幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

【木原事件詳報】捜査継続を願う被害者の母親が告白…事実上終了した再捜査の背後に見え隠れする、嫁の再婚相手の「大物政治家」 ”なぜ検察が調べないのか?/調べたくない理由があるのか?”

2024-01-28 12:48:18 | 社会
 2006年、ある男性が自死した。安田種雄さん(享年28)だ。しかし、死亡当時から不審な点が多く、遺族は「他殺」を信じ、苦しい思いと喪失感に苛まれてきた。 
  一度は再捜査されたものの、1年たたずに縮小。だが、事件から17年経った2023年、種雄さんの死に再び疑問符がつけられることに。  今回、「真実が知りたい」と訴える被害者の母親が、事件後初めて単独取材に応じ、その苦しい胸の内を吐露した。『「嫁は夫の死亡当日に不倫相手とピース」「義兄はサンダルで弔問」…非常識な嫁家族に対して、被害者遺族が「違和感」を抱いたワケ』に続き、ジャーナリストの横田由美子が聞いた。

種雄さんの死は事件です

 「私は逃げていた。自殺なら諦めるしかない。だからそう思うようにしていたんです」  涙を流しながら2006年に文京区・大塚の自宅で不審死した安田種雄さん(享年28)の母・かよこさん(仮名・69歳)はそう言葉を続けた。  一度は自殺として片付けられた種雄さんの死だったが、2023年7月に『週刊文春』が報じたことで、事態は大きく動いた。  当時、種雄さんの妻だった恵子(仮名)が、その後、種雄さんとの間にもうけた2人の子を連れ、岸田総理の懐刀である木原誠二衆議院議員(53歳)と再婚したこと。また、18年に大々的に再捜査が始まるも、突然打ち切られたこと。その後、警視庁捜査一課の捜査員だった佐藤誠元取調官が実名で「これは殺人だ」と告発したことなどから、種雄さんの不審死は、通称「木原事件」と呼ばれるようになった。  今回、種雄さんの母親・かよこさんが単独インタビューに応じたのは、「事件を風化させたくない」という強い思いからだ。  種雄さんの死は「自殺」だと自らに言い聞かせていたかよこさん。その心を溶かしたのは、事件から12年後に訪ねてきた刑事だった。  「種雄さんの死は事件です。自分は、種雄さんのためにも犯人を捕まえたい。捜査に協力してください」  初めは断った。

血まみれの服を残しておいた夫の気持ち
 「二度と、つらい記憶を甦らせたくない。私たちは、種雄の事件は忘れて生きてきた。『もう、来ないでください』と言って、ドアを閉めました」(かよこさん)  だが、その刑事は諦めなかった。その熱意に、頑なだったかよこさんの心が次第にほだされていった。「DNA検査をしたい」という求めに、夫の南永さんは息子の骨壺の背後にある戸棚から、事件の晩、種雄さんが着ていた血まみれの服を取り出して渡した。  「それを見た時、私は涙が止まらなかった。夫は、種雄が殺されたという疑念を捨てていなかったんです。だから服をとってあったの」(かよこさん)  かよこさんは息子の骨の前で泣き崩れた。そして何度も、何度も、「ごめんね、ごめんね」と謝った。どんなに痛かっただろう、苦しかっただろう――。  
 種雄さんの死因は失血死だった。その最期は自らの手で頭上から自分の喉を肺に貫通するほど強い力で刺し、自分の横にきちんと置いて絶命したとされていたが、常識的に考えてもありえない。そもそも種雄さんは、恵子と離婚して子ども2人を引き取り、3人で頑張って生きていこうとしていたのだ。

恵子が再婚した木原誠二衆議院議員
 2018年から始まった再捜査は順調に進んでいるように見えた。芳名録に記されていた名前をもとに、捜査班は、北海道から九州まで、関係者を探し訪ねて聞き込みを続けた。種雄さんの姉を含め、調書にサインをした人も少なくなかった。  「あと、もう少しで犯人を逮捕できるかもしれない」  遺族は、捜査員からそんなうれしい言葉も告げられた。  だが、ある時を境に、風向きが突然変わった。恵子は再婚していた。その相手は、木原誠二という、政府与党で将来を嘱望されている国会議員だったのだ。  
 かよこさんは腰を抜かすほど驚いたという。  ある日のことだった。  いつものように訪ねてきた刑事が、「お母さん、すみません、すみません」と、謝ったまま顔をあげない。  「どうしたの?」  「自分は、この件から外れることになりました」  捜査が難しくなったのだろうか。かよこさんが黙っていると、刑事は、上司に異議を唱えたが、その上司は彼にこう伝えたという。  「上からの指示だから、これで終わりなんだよ」  その後、数十人いた捜査班は、数人に縮小された。遺族には「縮小したが、操作は継続される」と告げられたが、事実上再捜査は止まった。

