幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

<前川氏授業>自民議員が照会 文教族、文科省は影響否定 ”自民党議員は誰?”

2018-03-18 08:10:28 | 社会
https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/mainichi-20180318k0000m040114000c.html 毎日新聞
 文部科学省が名古屋市教育委員会に、前川喜平・前事務次官が市立中学で講師を務めた授業の内容の報告や録音データの提供を求めた問題を巡り、自民党文科部会に所属する衆院議員が文科省に授業の経緯を照会していたことが政府関係者への取材で判明した。文科省はその後に市教委に問い合わせており、議員の照会が影響を与えた可能性があるが、文科省幹部は「問い合わせたのは省としての判断だ」と説明している。【伊澤拓也、山衛守剛】

 前川氏は2月16日、市立八王子中で総合学習の授業として講演。不登校の経験などに触れ、「自ら学ぶ力、考える力を身につけてほしい」と呼びかけた。

 関係者によると、議員は2月中旬から下旬に複数回、文科省初等中等教育局に電話し、授業の内容や経緯について説明を求めた。同局は照会について、林芳正文科相ら政務三役に報告しなかったという。

 市教委によると、文科省は今月1日、15項目の質問を列挙したメールを送信。天下りあっせん問題による引責辞任や「出会い系バーの利用」に言及して前川氏を招いた経緯や理由などを尋ね、録音データの提供を求めた。5日夕の返信を受け、6日朝には校長の認識など11項目の追加質問を送り、7日正午までの回答を要請した。市教委は16日、双方のメール計4本などA4判22ページを公開した。

 文科省は16日の野党合同ヒアリングで、授業の様子を翌日報じた地元の中日新聞の記事が問い合わせのきっかけだったと説明。同時期に外部から照会もあったことは認めたものの、照会が誰からだったかについては「差し控える」と明らかにしなかった。「政治家の介入はあったのか」との質問には「確認する」と答えるにとどめ、「あくまでも私たちの判断」と繰り返した。

 省内には「メールの質問事項は、官僚の文章には思えない」との声がある。職員の一人は「照会は執拗(しつよう)で対応に苦慮したと聞いている」と話した。

感想
文科省はまた対応ミスをしているかもしれません。

独自の判断で照会したとしています。
しかし実際は、自民党文科部会に所属する衆院議員が問い合わせがあったから照会したようです。
二つのミスのどちらを選択するか?

・文科省は議員の要請で問い合わせをする部署であることを隠す。
・文科省は各学校で招いた講師に問題があればその都度照会する組織である。

担当者の判断で照会することはあり得ません。
文科省の誰の指示だったかを明確にすること、自民党議員の名前を明確にすることが必要だと思います。
開示されることが嫌なら、それをされないことではないでしょうか。

「余白の旅 思索のあと」井上洋治著 ”余白の風に身を委ねて”

2018-03-18 02:30:40 | 本の紹介
・テレジアの自叙伝に接して、何故私がキリスト教に入ろうと決心したのか、私自身にもわからない。何か大きな力が私の魂に働きかけたとしか言いようがないし、何か口に出せば、何と表現してみても、すぐそれだけではないという気がし、うそだという気さえしてくる。しかし何か後ろから私を押しあげてきた力に抗しかねて、もうこれだと決心する一つのきっかけとしてテレジアの作品が作用したことは否めないような気がする。テレジアという人は、学校は小学校しかでていない。15歳でリジューというフランスの片田舎の町にあるカルメル会修道院に入会し、二十四歳の若さで肺結核でなくなった人である。私は彼女に一人の聖者を、一人の宗教的天才をみつ思いがする。彼女ほど人間の弱さ、みにくさ、小ささを前提とし、それだからこそそういう人々を自分のふところへ迎え入れるのだという神の悲愛(アガベ―)を一節にうたいあげた聖者はいなかったのではないか。

・つい最近までのカソリック教会の神学校教育というのは、完全に一種の洗脳教育であったと思う。・・・。勉強中に私は何回も、トミスト(トマス主義者)にならなければ司祭になれないと言い渡された。・・・。確かに白を黒の如く行動せよ、という命令ならばこれをはたすことはできよう。しかし白を黒と思えという命令に、人は果たして従うことができるものなのだろうか。

