平成エンタメ研究所

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「最後の将軍」① 司馬遼太郎~かれは自分が足利尊氏になることをおそれ、過剰な意識をもっていた

2021年12月23日 | 小説
 司馬遼太郎の『最後の将軍』(文春文庫)を読む。

 司馬遼太郎は徳川慶喜をどう表現したのだろう。

 朝敵になることを、世に慶喜ほど怖れる者はまれだろう。
 慶喜は歴史主義者だけにその目は巨視的偏向があり、歴史の将来を意識しすぎていた。
 賊名をうけ逆賊になることをなによりおそれた。
 これほどの乾いた合理的性格の男にこの弱点があるというのはどういうことであろう。
 その神祖の家康にはそれが皆無であった。
 皆無であることが家康の行動を自由なものにしたが、慶喜は家康とちがい、世に読書人のあふれすぎている時代にうまれ、慶喜自身が家康とは格段の教養人であった。
 このため文字に書かれる自分をつねに意識せざるを得ず、文字の中でも後世の歴史をもっともおそれた。
 そこが、水戸人でもあった。
 南北朝のころの足利尊氏を逆賊に仕立てることによって独自の史観を確立した水戸学の宗家の出身であり、かれが受けた歴史知識はそれ以外にない。
 かれは自分が足利尊氏になることをなによりもおそれ、その点でつねに過剰な意識をもっていた。


 教養人であるため、後世に逆賊の悪名を残すことを怖れた慶喜。
 一般的な慶喜像だが、水戸学の視点と家康との比較で論じている所が面白い。
 家康の時代は食うか食われるかの時代で、ともかく現実主義──後世の評判など二の次だったのだ。

 慶喜が水戸での蟄居から静岡に住むようになったのは33歳の時。
 その時、慶喜はこう語ったようだ。
「なお茫々とながい春秋を生きなければならない」
 33歳か……若いな。
 33歳でこのような「虚無的感慨」をもらすとは胸迫るものがある。

 もっとも薩摩に対しては恨み骨髄であったらしい。

 慶喜にすれば大政を奉還した自分をなぜか朝廷は朝敵としたのか、という根の深い恨みがある。
 具体的には朝廷に対してではなく、薩人の大久保と西郷に対してであった。
 慶喜の薩人へのうらみは深く、あるとき側近に、
「長州人は最初から幕府を公然と敵視していたから自分はなんともおもわぬ。
 その点、薩人はちがっていた。
 最初は幕府と親しみ、ともに長州を追い落とした。
 が、情勢が変化すると、表面親しみを保持するがごとく擬装し、裏面で工作し、ぎりぎりのところで寝首を掻くような仕方をした」


 この慶喜の言葉は司馬遼太郎の創作なのだろうか?
 あるいは、慶喜の言葉として残されているものなのだろうか?
 いずれにしても慶喜の虚無の心にいささかの感情の火が灯っていた。
 だが、この火は弱いものですぐにこう語ったらしい。

「すでにかの連中(大久保と西郷)が非業に斃れて二十年以上にもなる。
 往事を知る者も多くは死に絶え、すべてはむかしのことになった。
 いつまでもそのようにいっていても始まらぬ」


 司馬遼太郎の筆はあっちへ行ったり、こっちへ行ったり縦横無尽だな。
 まさに知識と情報のかたまり。
 俺、こんなことも知ってるんだぜ、と得意がっている感じ。
 同時に、情趣も感じさせる。
 評伝ふうに客観的に書いているが、どこか感傷的でもある。
 これが「司馬遼太郎の文体」だ。
 これが津本陽になると、単なる事実の羅列でつまんないんだよな。
 僕の読解力・鑑賞力が足りないのかもしれないけど。

 さて、次回は司馬遼太郎が慶喜の晩年をどう表現したかを書きます。


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