< href="https://news.yahoo.co.jp/articles/1a642bd0386898a9ac23d2e582b06312f183abf1">https://news.yahoo.co.jp/articles/1a642bd0386898a9ac23d2e582b06312f183abf1 10/13(金) 6:31配信 中央公論
新型コロナウイルスの流行以来、私たちは感染症を意識した生活を余儀なくされている。しかし歴史を振り返れば、人類は常に感染症に翻弄されてきた。日本に限っても、天然痘、赤痢、コレラなど、症状が激烈で死亡率も高い感染症が、定期的に猛威をふるった。 西洋医学が導入された明治期においても状況は変わらず、例えばコレラは、明治10年代(1877年~)だけでも、10万人以上の死者を出す大流行を二度も引き起こしている。現場での「防疫」は、おもに感染場所の消毒と「避病院」への患者の隔離であった。病院とは名ばかりの避病院では、次々と患者が亡くなったため、人々は「死病院」と呼び、隔離を恐れた。そして、まじないやデマを妄信した。
行政による強硬な防疫のみならず、米価高騰に対する不満も重なり、全国で暴動が起こるなか、千葉の鴨川では40代の医師が、数十人の住民から竹槍で滅多刺しにされ、川に遺棄されるという事件が起きている。住民たちは、「避病院への隔離は患者の生き胆を抜くため」というデマを信じ、さらに医師が井戸を消毒する姿を「毒を撒いている」と誤解したのである。
こうした時代に、有効な感染症対策を講じ、先頭に立って実践し、劇的な成果を収めたのが、「日本のナイチンゲール」と言われる
大関和(おおぜき・ちか)である。
大関和は、幕末に黒羽藩(現在の栃木県大田原市付近)の国家老の娘として生まれた。早くに嫁いだが、妾の存在に嫌気がさし、当時としては珍しく妻側からの離縁を果たす。 東京神田の母親の家に身を寄せ、女中をしながら幼い息子と娘を育てた。手に職をつけるべく通っていた英語塾でキリスト教に出会い、牧師から「看護婦」になることを勧められる。
当時、日本にはまだ専門的に学んだ「看護婦」はいなかった。コレラ患者が出た家で、家族への感染を防ぐために「看病婦(看病人)」が雇われることがあったが、素人同然の彼女たちは、感染して亡くなることも珍しくなかった。また、戊辰戦争や西南戦争の戦場では怪我人が続出したが、兵士たちはろくな手当ても受けられないまま亡くなっていった。 こうした状況を憂い、現在の日本赤十字社の祖となる佐野常民や、東京慈恵会の祖となる高木兼寛、そしてアメリカからやってきた女性宣教師たちが、本格的に看護婦を育てようという動きを見せていた時期であった。
和はこの中の一つ、アメリカ人宣教師マリア・トゥルーが設立した「桜井女学校附属看護婦養成所」に一期生として入学した。明治20(1887)年、28歳のときである。マリアは、明治期の日本の女子教育に心血を注いだ人物で、女子学院の創設者としても知られている。 看護学校を卒業した和は、現在の東京大学医学部附属病院の外科婦長として迎えられた。当時の和について「新鮮な知識、人類愛に輝く瞳――そして純白のユニフォームに、わが国看護婦の輝ける先駆者としての意気を示したばかりでなく、当時の最先端女性として職業戦線をさっそうと行った」(『東京日日新聞』1932.5.25)と評す新聞記事が残っている。
慈愛に満ちた看護に、患者たちの信頼も厚かったが、医師たちは患者第一の姿勢を煙たがった。和が、看護婦たちの労働環境や待遇の改善について意見したことがきっかけで、医師らとの軋轢は決定的となり、退職を余儀なくされる。失意のなか、和はマリアの伝手で越後高田の女学校の舎監となり、その後、同地の「知命堂病院」の婦長の職を得た。
村人たちの信頼を得て、赤痢を制圧
当時、毎年夏になると、全国各地で赤痢の集団感染が発生し、多数の死者を出していた。越後も例外ではなく、県から病院へ、近隣の村の防疫に協力するよう要請があった。看護学校で欧米の最新の感染症対策について学んでいた和は、防疫こそ看護婦の力が発揮できる機会だと確信する。県が用意した馬車に、桶や鋤、消毒用具、雑巾、清潔な手拭い、米俵などを積み込むと、若い看護婦二人をともない、医師に同行した。