・エチエンヌ・ジルソンの著書「レニール・エ・レニッサンス(存在と本質)」に接することができた。これは私の思想の形成の上では大切な出来事であった。・・・。彼の打ちだしている明確な「実存の本質への優位」という存在のとらえ方が彼にいう通りにトマスの哲学であるならば、少なくとも私はこのジルソンの考え方ならばある程度はしっかりとついていけるという自信が持てたのである。それはどうやら私にも司祭への道が開かれているという希望をあたえてくれるものであった。私は本当に嬉しかった。私は久し振りに晴れ晴れとした気分で、南アルプスの自然を眺めた。南アルプスの夕暮れは美しかった。

・私たちは夜空の星を眺めながら、あれはオリオン座、あれは北斗七星というふうに、星座に名前をつけている。しかしオリオン座とか北斗七星とかいう星座は、本当に客観的に存在するものなのだろうか。無数にきらめく夜の星空から。私たちが勝手に自分たちの見方で、無数の星を区分しているのではなかろうか。もし地球以外の天体から星空を眺めたら、その区分は当然変わってくるかもしれない。そうだとすれば、オリオン座という星座が存在するのは、地球からみられた視界のなかだけだということになる。

・同じ文化の流れの中で言語をしゃべっている人間同志の間では、あまりにも身近で気づきえない言語の持つ重みというものを、私自身が自分とは異質な文化の中で異質な言語をしゃべる文化集団の中で生きることを余儀なくされた結果、いやでも気づかされざるをえなかったということ、そしてそのことがその後の思索と相まって、「キリスト教と日本人」という生涯の課題へと私を追いやるもっとも大きな要因の一つとなっているように思えるからである。

・日本人は母音と子音とを区別なく言語中枢のある優位の脳(通常差半球)で聞いているが、印度ヨーロッパ語を母国語とする外国人は子音は優位の脳(通常左半球)で聞き、母音は劣位の脳(通常右半球)で聞いていることがわかった。・・・。大脳半球の働きの違いは、生後十歳位までの幼少年期に日本語か外国語かそのいずれかを話して成長するうちに、脳に刻まれた“記憶痕跡”によるもので、現在までの研究では“単脳言語”は日本語以外には見つからなかったという(後になって、ポリネシア語も)。日本人は動物の鳴き声に親近感を抱き、また虫の音に“秋”を感じて、もののあわれをおぼえる、つまり“噴流”な心をもっているが、外国人にはそのような心が乏しく、したがって日本文化は外国人には理解されにくいことが知られている。

・ある夜、寝る前に何気なく読んだ次の「ルカによる福音書」の十八章のイエスのたとえ話に、私は深い衝撃をうけたのである。
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人(びと)であり、もうひとりは取税人であった。
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲(どんよく)な者、不正な者、姦淫(かんいん)をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人(つみびと)のわたしをおゆるしください』と。
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人(びと)ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

・学生時代、夏目漱石の作品を愛読していた私は、「こころ」のなかで作品の主人公である先生がいう「人間は善人でも誰でも、いざというまぎわに悪人になるんだ」ということばの重みを忘れることはなかった。

・深層心理学者であるカトリック司祭でもあるルイ・ベルネールは、「人間の徳の高さは精神構造に依存するか」という論文のなかで、自分自身に誠実なキリスト者であっても、その誠実さが立派な徳の高い外的な行為となってあらわれるためには、その人の精神構造が健全でなければならないと強調していた。従ってベルネールによれば、誰でも徳の高い立派な人物と称賛するような聖者と、自分自身への誠実さは抜群であっても、残念ながらそれがプシシズムの不健全さによって外的な行為への素直に伝達されず、たえず事故の至らなさを嘆くことしかできない聖者と、二種類の聖者がいることとなるのである。このベルネールの考え方に賛同せざるをえなかった私は、それまでの自分の人間に対する見方が如何に浅かったのかに気づかされざるをえなかった。人間の本当の価値を外面の行為によって判断することはできない。人間は人間を審くことはできない。人間の魂の深みをのぞきを見ることのできるのはただ神だけだ。これが深層心理学や精神身体医学が私に教えてくれた貴重な人間観であった。