「真実が知りたい」と検察で懇願
 それから5年の月日が過ぎた。諦めかけていた2023年の初夏、「事件について話を聞きたい」と、種雄さんの父親・南永さんを訪ねてきた人がいた。差し出された名刺には『週刊文春』と記載されていた。種雄さんの不審死から17年。遺族の本当の戦いが始まった日でもあった。  2023年10月18日、遺族は当時、事件の捜査を担当していた警視庁大塚警察署に「被疑者不詳の殺人」で告訴状を提出、同25日に受理され、3回目の捜査が行われることになった。  しかし、警視庁は再び杜撰な捜査を恥ずかしげもなく行い、わずか1ヵ月半後の12月16日、「事件性なし」として、捜査終了をメディアに告げた。種雄さんの事案は東京地方検察庁に送付された。  かよこさんら遺族が地検の検事と面会できたのは、クリスマス当日。  『週刊文春』が「木原事件」を最初に報じてから、すでに半年近くが経っていた。かよこさんは、床に頭をつけて「真実が知りたい」と訴えた。  検事は「しっかり調べる」と約束してくれたが、その言葉を信じてよいのか――遺族は期待と不安が入り混じった感情を抱いた。
息子を愛する気持ちは誰にも負けない

 かよこさんは今、毎日、朝夕と種雄さんの遺影に線香をあげ、心の中で息子と会話している。  「木原(誠二)さんには、嫁(恵子)に捜査に協力して、見たこと聞いたことを全て話すように促してほしい。種雄があのような死に方をしたのに、隣で寝ていて気がつかないなんてあり得ない。それと18年の再捜査の時の刑事さん、どうして捜査が途中で打ち切られたのか教えてほしい。検事さんには、私たちの17年を知ってほしい」  かよこさんは大粒の涙を流しながらも、力強い口調で訴えた。  「自分たちには権力もお金もない。だけど、種雄を愛する気持ちは誰にも負けない。できることは何でもやる。一度は逃げてしまった。でももう逃げません」  そして、もう一つ気がかりなことがある。2人の孫の存在だ。事件の半年前ほどから会っておらず、幼い姿のまま、かよこさんの記憶の中にとどまっている。そしていつか孫たちに息子のことを伝えたいと願っている。  かよこさんは、逡巡の果てに強い決意をもって語った。  「種雄の子どもたちに、お父さんは自殺するような人ではなかった。人の悪口や陰口を言わず、たくさんの人から慕われたステキなお父さんだったということを知ってほしいんです」  愛する息子を突然失ったかよこさんの苦しみは、永遠に癒えることはないかもしれない。いまはただ、真実を知りたい一心だ。  取材・文/横田由美子   【もっと読む】『【木原事件詳報】「嫁は夫の死亡当日に不倫相手とピース」「義兄はサンダルで弔問」…非常識な嫁家族に対して、被害者遺族が「違和感」を抱いたワケ』
横田 由美子(ジャーナリスト)/週刊現代(講談社)


感想
「その最期は自らの手で頭上から自分の喉を肺に貫通するほど強い力で刺し、自分の横にきちんと置いて絶命したとされていたが、常識的に考えてもありえない。」

 自殺はあり得ません。
 解剖医も自殺と断定していません。
なぜ警視庁と検察は「自殺」でけりを付けたのでしょうか?

 高級国民が関係すると、警察も検察も高級国民の味方で、一般国民は殺され損ということでしょう。
 国民が怒らないのが不思議であり、怖いです。
そんな日本で良いのでしょうか?
 いつそれが自分に刃を向けてくるかわかりません。

ダウン症の書家・金澤翔子さんの母・泰子さん|私の死後の娘のために…80歳を前につけた人生の区切り ”愛しかない”

2024-01-28 02:48:02 | 社会
 2023年6月、初のドキュメンタリー映画が公開された、ダウン症の書家・金澤翔子さん。共に歩んできた母・泰子さんは80歳を前に、翔子さんとの二人三脚の人生に一つの区切りを付けたと言います。
※この取材は2023年4月に行いました。 年齢は取材当時のものです。 

