平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

「光る君へ」第43回「輝きののちに」~三郎のままの道長。聡明な大人になったまひろ

2024年11月11日 | 大河ドラマ・時代劇
 自分を客観的に見ること──これはなかなかむずかしい。
 道長(柄本佑)もそうだ。

 目と耳を病んだ三条天皇(木村達成)。
 道長は譲位させようとする。
 病では適切な政務をおこなえないと考えたからだ。
 だが、他者には「自分の孫の敦成を帝にしようとしている」と見える。
 権力をふるい、政敵を排そうとしているように見える。

 しかし道長はこれを理解できない。
 実資(秋山竜次)にその強権的な姿勢を糺されても
「思いのままの政をしたことなどない。まったくない」
 実資に「志を追いかける者が力を持つと、志そのものが変わる」と言われても
「おい、意味がわからぬ」
 道長には自分が強権をふるっているという自覚がない。

 今まで道長の志も他者にはおかしく見える。
 道長の志「民が幸せに暮らせる世をつくる」は他者・実資から見ると、抽象的で曖昧だ。
 道長は実資に言われる。
「民の幸せとはなにか?」「そもそも民の暮らしが見せておるのか?」
 これは僕も同じ疑問を思っていた。
 でも、道長は純粋に民のために政治をおこなっていると考えている。
 …………………………………

 道長は善良な為政者だ。
 隆家(竜星涼)の大宰府人事も目の病を治すため。
 独裁的になるのを嫌がり、あくまで陣の定めに従う。
 政敵は光の力で勝手に自滅してくれる。

 そして鈍い。
 誰かに指摘されるまで気づかないことが多く、指摘されてショックを受ける。
 今回の行成(渡辺大知)がそうだ。
 倫子(黒木華)の「どこぞのおなごを愛でておられる」という指摘に対するリアクションもそうだ。
「民が幸せに暮らせる世をつくる」という志も子供っぽい。
 いわば、「三郎」がたまたま権力を持って、為政者になったような感じだ。

 ここに来て、道長下げが始まった。
 だが、それは愛すべき存在としての道長下げだ。
 今回のサブタイトルは「輝きの後に」。
 輝きが薄れ、道長のありのままの姿が見えてきた。

 一方、そんなありのままの道長を理解しているのが、まひろ・藤式部(吉高由里子)だ。
 藤式部は彰子(見上愛)に言う。
「人の上に立つ者はかぎりなくつらく、さびしいもの」
 彰子はこれを受けて、
「藤式部は父上びいきであるのう」

 道長が三郎のままなのに対し、まひろは聡明な大人になっている。
 以前は、男に生まれたかった、というギラギラした思いを抱いていたが、
 今は道長を支え、女性でなければできない仕事を成し遂げ、女性であることを肯定している。
 道長と対照的に、すべてのことが客観的に見えている。
 賢子(南紗良)と双寿丸(伊藤健太郎)のことも、
「昔ならできなかったことを軽々と乗り越えている」
 双寿丸の本心はわからないが、
 賢子を連れて行かない理由を「危険な目に遭わせたくないから」と話し、慰めた。

 さて、まひろは今後どのような心境になっていくのだろう?


※追記
 心が安定して、やすらかになった人がふたり。

・敦康親王(片岡千之助)
 もともと権力への執着の少ない人物であったが、妻を得て彰子への執着もなくなった。
 彰子のことも「国母にふさわしい風格」と客観的に見られるようになった。

・清少納言(ファーストサマーウィカ)
 恨みを持つことで命を支えることをやめて静かに生きることを宣言。
 
コメント (2)
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