・修道女たちが経営しているある病院から、国立病院へと移っていった患者の話「シスターたちは本当に親切にあなたたちの世話をしていると思うに、どうして国立病院などに移りたいのか」という友人の質問に対して、彼はこう答えたというのである。「この病院には愛がない。確かにシスターたちはよく面倒をみてくれる。しかしシスターたちがよく面倒をみてくれるのは、私たちを大切にしていてくれるからではなくて、彼女たちが天国に宝を貯えるためなんだ。私は彼女たちの天国遺棄の梯子にはなりたくない」。

・修道院がもうひっそり静まりかえった夜ふけ、よく私は独りそっと窓を開けて、三階の部屋から月の光をあびて美しい修道院の中庭を見下ろした。少し風でもあるのか、木々の新緑の上で、きらきらと淡く月の光がおどっていたときもあった。また何となく夜霧が一面にかかってしまっている夜もあった。ただ自然の調べが私の琴線の調べと一つになったよろこびを、その頃から何の躊躇もなしに私はしばしば体験しえたように思うのである。

・イエスの福音自体は普遍的なものであっても、そのイエスの福音を受けとり、それを生きぬいていく人間は、いつもある文化を背負いある時代を生きているはずなのである。・・・。キリスト教の普遍性とは、決して一様化にではなく、一致のうちにこそあるはずだからである。・・・。日本において日本・キリスト教が樹立されねばならず、また樹立されるはずであると思い至ったとき、大きな不安にとらわれつつも、ある方向にぐんぐん押し流されていく自分をどうすることもできなかった。

・遠藤周作氏から「僕たちはまだ誰も踏み入ったことのない森に入っていくようなもので、まねすればいいというような先人を持っていないんだ。自分たちの力で開拓していかなければならない。これは長い年月のかかる仕事だと思う。僕たちはただ次の世代の人たちの踏石にならなれればそれでいいんだ」。氏が「海と毒薬」を世に問うた直後のことである。

・和辻哲郎の「風土」に接したときは、正直いって私は、思わず和辻の天才的ともいえる直観のまえに脱帽せざるをえない気がした。風土というものが人間の形成に及ぼす影響というものについては、恥ずかしながら全く考えてみたことがなかった。

・私は神学校を卒業し、カトリックの司祭に叙階された。1960年の3月18日である。もちろん私が司祭になることについて、問題がないというわけではなかった。日本人は日本人としてイエスの福音を受けとるべきであるし、また受けとることができるはずであって、ヨーロッパ・キリスト教をそのままの形で日本人に押しつけることは無理だという私の考え方に対し、外人の教授たち・-といっても、当時カトリックの神学校では全員が外人の教授であった-の間で、このような考え方を持った者をカトリックの司祭にしてはならないという動きがあったらしいからである。らしいというのは、司祭認定会議の内容については秘密になっていて、学生にはしらされないからである。ただある教授から「あなたはすぐに神学校を去るべきだ」といわれたことは確かである。如何に私が司祭になることを熱望していたとはいえ、とにかく司祭になれたということに、私は今でも何ともいえないある種の不思議さを感じる。

・疑うということは反省することです。反省とはものを離れてものを見ることです。ものに即した智慧ではなく、ものに関する知識なのです。反省ということが分離の世界にあるということに気づきます。・・・。神を思うという場合、思う人が主であり、思われる神は客の位置にあるのです。・・・。思うとは判くことです。分別するということです。ものを彼か是かに分けるのです。

・トタン屋根だけでじかに外気に接している教会の冬の朝は厳しかった。枕もと置いた金だらいに水が、しゃりしゃりとかすかに音を立てる程度に氷っている日もあった。死を翌日にひかえて最後の晩餐を弟子たちとすごしていうイエスのまなざしを思いながら、毎朝一人で私はこごえる手でミサをささげた。