 ダウン症の書家・金澤翔子さんは37歳。 天衣無縫で力強い書は「魂の書」とも呼ばれたくさんの人の心を動かしてきました。 そんな翔子さんの書の師匠でもある母・泰子さんは今年80歳。娘に障害があると知ったときからずっと「私が死んでもこの子は生きていけるのか」と考えてきましたが、昨年、一つの区切りをつけたと語ります。 かなざわ・やすこ 1943(昭和18)年千葉県生まれ。書家の柳田泰雲・泰山に師事。90年、東京都大田区に「久が原書道教室」を開設。『天使がこの世に降り立てば』他著書多数。 かなざわ・しょうこ 1985(昭和60)年東京都生まれ。5歳より母の指導で書を始め、20歳で初個展。東大寺などの神社仏閣で奉納揮毫(きごう)。森アーツセンターギャラリーなどで大規模展覧会を開催。

一人暮らし7年目、翔子は思った以上に暮らし上手でした

 「一人暮らしをして家事や買い物をしっかりこなす生活力がついた一方で、『お母様、お空の雲を取ってほしい』と頼んできたり、翔子は独特な世界観を持っています」と泰子さん
 翔子さんが、初めて実家を出て一人暮らしを始めたのは30歳のときでした。泰子さんは、こう振り返ります。 「出産して50日目に翔子はダウン症で知的障害があると告知されて以来、『この子は一人でどれくらいやっていけるだろうか』『私が死んでも生きていけるだろうか』と考えてきました。 今思うと、人の気持ちに敏感な翔子は、そんな私の不安を感知していたのかもしれません。自分が一人で生きていくことで、母親が救われるとわかっていて、自分から料理や掃除を一生懸命覚えました。そして20歳になったとき、みんなの前で『30歳になったら一人暮らしをします』と宣言したのです」 しかし障害があることで部屋を貸してくれる人はなかなか見つからず、やっと借りられたのが地元の商店街にあるマンションでした。 「自ら飛び出していった翔子は、思っていたよりもずっと一人暮らしが上手でした。スーパーマーケットでは買い物せず、お米屋さん、和菓子屋さん、喫茶店と、商店街をひた走り、一人一人と顔見知りになって、みんなが翔子を待っていてくれるようになりました」

この街に翔子を託していく。それが私の終活です


 長い間、人に迷惑をかけてはいけないと思っていた泰子さんですが、翔子さんが一人暮らしを始めてから「この世はやさしさに満ちている」と実感したと言います。 「あるとき商店街の女性と翔子がトラブルを起こしたんです。すぐに電話をしたら『これは翔子ちゃんと私の問題ですから、お母さんは口を出さないで』と言われました。そのとき彼女が翔子と向き合って一緒に問題を解決しようとしてくれていることがすごくうれしくて。その方と翔子は今もとても仲良しなんですよ」 

 そして2022年、80代を前にして終活を意識した泰子さんは、大きな決断をします。自身が長年住み、書道教室を開いていた家を思い切って処分。商店街に翔子さんの居場所となる画廊を兼ねた家を建てたのです。 「1階が翔子の画廊、2階が書道教室、3階が作品の倉庫で、4階に翔子、5階に私が住んでいます。4階と5階は勝手に行き来できず、暮らしは完全に別。料理上手な翔子がこの間ハンバーグを持ってきてくれましたが、一緒に食べるのは年に数回で、堂々たる一人暮らしを続けています。 ここは翔子の名義にしたから、追い出される心配がない。お金のことがわからない翔子のために後見人も決めました。死後のことは支配できないけれど、やれるだけのことはしたから、あとはこの街に翔子を託していく。これが私の終活です」

闇がなければ光はない。苦難のときに道が開けます
 今は各地で個展を開き書家として活躍する翔子さんですが、「決して書家を目指していたわけではなかった」と泰子さんは話します。 「翔子の父親は、翔子が14歳のときに心臓発作で倒れて亡くなりました。突然のことで遺言も何もなかったけれど、『翔子は書がうまいから、二十歳になったら個展を開こう』と話していたんです。 翔子が18歳で高校を卒業後、作業所に就職するはずが失敗してしまって、この先どうしようかと深い闇に落ち込んだとき、ふと翔子の父親の言葉を思い出し、生涯一度きりの個展を開こうと思いました」 この個展が大反響を呼び、「うちでも個展をしませんか」とたくさんの方から声がかかり、「いつの間にか翔子は書家と呼ばれるようになっていた」と泰子さん。これまで国内外で開いた個展は500回を超えました。 「闇がなければ光はないと私は思うんです。闇が大きければ大きいほど、待ち受けている光も大きい。苦難のときに道は開けます」

