「この人は母様ではねえ! 山本家とは縁を切った人だ。さあ、出て行け!」
時栄(谷村美月)に叫ぶ八重(綾瀬はるか)。
これを見た久栄(門脇麦)は時栄に駆け寄り「行かないで!」と言う。
八重が母子のためにわざと<憎まれ役>を引き受けたのは、「娘が母親を憎んで別れたのでは浮かばれない」から。
この配慮がわかり、時栄は別れ際、八重に「おおきに」と言った。
物語の主人公らしい行動。
実際の八重は、兄の名と家名を汚した嫁を小姑として許せなかったという感じですかね?
何と言っても八重は進歩的だったとはいえ、家父長制という明治の価値観をもった女性だし。
会津人、明治女性、キリスト教徒、そして大河ドラマであるがゆえの現代人の価値観。
この4つの価値観をもっている八重を統一感を持って描くことはなかなか難しい。
八重の言動がイマイチ響いてこないのはこのためだ。
作家さんは最後まで<新島八重>という人間をとらえることが出来なかったのではないか、という気がする。
時栄も「山本覚馬の妻であることがうちの誇りやった」と言い、「だんなさまの中にずっとうらさんがいる。歳をとらんできれいなままで」と言い、「うちも生身のおなご、きれいなままではいられない」と言い、よくわからない。
娘・久栄に対する母親の顔も垣間見られないから母子の別れもどうも説得力がない。
さて明治編は、女性の生き様の物語になって来た。
・うら(長谷川京子)
・みね(三根梓)
・捨松(水原希子)
・照姫(稲森いずみ)
・時栄
時代に乗る者、取り残された者、愛で幸せなった者、愛に傷ついた者……、さまざまな女性の生き様。
次回は久栄と日向ユキ(剛力彩芽)の物語かな?
それはオープニングの最後で、女性たちが薄桃色の傘をさして、桜のように開花していく姿に似ている。
大きく咲く花もあれば、小さく咲く花もある。
こういう作品プランなら戊辰戦争時も女性たちにもっとスポットライトを当ててもよかった気がします。
時栄(谷村美月)に叫ぶ八重(綾瀬はるか)。
これを見た久栄(門脇麦)は時栄に駆け寄り「行かないで!」と言う。
八重が母子のためにわざと<憎まれ役>を引き受けたのは、「娘が母親を憎んで別れたのでは浮かばれない」から。
この配慮がわかり、時栄は別れ際、八重に「おおきに」と言った。
物語の主人公らしい行動。
実際の八重は、兄の名と家名を汚した嫁を小姑として許せなかったという感じですかね?
何と言っても八重は進歩的だったとはいえ、家父長制という明治の価値観をもった女性だし。
会津人、明治女性、キリスト教徒、そして大河ドラマであるがゆえの現代人の価値観。
この4つの価値観をもっている八重を統一感を持って描くことはなかなか難しい。
八重の言動がイマイチ響いてこないのはこのためだ。
作家さんは最後まで<新島八重>という人間をとらえることが出来なかったのではないか、という気がする。
時栄も「山本覚馬の妻であることがうちの誇りやった」と言い、「だんなさまの中にずっとうらさんがいる。歳をとらんできれいなままで」と言い、「うちも生身のおなご、きれいなままではいられない」と言い、よくわからない。
娘・久栄に対する母親の顔も垣間見られないから母子の別れもどうも説得力がない。
さて明治編は、女性の生き様の物語になって来た。
・うら(長谷川京子)
・みね(三根梓)
・捨松(水原希子)
・照姫(稲森いずみ)
・時栄
時代に乗る者、取り残された者、愛で幸せなった者、愛に傷ついた者……、さまざまな女性の生き様。
次回は久栄と日向ユキ(剛力彩芽)の物語かな?
それはオープニングの最後で、女性たちが薄桃色の傘をさして、桜のように開花していく姿に似ている。
大きく咲く花もあれば、小さく咲く花もある。
こういう作品プランなら戊辰戦争時も女性たちにもっとスポットライトを当ててもよかった気がします。