・ギリシャ語のプネウマには、風と息と霊という三つの意味がある。対象化しえない、従って「無」とか「空」とかしてしか人間理性にはとらええない「天然の風(プネウマ)」を、神の愛、神の息吹き(プネウマ)として示したのがイエスの教えでないかと気づいたとき、私にはそれまでの長い間形にならずにもやもやとしていたものが、何か次第に私の中で形をとりはじめてきたような気がしたのである。

・三十年近い歳月の後に、おぼろげながらようやく形をなしてきたものを、私は一冊の書物にまとめてみたいと思った。私の福音理解が日本人の心情に訴えることができるかどうか、「日本人とキリスト教」とい課題の解決への道を生涯の自分の役割として受けとめた私にとって、これは大きな試金石となるはずであった。

・ミケランジェロの傑作「最後の晩餐」が大きな壁一杯に描かれている雄大さと迫力は確かに見ごたえのあるものであった。しかしそこでもやっぱり私は、窒息しそうな重苦しさに、どうしても親しみというものを感じることができなかった。何故だろうか。「そうだ、あの聖堂の壁画には余白というものがないのだ。余白なくびっしりと壁一杯に描かれているイコンや壁画に、微を認めることはできても、どうしても私は重苦しさを感じてしまって親しむことができなかったのだ」。そう気がついたときに私は、この石庭(竜安寺)の魅力がまさに「余白」にあったことに思いついたったのである。

・イエスがもっとも大切にした「幼子の心」とは、この余白の風に、ふわっと目をつぶって委ね切る心に他ならない。一人一人の人生というものが、己れ自身を表出するものでなく、生きとし生けるものの余白をふくむ全体を表出するものであってみれば、己れの生命と役割を完全に往きぬくということは、逆説的のようであっても、己れを無にして余白の風をして己れの人生を吹きぬけしめることとなるはずである。聖者とは、まさに己れの人生において余白を輝きしめている人に他ならないのであろう。

・余白の風に無心に己れを委ねて生きぬくべきものだと思っていた。
人を愛するということか人を大切にすることであり、弱さや醜さやその人なりの考えをもそのままに受け入れることであるならば、言いかえれば余白というものが見えてきた人だけが、真の意味で人を愛することができるのではないだろうか。生きとし生けるものの余白の風に従って生きぬくとき、大自然はその美しさを輝かせる。

感想
日本の文化で育った日本人が、イスラエルの北部ガリレア地方で生まれ、ローマで広がったキリスト教をどう理解していくか。
井上神父は東工大卒業後、東大の哲学科を卒業し、カルメル会の修道会など8年学び、さらに日本の神学校を卒業され司祭となられました。悩みながらもその信仰に至る軌跡を辿る本でした。
井上神父の真摯な生きて来られた軌跡はキリスト教を尋ねる道でもあると思いました。
こういう風にキリスト教を受け止めて考えることができるのだと、とても新鮮でした。

良寛が好きだった俳句
「裏を見せ 表も見せて 散るも紅葉」
紅葉は風に逆らわずに身を委ねて散る姿を自分の生き方に照らし合わせていたのでしょう。

キリスト教を理性で考えようとすると、いろいろ引っかかってしまうことがいくつもあります。いろいろな教会に通い、牧師さんのお話もたくさん聞きました。
三浦綾子さんの本もほとんど読みました。
犬養道子さんの「旧約聖書」「新約聖書」、遠藤周作さんの「沈黙」なども読みました。
それでも何かひっかかっていたことが、井上神父の本により、ストーンと心に染み入るようでした。

https://blog.goo.ne.jp/egaonoresipi/e/6bc191dd5750af7c7f905f28bcd8fe99
「私の中のキリスト」井上洋治著 ”悲愛のイエス・キリスト”


https://blog.goo.ne.jp/egaonoresipi/e/a9a0100ac95331444d6398837f7e8c35
「死海のほとり」遠藤周作著 ”イエスの最後の足取りと弟子たちの裏切りを辿る”


https://blog.goo.ne.jp/egaonoresipi/e/64730b89ed7b3d01539ad064f1753c04
「人はなぜ生きるか」井上洋治著 ”裏を見せ 表を見せて 散る紅葉”


https://blog.goo.ne.jp/egaonoresipi/e/89a63dba75b03bbd0a82850ef53738bd
「日本とイエスの顔」井上洋治著 ”日本の風土を背景にキリスト教を考える”

