兄がアコーディオンを弾いていたので、小さい時にそれを自分も興味を持ってどんどん練習したそうです。
それからピアノを練習しましたが、ピアノはなかったので学校で練習したそうです。
その後、斎藤秀雄に一番弟子として指揮者として厳しい指導を受けました。何度も逃げ帰ったそうですが、逃げてもまた戻ったそうです。
当時、三井不動産の社長の江戸秀雄、江戸夫人はピアニスト、桐朋学園で更新の指導にあたっており、長女の京子(その後、征爾と結婚、離婚)は征爾と短大の同級生でパリに留学中だった。征爾は三井船舶の貨物船 淡路山丸に載せて貰えることになってパリに出て行った。到着点はフランスのマルセイユなので、マルセイユからパリまでの交通手段が必要になる。そこで都内のスクーター・メーカーを駆け回って、富士重工から新品のラビット号を借りることに成功した。スクーターには日本国籍を付ける、音楽家であることを示す。事故を起こさないの3つの条件が付けられた。パリについていろいろな音楽会を聞きに行っていた。
その時、京子から国際指揮者コンクールがブザンソンで行われると教えられた。早々、応募したが手続きの不備で締切日に間に合わなかった。これで諦めないのが征爾の本領、日本大使館に駆け込んだみたが結果は思わしくなかった。征爾はアメリカ大使館に行った。そこにはマダム・ド・カッサというプロのヴァイオリニストがいて、「お前はいい指揮者か、悪い指揮者か?」との質問に、「自分はいい指揮者になるだろう」と答えると、げらげら笑いだした。彼女はブザンソンの国際音楽祭事務所を呼び出し、「遠い日本から来たのだから、特別にはからって受験資格をあたえてやってほしい」と頼み込んだ。2週間余りが過ぎて、パリのアメリカ大使館経由でコンクール受験資格OKの通知が届いた。そこで優勝した。
だが、優勝したから食べていけるほど甘くはなかった。巨匠ミュンシェにその受賞パーティーの会場で声をかけた。「先生の弟子にしてください」。巨匠は「俺はどんな奴でも弟子になんかとらない。だいた、そんな時間がない。指揮というもおは人に教えられるものではない」と。それでも粘って「だめですか?」と。「しかし、もしお前がアメリカのボストンn夏きたら、教えてやってもよい」という言葉を引き出した。実際は、「ミュンシェのレッスンを受けられる資格者を選抜する指揮者コンクール」を受けてそれに合格したならということであった。征爾はそれに挑戦し、合格した。
その後、タルグルウッド指揮者コンクール優勝し、ご褒美として名門ボストン交響楽団を指揮する機会を与えられた。そうしてカラヤンの弟子になった。
いくつかコンクールに受かっていたが仕事はほとんどない。何度か指揮した群馬交響楽団の丸山勝広さんから、「日本で一緒にやりましょう」と誘われたから、ヨーロッパは諦めて日本に帰るつもりだった。レストランで、井上やすしさんと食事しながら、井上やすしさんに日本に帰ることを言うと「とんでもない」と猛烈に叱られた。「文学者の場合、外国の人に自分の作品を読んでもらうのは難しいんだ。ひどい時には合ったこともない人が翻訳する。音楽なら外国の人が聴いても理解してくれるじゃないか。どんなことがあってもいなさい」。はっとした。なるほどどの通りだ。思い直して丸山さんに断りの手紙を書いた。井上さんの言葉はその後も心の支えになり続けた」。
小澤征爾という人は、常人なら単なる出来事や単なる会話で終わってしまう事柄を、「運」にしてしまえる、しかもそれをその次の行動の起爆剤にしてしまえる、格別の感性と抜群の行動力持ち主なのである。
感想;
小澤征爾氏は努力の人であり、挑戦者であり続け、自ら道を開けて行った人だということがよくわかりました。そして、斎藤秀雄との出逢い、徹底的に鍛えられ、逃げなかったこと。多くの人の支えを自分のものとして行かれました。才能は自分から高めて行くものであり、チャンスは自ら取りに行くものであることが小澤征爾氏の生き方から伝わって来ました。