村で巡査、役場の助役、消毒係らと合流し、家々をまわって隔離のための診察を行おうとすると、村人たちから激しい抵抗に遭った。赤痢と診断されれば「死病院」へ隔離され、それでも流行が収まらない場合は、村ごと焼き払われることもあったからだ。 和は、今にも鎌を振り上げて襲ってきそうな村人たちを前に、自分たちは避病院を改良し、患者たちの回復を助けるために来たので、力を貸してほしいと訴えた。助役は勝手なことをするなと諫めたが、医師は賛成した。避病院への隔離が進まない限り、感染者は増える一方であり、そのためには避病院を改良するほかに方法がない。 さらに和は、持参した米で粥を炊いてほしいと村人たちに頼んだ。本気で患者を助けようとする和の真摯な態度に、村人たちは協力を申し出る。
感染症対策で全国に名を馳せた大関和
和ら看護婦と村人たちは、知命堂病院から持ってきた桶や鋤などの道具を大八車に乗せ、四町(約440メートル)ほど離れた避病院へ向かった。それは見るからに粗末な20畳ほどの小屋で、敷きつめられた布団には、糞尿にまみれた患者たちが虫の息で横になっていた。赤痢は子どもの方が重症化しやすいため、収容されている患者の8割が子どもであった。
和はここで、看護学校で学んだナイチンゲール方式にもとづく感染症対策を徹底して行った。それは、放置されていた排泄物の処理、簡易な便所作り、丁寧な掃除と換気、患者の身体と衣類を清潔に保つことであった。
さかのぼること35年、フロレンス・ナイチンゲールは、クリミヤ戦争の野戦病院において同様の対策を行い、死亡率を43パーセントから2パーセントまで下げることに成功している。 こうした対策は、今日では当たり前のことだが、明治の日本ではまだ「衛生」という概念自体が普及していなかった。
「死病院」の悪臭のなかで死を待つばかりだった子どもたちは、きびきびと働く看護婦たちの姿に励まされる。このあと和の提案で、小屋がもう一棟建てられ、重症者と軽症者が分けられる。軽症者用の建物には台所が設えられ、食事の提供も行われるようになる。
和の感染症対策は劇的な効果を上げ、名声は全国へ広がった。各地から防疫の依頼が殺到し、和は看護婦たちを率いて対策に向かった。
このときのことを女性史研究家の村上信彦は、こう記している。
「その看護は文字どおり愛と献身にあふれた無私の奉仕で、それだけ異常な成果をあげた。(中略)群馬県の九十九村では百名の赤痢患者を扱って死者わずかに六名、埼玉県の加治村でも百名の赤痢患者のうち死者五名、あとは全員完治させている。(中略)当時の医療水準から考えればこれは奇蹟とも言うべきで、いかに看護の力が大きかったかをものがたっている」(『大正期の職業婦人』)
和は後進の育成や、執筆や講演による衛生概念の普及にも努めた。
日本の看護の近代化に捧げた人生
和は、看護学校の同窓で、盟友ともいえる鈴木雅とともに、病院から独立した「派出看護婦」という働き方を確立したことでも知られている。当代随一の派出看護婦として、政財界の重鎮たちからの指名が尽きなかったが、最も力を入れたのは、貧民救済活動や無償看護であった。和の看護の背景には、キリスト教の教えに基づく「報酬をあてにせず、行為それ自体が酬いなのだという考え方」(同上)があった。
実際、働きづめであったにもかかわらず、常に借金を抱えており、質屋通いを続けていた。孫によれば、いつも「金は天下の回り持ち」と言って笑っていたという。 大関和は、関東大震災における救護活動を最後に看護婦を引退し、昭和7(1932)年に74歳でこの世を去った。 今日でも、感染症対策の基本は、衛生環境を保つことである。医療よりもまじないやデマが信じられた時代に、衛生の重要性を社会に知らしめ、率先して対策に取り組み、後進を育てた大関和は、日本の感染症対策の先駆者と言っても過言ではない。感染症に向き合わざるをえない今こそ、彼女の功績はもっと知られるべきであろう。
感想;
大関和さんのこと知りませんでした。
ナイチンゲールが統計を知っていたので、看護の世界にサイエンスを導入して多くの人を救いました。それを当時のヴィクトリア女王に分かりやすく説明し、看護がスタートしました。
まさにナイチンゲールの行ったことを日本でも実践された人でした。
せめて私たちは、大関和さんのことを知ることが感謝の気持ちを表すことなのでしょう。