前川前事務次官への圧力問題 文科省をはねつけた市教委の神対応に称賛の声  ”国はこんなことに税金を使って個人調査を”

2018-03-17 09:02:00 | 社会
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/前川前事務次官への圧力問題-文科省をはねつけた市教委の神対応に称賛の声/ar-BBKi1aY?ocid=spartandhp#page=2 AERA dot. 西岡千史 2018/03/16
 前川喜平・前文部科学事務次官が名古屋市立の中学校で授業をしたことについて、文科省が同市の教育委員会に対し、前川氏を招いた意図の説明や録音テープの提供などを求めていたことが、問題になっている。

 市教委の杉崎正美教育長は16日、「このような問い合わせは今まで聞いたことがない」とコメント。河村たかし名古屋市長も「(文科省は)やり過ぎ」と批判し、同省に問い合わせの意図を確認する意向を示した。

 永田町では現在、調査の実施に政治家からの要請があったのではないかと言われている。野党関係者はこう話す。

「こんな調査を文科省がわざわざやるとは思えない。外部から問い合わせがあったはずだが、電話があっても、『市教委に直接聞いて下さい』と言えばいいだけの話。となると、政治家か官邸の関与があった可能性もある」

 同日に行われた野党合同ヒアリングでは、同省の職員が経緯を説明し、「(文科省内で)調査を決めた」と語った。一方、事前に政治家からの問い合わせがあったかをたずねられると、「確認します」「(コメントを)差し控えさせていただきます」と、回答を避けた。今後、政治家の関与の有無が焦点になりそうだ。

 一方、別の意味で話題になっているのが市教委が同省に返信した“反論メール”の中身だ。最近では、役人が政権の意向を“忖度”し、国会や国民に対しては不誠実な対応ばかりが目につくが、市教委は同省に毅然とした態度で反論していた。

 そのメールの中身を紹介しよう。
 市教委に最初にメールが届いたのは3月1日18時。同省から「事実関係をご教示頂きたく」という文言とともに、15もの質問項目が並んでいた。そこには、交通費や謝金の額、動員の有無、講演録や録音データの提供要請などが記され、5日18時までに回答するよう要求していた。

 また、前川氏については「国家公務員の天下り問題で辞職」「いわゆる出会い系バーの店を利用し、そこで知り合った女性と食事をしたり、時に金銭を供与したりしていた」などと説明。「こうした背景がある同氏について、(中略)どのような判断で依頼されたのか」と、質問した。

 監督官庁からのメールでここまで強い調子の文言が並ぶと、市教委の役人がひるんでもおかしくない。ところが、そうはならなかった。

 天下り問題については「文科省ひいては国家公務員全体の問題であると認識」、出会い系バーには「バー云々については、良心的な目的であったことが報道されてい」ると反論。謝礼は交通費込みで5万円と通常の金額であったことを伝え、録音データの提供は「ご提供は差し控えさせていただきます」と拒否した。動員についても、学校内外の参加者人数を報告したうえで、「一切ありません」と回答した。

 また、「事前又は事後に保護者から意見や反応等はなかったのか」との質問には、「事前、事後とも、ポジティブな反応ばかり」と、バッサリ斬り捨てた。

 反省の色をみせなかったことに腹が立ったのか、同省は6日朝8時、再び市教委に質問のメールを送りつけた。今度は締切を翌日の7日正午に設定し、「必要に応じてこれ以外にも改めて質問をさせて頂く可能性」や「書面にて又は直接ご確認をさせて頂く可能性があります」と、“脅し”とも思える文言を並べた。

 だが、このメールも不発に終わる。同省は、2回目の質問でも、前川氏が天下り問題で「省全体の責任者」となり「本人自らの非違行為を理由として停職相当」の処分を受けたことを説明し、「校長はこの事実をご認識されていたのでしょうか」と詰問したが、市教委は「辞任されたこと以上のことは知りません」と、またもやゼロ回答。保護者や生徒の感想についても「ネガティブな反応はまったくなかったのか」と重ねて質問を浴びせてきたが、市教委は「まったくございません」と、2回目のカウンターパンチを浴びせた。

