2月22日 日曜日 晴れ
告別式に行ってきました。
最後の最後の「さよなら」を彼女としてきました。
ピンクのスイトピーを彼女のお顔の側に入れ、悲しいお別れでした。
昨夜のお通夜には電車で行ったのですがとても交通の便が悪かったのです。
それで今日は車で行くことにしました。
ただ友人が車を出すことになっていましたがご主人様が車を使われるとか、
急遽わたしが車を出す事にしました。
心理的にはあまり運転をしたくなかったのですが、昼間ですし大丈夫と判断。
確かに楽でしたね。30分もかからずに葬祭場に到着出来ましたから。
継いで参りはいけないと言われますが友人がお墓参りをしていきたいと言われ、
霊園に行きお参りをしてきました。
友人のお宅のお墓にご一緒してから、あるじのお墓にもお参りしてきました。
亡くなられたわたしの友人をあるじはとても可愛がっていましたので、
「彼女をよろしくね」と頼みました。
今日は夕方4時開演のオイリュトミーの公演が有ったのです。
ほのぼの編集長の舞台ですから行きたいと思っていましたが身体が動きません。
昨夜も#&♭のギタリストのライブに行く予定だだったのです。
時間的にも無理でしたがそれ以上にジャズを聴く気分にはなれませんでした。
フランス料理を戴いてからの演奏ですから楽しみにしていたのですが・・・。
疲れて炬燵に座り込んで動けませんでした。
この数日新聞も読んでいませんでしたので新聞を読んだり切り抜きをしました。
今日は朝刊の小説も切り抜いてみました。
小説も良いのですが中一弥さんの挿絵が良いのです。
この方の自叙伝を以前読んで、挿絵画家になるまでのいきさつや、
挿絵画家になってからの様子などの知識が有りましたから、受ける感情が違うのでしょうか。
中一弥さんは98歳。
その方が新聞の連載小説挿絵を描くというのですから凄いです。
今日お別れしてきました友人は41歳でした。
中一弥さんの半分にもならないのです。
何時までもお元気で素敵な挿絵を描いて戴きたいものです。
告別式に行ってきました。
最後の最後の「さよなら」を彼女としてきました。
ピンクのスイトピーを彼女のお顔の側に入れ、悲しいお別れでした。
昨夜のお通夜には電車で行ったのですがとても交通の便が悪かったのです。
それで今日は車で行くことにしました。
ただ友人が車を出すことになっていましたがご主人様が車を使われるとか、
急遽わたしが車を出す事にしました。
心理的にはあまり運転をしたくなかったのですが、昼間ですし大丈夫と判断。
確かに楽でしたね。30分もかからずに葬祭場に到着出来ましたから。
継いで参りはいけないと言われますが友人がお墓参りをしていきたいと言われ、
霊園に行きお参りをしてきました。
友人のお宅のお墓にご一緒してから、あるじのお墓にもお参りしてきました。
亡くなられたわたしの友人をあるじはとても可愛がっていましたので、
「彼女をよろしくね」と頼みました。
今日は夕方4時開演のオイリュトミーの公演が有ったのです。
ほのぼの編集長の舞台ですから行きたいと思っていましたが身体が動きません。
昨夜も#&♭のギタリストのライブに行く予定だだったのです。
時間的にも無理でしたがそれ以上にジャズを聴く気分にはなれませんでした。
フランス料理を戴いてからの演奏ですから楽しみにしていたのですが・・・。
疲れて炬燵に座り込んで動けませんでした。
この数日新聞も読んでいませんでしたので新聞を読んだり切り抜きをしました。
今日は朝刊の小説も切り抜いてみました。
小説も良いのですが中一弥さんの挿絵が良いのです。
この方の自叙伝を以前読んで、挿絵画家になるまでのいきさつや、
挿絵画家になってからの様子などの知識が有りましたから、受ける感情が違うのでしょうか。
中一弥さんは98歳。
その方が新聞の連載小説挿絵を描くというのですから凄いです。
今日お別れしてきました友人は41歳でした。
中一弥さんの半分にもならないのです。
何時までもお元気で素敵な挿絵を描いて戴きたいものです。
「昭和を歌う」の映像が見られましたら、それは喜ばれるでしょうね。
12月のコンサート、八丈島でなければわたしも伺いたいです。
