3月4日の木曜日。長女がやって来る日です。多分、彼女はお雛様を片づけることを第一に考えていると思います。それでわたしは、ミシン周りを片づけていました。
長女のお雛様ですし、彼女には女の子はいませんからそう急いで片づけることも無いのです。でも習慣なのでしょうね、3日を過ぎると早々に片付けにやって来ます。
この時期、わたしはどうしても10年前を思い出してしまいます。10年前の3月6日に、富士宮の家で母が急逝しました。予定では母は7日から我が家に逗留するはずでしたので、お雛様は飾ったままにして居ました。
富士宮の家は隠居した両親の別荘としての家でしたのに、富士宮が気に入ってしまい住所も富士宮に移し、自宅は留守宅でした。父が亡くなっても母は独りで富士宮の家に住み続けたのです。これは予想外な事でした。
母は6日に亡くなり翌日の7日には大森の自宅にもどりました。東名高速は薄っすら雪が積もっていました。それから葬儀の準備に掛かり、11、12日が通夜と告別式でした。
大地震のあの日、葬儀場の車が母を迎えに来ましたので、10階から母を降ろし、葬儀社の車を見送った直後、あの大きな揺れに襲われました。
耐震の建築法で建てていましたので、10階の揺れは今までに経験したことの無い物凄い揺れでした。母の三面鏡は倒れてガラスが割れたり、鴨居の上に掛けていました大きな額が落ちましたが、照明器具は大きく揺れただけで、落下することは無かったです。
経験したことの無い大きな地震の後でしたが、通夜も葬儀も予定通り無事に終了出来ました。大森の実家は戸棚からガラス食器が落下し大変でしたが、横浜の我が家は全く異状なしでした。7段飾りのお雛さまも無事でした。ただひな壇から雛あられの袋が落ちていました。それだけでした。
”ひな祭り”というと、何となく母の急逝を想い出しますし、和室に陣取った”7段の雛人形”を嬉しそうに眺めていました亡き夫を想い出します。
それと同時に、津波に襲われている東北の様子を、葬儀場の控室のテレビで見ていました。初めて見るその恐ろしい景色を今も忘れられません。
気温の変化が酷いこの時期は、若いころから体調は最悪になります。今年も良く無いです。それでも長女がやって来てお雛様を2階の天袋から降ろして、洋間に飾ってくれました。一仕事です。感謝です。
そして今日はお雛様を片づけるには最良の空模様でした。長女がお雛様を2階の天袋に納めている間に、わたしはテーブルを元の位置に戻していました。明日からまた、わたしの趣味の部屋になります。
お昼食は、帝国ホテルのスープをベースにリゾット擬きを作り、長女と食事を楽しみました。彼女のお持たせの五目ずしは、夕食に頂きました。とても美味しかったです。彼女に感謝です。そして、ご馳走さまでした。