 監督官庁からの嫌がらせとしか思えない調査に、市教委が役人の矜持でキチンと反論したことに「教育の独立を守った」(別の野党関係者)と称賛の声も出ている。官邸ばかりを見て仕事をしている現在の霞が関官僚にとっては、信じられない反応だったに違いない。

感想
文科省は閑な組織なんだなと思いました。
こんなことに税金を使っていることに怒りを覚えます。
それと国が”要注意人物”と思った人を追跡していることにも恐怖を覚えました。
文科省の役人に比べ、その中学校の校長と市教育委員会の対応は素晴らしいしいです。
至学館大学の学長も少し見習われると良いのではないでしょうか?

2017年自殺者が減っていますが、20歳未満の若者の自殺者が増えています。
2016年も増えました。もっとそっちにエネルギーを使って欲しいと思います。
大切な税金をこんなことに使うのではなく、若者の自殺を防ぐことに使って欲しいです。

阿川佐和子さん「サワコの朝 ムロツヨシさん」 ”厳しい環境でも明るく生きて”

2018-03-17 08:30:00 | 生き方/考え方
ムロしゃぶ。昆布を入れている。大根をピーラーで削って。ブタを。
俳優。芸名を分かりやすくするためにカタカナにした。当時はベンガルさんくらい。
19歳の時、東京理科大中退。「ごちそうさん」朝の連ドラに人気に。
親戚に育てられた生い立ち。立ち回りを身に付けた。明るさを出すしかない。

ムロツヨシのイントネーションはどちらか? どちらでもよい。皆ムロツヨシと言う。カブトムシみたいに。今のテンション無理しているところがある。女性の年上が助かる。他には吉田羊さん。年齢非公表なので、上かどうかわからないが。女性に囲まれて育ったので。

1曲目は、預けられた親戚の家で小学生の時に聴いた曲。トンネルズの「雨の西麻布」。楽しいそうだなと思って聞いていた。本当に好き。トンネルズが好き。おじさん家はさかなやさんだった。叔父さんと叔母さんのおばあさん。4歳の時両親が離婚して父親が親権持っていたが、すぐに父親が別のところに。何で?と思った。叔母のところにも子どもが2人いた。姉貴は5歳上。姉は中学から不良になってしまった。それを見て、自分は不良になるわけにはいけないなと思った。この家では自分はどう振舞ったら良いかを身に付けた。楽しくなければと思った。

4歳の前の記憶は? 両親がケンカしている記憶がある。母がトランクに詰めたのを覚えている。おやじは新しい女と一緒に暮らした。その女性には子どもがいた。時々その家に呼ばれた。その後、親父はまた違う人と再婚した。親父から、呼び出されたら、女性と子ども2人がいた。しかし、おやじは嫌いでなかった。楽しいそうなおやじだと思っていた。大工をしていた。仕事場に連れて行かれた。かっこよく思った。大工道具の水平にするのを見て、そこに空気が入っているが、その空気が「右か左か言え」と言われたりした。母には逢いたいと思う気持ちがなんでかない。

その家庭環境で育って、ちゃんと働こうと思った。そのためには大学の方が飢餓必要だと思った。大学に入ったらやりたいことをあるために皆が入ってることに気付いた。皆やりたいことがあるんだと感動した。自分にはそれがなかった。その後直ぐに舞台を見て、役者をやりたいと思った。役者に理系の大学は必要ないと思った。おじちゃん一家とおやじ一家が隣りどおりに住んでいた。両方が琴線トラブルになり。やはり育ててくれたおじさんについた。

役者に直ぐなれると思った。根拠のない自信があった。お魚屋さんに働いていた。後2年か、下積みも悪くないなと夢を見続けたいた。そうしていたら舞台に立っても楽しくないのを感じるようになった。何で楽しくないんだろうと思って、一人舞台を劇場借りてやった。同級生が来てくれた。面白くなかった。やりたいことがわからない学生の脚本を書いたが、誰も笑わない。初めての一人舞台が悲惨なことになった。皆が「頑張れよ」と言ってくれた。「面白かった」とは言ってくれなかった。これから暗黒時代に。面白いとはなんだろう? 恐怖になった。それからマグロだけを運ぶことが1年半が続いた。

