幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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「責任を取れ」「恥を知れ」傍聴席からやじ 「虐待禁止条例」で揺れた埼玉県議会、最終日は混乱 ”見沼区の恥、さいたま市の恥、埼玉県の恥/田村議員だけでなく、自民党と公明党も同じレベル、しっかりしてよ!”

2023-10-14 16:22:44 | 社会

 9月定例埼玉県議会最終日の13日、自民党県議団(田村琢実団長)が提出し県内外から批判を浴びた虐待禁止条例改正案の取り下げが承認された。本会議では傍聴者が「責任を取れ」「説明しろ」と大声でやじを飛ばすなど混乱が生じた。

 県議会の傍聴規則では、傍聴者は傍聴席にプラカードなどを持ち込んだり、騒いだりすることは禁止されている。しかし、同日は約64人の傍聴者のうち数人がプラカードや垂れ幕を掲げて「恥を知れ」などと声を上げた。

 立石泰広議長は「議事の妨害は禁止されている。従わなければ退場を命じる場合がある」と警告を繰り返したが、同改正案が可決された福祉保健医療委員会の報告時にはやじで報告が聞こえなくなる事態となった。

 傍聴席で垂れ幕を掲げやじを飛ばした市民団体「世なおし埼玉県民の会」の武内暁共同代表は「(禁止と)分かっているが、表現の自由を重視している。改正案取り下げだけで『よかった』とは思わないし、本会議で十分な説明がなく県民を無視している」と主張した。

感想
 このことを覚えていて、次回の選挙では投票しないことでしょう。
そうしないとまた県民の声を無視した法案が提出されます。

 田村議員は「法案に瑕疵はない」とまったく理解できていません。
気の毒になるほど、理解する知識、判断能力が欠如しているのです。
それに同調した自民党と公明党も同じですが。

 自民党の国会議員の方がまともでした。

ジャニー喜多川氏の性加害の闇を高橋裕樹弁護士が指摘「誰がこの法律知識をつけたのか…」 ”事務所が法を超えてどこまで誠意を見せるか?”

2023-10-14 07:30:17 | 社会

 弁護士ユーチューバーの高橋裕樹氏が13日、自身のユーチューブチャンネルを更新し、故ジャニー喜多川氏による性加害問題で、被害者への和解金について解説した。 

 高橋氏は、ジャニーズ事務所が行った会見で、東山紀之社長が発した「法を超えた救済」発言について、「裏を返すと法律を厳格に適用すると壁がある。大半の人は請求できません、となる」と解説した。  
法律の壁については、(1)証拠(2)金額(3)時効の3つがあるという。
(1)の証拠については、証拠がなくても加害者が認めた場合に事実として認定されているが、ジャニー氏はすでに亡くなっている。被害者のあいまいな供述だけでは証拠として不十分で、大きなハードルになると話した。  またジャニー氏の闇として「13歳になった後のジュニアの方々しか性被害に遭っていないということです。13歳未満(現在の性交同意年齢は16歳以上)であれば、同意があっても強制性交やわいせつ罪になってしまう可能性がある。13歳を超えると同意があればOKという話になる。誰がこの法律知識をつけたのかなぁとは思います」と指摘した。  
(2)の金額について「『慰謝料算定の実務』の中で見ると100万円から600万円のレンジが一番多い」と説明。また逸失利益(性被害に遭わなければ得られたお金)についても、「デビュー=人気が出る」は成立しないとして、請求するのは難しいと見通しを語った。  
(3)の時効については、不法行為は被害を受けてから3年で成立する。「事務所に対しての損害賠償を考えるんだったら、10年までは行けるかもしれない。多くの方は10年の壁にぶつかってしまうだろうなと思います」と話した。  

 そのために法を超えた救済が必要となる。高橋氏は「『私は被害者です』という申告ベースに乗らざるを得ないでしょう。(被害の内容に)差を付けるのも難しいと思う。そうなると『基金総額(SMILE―UP.が用意できるお金)÷被害者の数』といった一律対応しかしようがないんじゃないかと思います」と予想した。  また基金と表現した理由について「今回のジャニーズの被害者を作ったのが誰なのかを幅広く考えた場合にテレビ局、雑誌、芸能関係の方々も含めて、いろんな方々が大なり小なり基金に支出しても良い案件だと思います」と私見を述べた。

感想
 法律を立てにすると、10年以上経過しているので、ほとんどが時効が成立しているのでしょう。
 13歳以上なので、同意と見なされる可能性大です。ジャニーズ喜多川は亡くなっているので、加害者が認めることができません、
 100~600万円仮に支払うとした場合、500万円×200人とすると10億円です。
ジャニーズ事務所にすればいたく痒くもない話です。
 通常の補償を超えて1,000万円としても20億円です。
相続税の支払い猶予の860億円から考えると微々たるものです。
 ケチって、法律を立てにしてイメージダウンを重ねるより、ここは誠意を見せることでしょう。被害者が言ったのを検証することはできないのですから。
 コンサルならそういうアドバイスはできないのでしょうか?

