って神様に頼んでそれをなくすと、今の自分ではないのです。
 後悔することよりも受け入れて、後悔する時間があれば今、ここで、何をするのが良いか、何をしたいのかを考え行動することなのでしょう。