翔子には、愛しかないんです
 何か書いてほしいというお願いに、笑顔で書いてくれたのは「愛」でした。
 2023年6月、翔子さんと泰子さんのこれまでの歩み、そして翔子さんの書が「魂の書」といわれるゆえんを描いた映画「共に生きる 書家金澤翔子」が公開されました。 「一昨年、初めて個展に来られた宮澤監督が、翔子の書を見てびっくりされて、瞬く間に映画化が決まったんです」と泰子さん。翔子さんの書は、なぜ見る人の心を動かすのか――ずっと考えてきた泰子さんは一つの答えにたどり着いたそうです。 「翔子ってね、愛しかないの。お金持ちになりたいとか、えらくなりたいとか、そういう欲望が何もない心には、ただみんなに喜んでもらいたいという愛しかない。IQは低く、常識も社会性もないけれど、純粋な感性が育っていたのだと思います」 翔子さんはいつでも幸せなのだと言います。 「翔子が電話で『お祭りでお神輿(みこし)を担いだの。楽しかった。でも背が小さくて届かなかった』と言うんです。背が届かないのに何が楽しいのと思ってしまうけど、翔子はとても幸せそうで。 
 同じ現象の中に地獄を見る人と天国を見る人がいて、翔子は常に天国を見ているんです。思えば翔子の障害を知り、もう希望がない、生きていけないと苦しんだのは私だけで、翔子はいつでも幸せだった。
 人間は生きているだけで大成功なんだと、今思うんです」
  映画「共に生きる 書家金澤翔子」 天賦の才を二人三脚で開花させた書家金澤翔子さんと母、泰子さん。数々の苦難を乗り越え育まれた母娘の絆を描くドキュメンタリー映画。 監督:宮澤正明 出演:金澤翔子、金澤泰子 プロデューサー・構成:鎌田雄介 公式サイト:https://shoko-movie.jp/ 翔子さんの誕生から幼少時代までを振り返る「母・金澤泰子#1 ダウン症の書家・金澤翔子さん・泰子さん母娘の歩み」から、大人になっていく翔子さんと人生後半へ向かう泰子さんの思いを全5話でご紹介します。 取材・文=五十嵐香奈(編集部) 撮影=中西裕人 ※この記事は「ハルメク」2023年6月号の内容を再編集しています。 

■書家・金澤翔子さん・泰子さん母娘インタビュー《シリーズ5回》 
【第5回】娘・翔子と歩んでわかったこと「人間は生きているだけで大成功」

感想
 ダウン症の子どもがパン作りに取り組んでいるドキュメント番組を見ました。
「美味しいパンを作るコツは?」とアナウンサーが尋ねました。
その子は答えました。
「愛を込めるの」

 つい、上手くして、人よりも儲けたいなど考えてしまいます。
その心が忍び寄るとやはりどこか純粋さが薄まってしまうのでしょう。
 政治の世界ではパーティ券のキックバックや闇金、検察も政治家の下っ端だけを起訴して大物は見逃しています。大物を起訴すると仕返しが怖いのかもしれません。
 権力者は自分たちの人事権を握っていますから。
 菅前首相は正直に、「私に逆らう人は左遷する」意味のことを言われていました。
実際、菅前首相の肝いりで始まった”ふるさと納税”を当時総務省の次回事務次官候補No1が問題点を進言したら、飛ばされてしまいました。
 逆らったら出世はできないということを周りに知らしめたのでしょう。
それを見てしまうと、つい「不正なことはだめだ」と思っていても、上からの指示で不正に加担してしまうのでしょう。手を汚すのは末端です。
 今回も会計担当者が責任を負わされて終わりそうです。会計担当者が自分だけの判断でやることはないのですが・・・。
検察もそんなことわかっているのですが・・・。
そして苦しむのは、手を染めた本人です。
森友学園での赤木さんは他の人にやらせるのは酷だ思って、その不正の指示に従い苦しみ、自殺されました。その不正を指示した人は出世しています。
 自分はどうするかが常に問われているのでしょう。
 不正に加担するなら、闇金を使う政治家の爪の垢を煎じて飲むくらいの覚悟が必要なのかもしれません。

 ダウン症の子どもたちは私たちに本当の”愛”を教えてくれているのかもしれません。

 街が翔子さんを支えている。
支えている人が幸せを実感されているように思いました。
ダウン症の子どもは神様から大切な使命を与えられた子どもなのかもしれません。
自分の使命はなんだろう?