ある日、突然涙が出たんだろう。役者目指しているのになぜバイトを一生懸命しているんだろう? それから営業をする活動をしていた。それまでは役者は待つもんだと思っていた。それから出してください。使ってください。それをやり続けて、2年目に本広克行監督に出会って売り込んだ。ムロヒロシは、ムロヒロシはと売り込んだ。本広克行監督が名刺を整理していて思いだしてくれて使ってくれた。「ごちそうさん」ではちゃむちゃにやってよいと言われてやった。「大人しい役できるのですか?」大人しい役も暗い役もできるが、言われた役にプラスしてやっていた。

2曲目はウルフルズ「笑えば」。
ぴったりの、ムロツヨシさんの人生を表わしている曲ですね(サワコ)。そう言って貰えると嬉しい。
鍋奉行して人を呼ぶことは抵抗はない。掃除するために人を呼ぶ。女友だちを呼ぶ。「ムロさんの部屋臭い」と言われないために女友だちを呼ぶ。

感想
厳しい環境でも、明るく生きることができることを実証されて来られた方だと思いました。

人生からの問いかけに、小さい時から応えて来られたのでしょう。

画面からは明るい雰囲気が全開でした。


谷岡郁子・至学館大学長のド迫力会見 「伊調馨さんは選手なんですか?」 ”学生が気の毒”

2018-03-16 08:32:32 | 社会
https://www.j-cast.com/2018/03/15323773.html?p=all J-cast 2018/3/15
レスリングの伊調馨選手へのパワハラ告発問題で、加害者と指摘されている栄和人監督が所属する至学館大学(愛知県大府市)の谷岡郁子(くにこ)学長が2018年3月15日、告発内容への「反論会見」を開いた。そこで述べた内容が新たな論議の火種となった。
練習場が定まっていないという伊調選手に対し、谷岡学長は「必要があるなら私たちはいつでも歓迎」と寛容さを見せる一方、「そもそも伊調馨さんは選手なんですか?」と疑問を投げかけた。スポーツジャーナリストの玉木正之氏は会見を聞き、発言内容に「古い考えです」と眉をひそめる。

「彼女は東京五輪をめざしているのですか?」
伊調選手は至学館大(旧・中京女子大学)出身で、卒業後の現在は警備会社ALSOK(アルソック)に所属している。谷岡学長は会見で、「もし母校である至学館で練習する必要があるなら、私たちはいつでも歓迎である旨は申しました。栄監督が率いるレスリングチームの道場は彼個人のものではない。私が『使わせる』と言えば、伊調馨さんはいつでも使うことができます」と寛容な姿勢を見せた。また、「その程度のパワーしかない人間なんです、栄和人は。パワーのない人間によるパワハラが一体どういうものであるか、私には分かりません」とパワハラの存在を否定した。
だが伊調選手に対し、「警察にも太いパイプを持つアルソックの社員であれば、所属元を通してでも練習場所を確保しようと思えば簡単にできたはずではないでしょうか。どうしてアルソックで練習しないのか」と一転して疑問を投げかけた。さらに、
「そもそも伊調馨さんは選手なんですか? そもそも彼女は東京五輪をめざしているのですか?」
と、現役選手であることを疑った。
その理由を「リオ五輪後、『これからのことは空白だ』という旨を彼女は言っていました。『東京五輪をめざすか分からない、しばらく休みたい』と言ったまま、その考えを変えたことを私どもはまったく知らないからです。アルソックでは今年1月、選手契約から社員としての契約に変わっています。日本レスリング協会でも『広報部に配属されました』とあいさつに見えたと聞いています」と述べる。なお谷岡学長は協会の副会長もつとめている。
告発状では、伊調選手が練習拠点を出入り禁止にされたとして、五輪5連覇を阻止する策動ではないかと指摘がある。だが、谷岡会長は上記の主張から、
「選手でない人、五輪をめざすはずがない人の5連覇を阻止するということが、存在できるでしょうか。明らかに協会の大スポンサーでもあるアルソックに所属する人の練習場所を抑えてまわるほどのパワーが、栄監督にあるでしょうか」
と、伊調選手を「選手」として認識していないようだった。