それからピアノを練習しましたが、ピアノはなかったので学校で練習したそうです。
その後、斎藤秀雄に一番弟子として指揮者として厳しい指導を受けました。何度も逃げ帰ったそうですが、逃げてもまた戻ったそうです。
当時、三井不動産の社長の江戸秀雄、江戸夫人はピアニスト、桐朋学園で更新の指導にあたっており、長女の京子(その後、征爾と結婚、離婚)は征爾と短大の同級生でパリに留学中だった。征爾は三井船舶の貨物船 淡路山丸に載せて貰えることになってパリに出て行った。到着点はフランスのマルセイユなので、マルセイユからパリまでの交通手段が必要になる。そこで都内のスクーター・メーカーを駆け回って、富士重工から新品のラビット号を借りることに成功した。スクーターには日本国籍を付ける、音楽家であることを示す。事故を起こさないの3つの条件が付けられた。パリについていろいろな音楽会を聞きに行っていた。
その時、京子から国際指揮者コンクールがブザンソンで行われると教えられた。早々、応募したが手続きの不備で締切日に間に合わなかった。これで諦めないのが征爾の本領、日本大使館に駆け込んだみたが結果は思わしくなかった。征爾はアメリカ大使館に行った。そこにはマダム・ド・カッサというプロのヴァイオリニストがいて、「お前はいい指揮者か、悪い指揮者か?」との質問に、「自分はいい指揮者になるだろう」と答えると、げらげら笑いだした。彼女はブザンソンの国際音楽祭事務所を呼び出し、「遠い日本から来たのだから、特別にはからって受験資格をあたえてやってほしい」と頼み込んだ。2週間余りが過ぎて、パリのアメリカ大使館経由でコンクール受験資格OKの通知が届いた。そこで優勝した。
だが、優勝したから食べていけるほど甘くはなかった。巨匠ミュンシェにその受賞パーティーの会場で声をかけた。「先生の弟子にしてください」。巨匠は「俺はどんな奴でも弟子になんかとらない。だいた、そんな時間がない。指揮というもおは人に教えられるものではない」と。それでも粘って「だめですか?」と。「しかし、もしお前がアメリカのボストンn夏きたら、教えてやってもよい」という言葉を引き出した。実際は、「ミュンシェのレッスンを受けられる資格者を選抜する指揮者コンクール」を受けてそれに合格したならということであった。征爾はそれに挑戦し、合格した。
その後、タルグルウッド指揮者コンクール優勝し、ご褒美として名門ボストン交響楽団を指揮する機会を与えられた。そうしてカラヤンの弟子になった。
いくつかコンクールに受かっていたが仕事はほとんどない。何度か指揮した群馬交響楽団の丸山勝広さんから、「日本で一緒にやりましょう」と誘われたから、ヨーロッパは諦めて日本に帰るつもりだった。レストランで、井上やすしさんと食事しながら、井上やすしさんに日本に帰ることを言うと「とんでもない」と猛烈に叱られた。「文学者の場合、外国の人に自分の作品を読んでもらうのは難しいんだ。ひどい時には合ったこともない人が翻訳する。音楽なら外国の人が聴いても理解してくれるじゃないか。どんなことがあってもいなさい」。はっとした。なるほどどの通りだ。思い直して丸山さんに断りの手紙を書いた。井上さんの言葉はその後も心の支えになり続けた」。
小澤征爾という人は、常人なら単なる出来事や単なる会話で終わってしまう事柄を、「運」にしてしまえる、しかもそれをその次の行動の起爆剤にしてしまえる、格別の感性と抜群の行動力持ち主なのである。
感想;
小澤征爾氏は努力の人であり、挑戦者であり続け、自ら道を開けて行った人だということがよくわかりました。そして、斎藤秀雄との出逢い、徹底的に鍛えられ、逃げなかったこと。多くの人の支えを自分のものとして行かれました。才能は自分から高めて行くものであり、チャンスは自ら取りに行くものであることが小澤征爾氏の生き方から伝わって来ました。
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