平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

高須クリニックの高須院長が、水木しげる漫画を批判!~高須氏は『戦争を美しく描き、英霊を賛美する漫画』がお好きのようだ

2019年12月18日 | コミック・アニメ・特撮
 高須クリニックの高須院長がこんなツィート。

 

 これはいけない。
 その言葉のひとつひとつを検証してみよう。

「率先して戦った誇りある方々」
 本当に「率先して戦った」のかね?
 赤紙が来て仕方なくって感じじゃなかったのか?
 仮に
「率先して戦った方々」がいたとしても、
「率先して戦いたくなかった方々」をいなかったことにしてしまうのはおかしい。

「惨めにマンガで表現するのはいけないと思います」
 これも前段で書いたことに通じるんだけど、
 ではマンガは戦争や死を「美しく」描かなくてはならないということか?

 戦場にはさまざまな要素がある。
「悲惨」「惨め」「理不尽」「狂気」「滑稽」「哀しみ」「不条理」──
 もちろん、その中には「美しさ」もあったかもしれないが、それ以外のものを排除してしまうのはおかしい。

「死を美しく描くこと」にも違和感を覚える。
 戦場での死って、むしろ「惨め」で、「不条理」で、「哀しい」で、「滑稽」なものなんじゃないかな?

 話はすこし逸れるが、
 最近、広島原爆を描いた『はだしのゲン』が残酷すぎるという理由で、図書館から撤去する動きがあるらしいが、撤去したいやつらは原爆の悲惨をなかったことにしたいのかね?
『はだしのゲン』には、反戦を唱えるゲンの家族への中傷・「非国民」呼ばわり、朝鮮の方々に対する差別など、当時の日本人の醜い姿を描いたシーンがあるが、
 おそらく彼らは自分の姿を鏡に映されているようで居心地が悪いんだろうな。

「悲惨」「惨め」「理不尽」「狂気」「滑稽」「醜さ」
 これらから目を背けて、「美しいもの」「心地よいもの」だけを見たいという気持ちはわかるよ。
 でも、そんな姿勢からは何も生まれない。
 未来への教訓や警鐘にもならない。
 おそらく目を背けたい人たちは弱いんだろうな。

「水木先生は落伍兵です。
 僕は水木先生の作品の戦争が行われたパプアニューギニアの現場検証をしました。
 健気によく戦ったと驚嘆しました。
 英霊に感謝と敬意を捧げます」


 この文章には、
 生き残った兵隊は『落伍兵』でダメで、
 健気に散った兵隊は『英霊』で素晴らしいという意思が感じられる。
 ここにあるのは、
『生きて虜囚の辱めを受けず』『玉となりつつ砕けよや』という当時の軍隊思想だ。

 これを言うなら高須さん、
 戦場から遠く離れた安全な場所で戦争を指導し、戦争に負けても自刃しなかった当時の上層部も非難しろよ。
 安倍晋三の祖父の岸信介なんかA級戦犯でありながらGHQに媚びを売って生きのびた「卑怯者」だぞ。
 他人に死を強要しておきながら、自分は生きのびようとしたやつらも糾弾するのなら、あなたの論理は貫徹する。

 それに、
 そもそも水木しげる先生は、いくつもの死線をくぐり、生死の境を彷徨い、片腕を失った名誉ある兵隊さんだ。
 ホテルに泊まり、優雅に食事をして、敵兵もいない安全なパプアニューギニアで自分に都合のいいように「現場検証した」あなたとは全然違う。
 こういう自己客観視や想像力が働かないのかね?

『水木しげる先生の作品』や『はだしのゲン』が否定される社会が来たら絶望的だな。
 高須院長のような考えの人間が多数派になったら、これまた悲惨。
 気持ち悪い。
 そうなる前に、ここで押し戻さなくてはならないと思う。

コメント (2)
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