新型コロナ・インフルエンザの同時流行でふり返る、日本のナイチンゲール大関和の偉業。「鎌を振り上げて襲ってきそうな村人」の心を動かし、赤痢の集団感染に立ち向かう “離縁が新しい人生に/看護の力を具現化”

2023-10-14 02:51:18 | 社会
< href="https://news.yahoo.co.jp/articles/1a642bd0386898a9ac23d2e582b06312f183abf1">https://news.yahoo.co.jp/articles/1a642bd0386898a9ac23d2e582b06312f183abf1 10/13(金) 6:31配信 中央公論

 新型コロナウイルスの流行以来、私たちは感染症を意識した生活を余儀なくされている。しかし歴史を振り返れば、人類は常に感染症に翻弄されてきた。日本に限っても、天然痘、赤痢、コレラなど、症状が激烈で死亡率も高い感染症が、定期的に猛威をふるった。  西洋医学が導入された明治期においても状況は変わらず、例えばコレラは、明治10年代(1877年~)だけでも、10万人以上の死者を出す大流行を二度も引き起こしている。現場での「防疫」は、おもに感染場所の消毒と「避病院」への患者の隔離であった。病院とは名ばかりの避病院では、次々と患者が亡くなったため、人々は「死病院」と呼び、隔離を恐れた。そして、まじないやデマを妄信した。  
 行政による強硬な防疫のみならず、米価高騰に対する不満も重なり、全国で暴動が起こるなか、千葉の鴨川では40代の医師が、数十人の住民から竹槍で滅多刺しにされ、川に遺棄されるという事件が起きている。住民たちは、「避病院への隔離は患者の生き胆を抜くため」というデマを信じ、さらに医師が井戸を消毒する姿を「毒を撒いている」と誤解したのである。  
 こうした時代に、有効な感染症対策を講じ、先頭に立って実践し、劇的な成果を収めたのが、「日本のナイチンゲール」と言われる大関和(おおぜき・ちか)である。


 大関和は、幕末に黒羽藩(現在の栃木県大田原市付近)の国家老の娘として生まれた。早くに嫁いだが、妾の存在に嫌気がさし、当時としては珍しく妻側からの離縁を果たす。  東京神田の母親の家に身を寄せ、女中をしながら幼い息子と娘を育てた。手に職をつけるべく通っていた英語塾でキリスト教に出会い、牧師から「看護婦」になることを勧められる。  
 当時、日本にはまだ専門的に学んだ「看護婦」はいなかった。コレラ患者が出た家で、家族への感染を防ぐために「看病婦(看病人)」が雇われることがあったが、素人同然の彼女たちは、感染して亡くなることも珍しくなかった。また、戊辰戦争や西南戦争の戦場では怪我人が続出したが、兵士たちはろくな手当ても受けられないまま亡くなっていった。  こうした状況を憂い、現在の日本赤十字社の祖となる佐野常民や、東京慈恵会の祖となる高木兼寛、そしてアメリカからやってきた女性宣教師たちが、本格的に看護婦を育てようという動きを見せていた時期であった。  
 和はこの中の一つ、アメリカ人宣教師マリア・トゥルーが設立した「桜井女学校附属看護婦養成所」に一期生として入学した。明治20(1887)年、28歳のときである。マリアは、明治期の日本の女子教育に心血を注いだ人物で、女子学院の創設者としても知られている。  看護学校を卒業した和は、現在の東京大学医学部附属病院の外科婦長として迎えられた。当時の和について「新鮮な知識、人類愛に輝く瞳――そして純白のユニフォームに、わが国看護婦の輝ける先駆者としての意気を示したばかりでなく、当時の最先端女性として職業戦線をさっそうと行った」(『東京日日新聞』1932.5.25)と評す新聞記事が残っている。  
 慈愛に満ちた看護に、患者たちの信頼も厚かったが、医師たちは患者第一の姿勢を煙たがった。和が、看護婦たちの労働環境や待遇の改善について意見したことがきっかけで、医師らとの軋轢は決定的となり、退職を余儀なくされる。失意のなか、和はマリアの伝手で越後高田の女学校の舎監となり、その後、同地の「知命堂病院」の婦長の職を得た。