「失礼にあたるのではないか」
伊調選手は2月9日のwebスポルティーバのインタビュー記事で、「今はまだ選手としてやっていくこと、オリンピック5連覇ということに意味・価値を見いだせていないので、漠然と『選手に戻る』ということはありません」と迷いを明かしている。だが同時に「戻るとしたら100%、腹をくくったとき」とも述べ、本格的な現役続行に含みを持たせている。
スポーツジャーナリストの玉木正之氏は3月15日放送の「直撃LIVE グッディ!」(フジテレビ系)で、「選手でない人」などと言った谷岡学長に対し「これは古い考えです」と疑問を呈した。その上で、「スポーツ選手はスポーツに専念し、その後で仕事をすると、よくセカンドライフという言い方しますよね。ですが最近はそういう考えをやめ、スポーツも仕事もやるという考え方に変わってきています。それが分かっておられずに、五輪で金メダルを取るほどの選手だから、今はOLを始めたのなら選手はやめたのでしょう、という考えは古い。どんな職業をしている人がどんなスポーツをしてもいいんです」との見解を述べた。
さらに、三田友梨佳アナウンサーも「『選手なんですか』という質問が気になって」と引っかかった。「確かに伊調選手自身が『東京五輪での5連覇にそれほど価値を見出してない』とか、『(現役を)続けるかどうか考え中』と言っていて、それを踏まえての学長の言葉だったと思います。選手としてのモチベーションが薄れている可能性はあるかもしれませんが、それを決めるのはご本人で、第三者が『選手なんですか?』と言うのはすごく...失礼にあたるのではないかと思います」と思いを述べた。
また、「私もスポーツを取材していると、いったん競技から距離をおく選手はたくさんいる」とも述べた。たとえば、フィギュアスケートの浅田真央さんは14年ソチ五輪のシーズン後、進退を保留して休養した上で1年後に復帰し、その後約2年間現役を続けた、というケースもある。
三田アナは谷岡学長の会見を聞き「これを伊調選手自身が聞いたらショックなのではないかと思いました」と沈痛な面持ちだった。
なお谷岡学長は会見で「今般の(週刊)文春の記事にあるような内容について当然、重大な人権侵害、名誉毀損と考えておりますから、いま訴訟を準備しています」と法的措置を検討していることを明かしていた。

感想
このニュースを聞いて、至学館大学の学生さんを気の毒に思いました。
このような人が学長の大学で学ぶ学生さんは大変だろうな!

ウィキペディアより
教育理念;「人間力の形成」
 至学館大学における「人間力」とは、「健康力」、「知的視力」、「社会力」、「自己形成力」および「当事者力」の5つの力から構成されるものと定義し、これら5つの力を乗じ、総合的に応用・展開することができてはじめて真の「人間力」であるものと考える。すなわち、「真理と正義にもとづく価値観と倫理観をもち、広い視野と科学的な知識にもとづいた自己実現とすべての人々の幸福のため、積極的に寄与・貢献できる人間力の形成」である。

学長さんご自身の人間力を疑ってしまいました。
このような学長しかいらっしゃらないのか、わかりませんが、もう少し全体把握とご自分の発言がどのように受け止められるかを想像する「知的視力」をもたれないと、大学の評価を下げるだけではないでしょうか。

このような学長だと、いろいろな場面でも適切な判断ではなく感情で判断されるので、学生さんや教職員の方は大変だと思います。
トップがよくないとおかしな方向に行ってしまいます。
まさに、今の政府のように。
6日に報告を受けていたのに、受けたのは11日と。
それを突かれても、問題なかった。
確認できたのが11日だったと。
詭弁以外の何ものでもないです。
もし、不確かな情報だとすると、不確かな情報を提供した国交省が問題になります。
国交省として確認したからこそ内閣府に伝えたのだと思います。
この詭弁を信じる国民がいたとしたら、その人たちが結局、国をおかしな方向に向けさせているのでしょう。