村人たちの信頼を得て、赤痢を制圧
 当時、毎年夏になると、全国各地で赤痢の集団感染が発生し、多数の死者を出していた。越後も例外ではなく、県から病院へ、近隣の村の防疫に協力するよう要請があった。看護学校で欧米の最新の感染症対策について学んでいた和は、防疫こそ看護婦の力が発揮できる機会だと確信する。県が用意した馬車に、桶や鋤、消毒用具、雑巾、清潔な手拭い、米俵などを積み込むと、若い看護婦二人をともない、医師に同行した。  
 村で巡査、役場の助役、消毒係らと合流し、家々をまわって隔離のための診察を行おうとすると、村人たちから激しい抵抗に遭った。赤痢と診断されれば「死病院」へ隔離され、それでも流行が収まらない場合は、村ごと焼き払われることもあったからだ。  和は、今にも鎌を振り上げて襲ってきそうな村人たちを前に、自分たちは避病院を改良し、患者たちの回復を助けるために来たので、力を貸してほしいと訴えた。助役は勝手なことをするなと諫めたが、医師は賛成した。避病院への隔離が進まない限り、感染者は増える一方であり、そのためには避病院を改良するほかに方法がない。  さらに和は、持参した米で粥を炊いてほしいと村人たちに頼んだ。本気で患者を助けようとする和の真摯な態度に、村人たちは協力を申し出る。

感染症対策で全国に名を馳せた大関和
 和ら看護婦と村人たちは、知命堂病院から持ってきた桶や鋤などの道具を大八車に乗せ、四町(約440メートル)ほど離れた避病院へ向かった。それは見るからに粗末な20畳ほどの小屋で、敷きつめられた布団には、糞尿にまみれた患者たちが虫の息で横になっていた。赤痢は子どもの方が重症化しやすいため、収容されている患者の8割が子どもであった。  
 和はここで、看護学校で学んだナイチンゲール方式にもとづく感染症対策を徹底して行った。それは、放置されていた排泄物の処理、簡易な便所作り、丁寧な掃除と換気、患者の身体と衣類を清潔に保つことであった。
 さかのぼること35年、フロレンス・ナイチンゲールは、クリミヤ戦争の野戦病院において同様の対策を行い、死亡率を43パーセントから2パーセントまで下げることに成功している。  こうした対策は、今日では当たり前のことだが、明治の日本ではまだ「衛生」という概念自体が普及していなかった。  
 「死病院」の悪臭のなかで死を待つばかりだった子どもたちは、きびきびと働く看護婦たちの姿に励まされる。このあと和の提案で、小屋がもう一棟建てられ、重症者と軽症者が分けられる。軽症者用の建物には台所が設えられ、食事の提供も行われるようになる。  
 和の感染症対策は劇的な効果を上げ、名声は全国へ広がった。各地から防疫の依頼が殺到し、和は看護婦たちを率いて対策に向かった。
 このときのことを女性史研究家の村上信彦は、こう記している。 
「その看護は文字どおり愛と献身にあふれた無私の奉仕で、それだけ異常な成果をあげた。(中略)群馬県の九十九村では百名の赤痢患者を扱って死者わずかに六名、埼玉県の加治村でも百名の赤痢患者のうち死者五名、あとは全員完治させている。(中略)当時の医療水準から考えればこれは奇蹟とも言うべきで、いかに看護の力が大きかったかをものがたっている」(『大正期の職業婦人』)  
 和は後進の育成や、執筆や講演による衛生概念の普及にも努めた。

日本の看護の近代化に捧げた人生
 和は、看護学校の同窓で、盟友ともいえる鈴木雅とともに、病院から独立した「派出看護婦」という働き方を確立したことでも知られている。当代随一の派出看護婦として、政財界の重鎮たちからの指名が尽きなかったが、最も力を入れたのは、貧民救済活動や無償看護であった。和の看護の背景には、キリスト教の教えに基づく「報酬をあてにせず、行為それ自体が酬いなのだという考え方」(同上)があった。  
 実際、働きづめであったにもかかわらず、常に借金を抱えており、質屋通いを続けていた。孫によれば、いつも「金は天下の回り持ち」と言って笑っていたという。  大関和は、関東大震災における救護活動を最後に看護婦を引退し、昭和7(1932)年に74歳でこの世を去った。  今日でも、感染症対策の基本は、衛生環境を保つことである。医療よりもまじないやデマが信じられた時代に、衛生の重要性を社会に知らしめ、率先して対策に取り組み、後進を育てた大関和は、日本の感染症対策の先駆者と言っても過言ではない。感染症に向き合わざるをえない今こそ、彼女の功績はもっと知られるべきであろう。

感想

 大関和さんのこと知りませんでした。
ナイチンゲールが統計を知っていたので、看護の世界にサイエンスを導入して多くの人を救いました。それを当時のヴィクトリア女王に分かりやすく説明し、看護がスタートしました。
 まさにナイチンゲールの行ったことを日本でも実践された人でした。
せめて私たちは、大関和さんのことを知ることが感謝の気持ちを表すことなのでしょう。