本当に良いお仕事をなさって居られるのですね。そのようなお仕事をなさる能力が羨ましいです。
楽譜はひとまず1部だけお願いします。
早崎様のhot mail.com のアドレスに送り先を連絡させて戴きます。
よろしくお願いします。
2時間ほどの映像を皆さんがまんじりともしないで見ていただけます。そして、今まで車椅子で身動きもしなかった方たちが床を踏みならし手を叩き大声で歌うのです。もう、息子の名前も孫の事も遠く空の彼方に忘れてしまった人々がです。母親は何十枚も持っていた着物も、父親もすべてを失ってしまったのにと思うと、私たちの親はと思う時、今私たちと同世代の人々が戦争の悲惨さを伝えなければと思うのです。そのような意味合いからも、同世代に元気を上げたいとも思い回ります。
過去しか覚えていない人々が家族からも見放され孤独死を迎えるなんて悲しいですね。
蘇州夜曲、ふるさと、旅の夜風が歌えるのに私の98歳の先生は、私を思い出すのに1時間以上もかかり、思い出すと奥の部屋に入って、米の袋と砂糖の袋を持ってきて「これ持ってお帰り」と云うのです。先生は未だに私が小学一年生で戦争中の食糧事情の悪い時代に回帰してしまうのです。この頃は、解らなくなってしまったので手紙も出しませんが何年か前には、毎月手紙を出していました。
夜中に家族が起きると先生の部屋の明かりが灯り私が書いた手紙を何回も何回も読むのだそうです。私の何十通の手紙は桐の函に収められて大切に保管されていると仰るのです。
周辺にそのような事が多く、そんな日々を送っています。本年は、12月に八丈島で高齢者の方たちに霧島昇、松原操さんのお嬢さんのコンサートを行うことが決まりいま、その準備をしていますし、童話と芝居の台本を頼まれていますので、これから暮れまで戦争が続きます。
また、HPの中のダークダックスと中国琵琶のシャオ・ロンとは次々とプログラム作成や翻訳
イベントの企画など関係しているので、消えかけた蝋燭にゴマ油などを注ぎ足して頑張っています。
さて譜面は数字譜ですが印刷物があり、正式譜面が作曲家から来ていませんのですが、送り先をご指示いただきたいのですが部数も御連絡下さい。
航空機事故、水爆、JALも、アメリカも今だに許していません。余りにも酷いものを見すぎました。熱中症にお気をつけてください
饒舌に過ぎましたご勘弁を
わたしは店を閉めてからリコーダーを長女から手ほどきを受け、その後暫く先生につきましたが、時間が合わなくて先生の所から離れましたが、今も続けています。
10年以上のキャリアの人たちのアンサンブルのメンバーに入れて頂きました。まだまだ彼女たちの足を引っぱるだけのわたしですが、気持ちよく仲間に入れて下さってます。感謝ですね。この頃はメンバーの希望もあり、ボランティア演奏に行く事があります。リコーダーとオカリナを演奏します。
なるべく聞いている方が参加出来るようにしたいと、聞き手が歌えるような曲を選ぶようにしています。
昨年の春、お話の認知症で全く言葉が出なかった方が私たちの演奏に合わせて歌っていたのだそうです。歌詞カードも何も渡していませんのに歌ったのだそうです。
付き添いのヘルパーさんが感激して話して下さいました。昔覚えた歌を本人が意識しないで口ずさんで居られたのでしょう。
私たちメンバーも感激しました。それからますますメンバーはボランティアに行くようになりました。今年もすでに何回か行きましたし、9月半ばと10月に予定が入っています。秋は秋の歌を選んでいます。
大正琴は今は弾きませんが以前姑が弾いていました。わたしが姑にプレゼントしたのです。
厚かましいのですが、楽譜を戴ければ嬉しいです。
淡々と書かれた詩に優しさが一杯です。曲として演奏してみたいです。大正琴なら夜中でも弾けますから良いですね。
一昨日も戦死した同級生へ捧げる詩を書かれ、それに曲を付けたと言う楽譜を友人から戴きました。85歳の方の詩です。年の離れた友人の配偶者の作品です。
ピアノとアルト・リコーダーの両方で演奏してみましたが、マイナーの曲でとっても淋しい曲です。
大正琴のメンバーからお誘いがありますが、ウクレレ・オカリナ・リコーダーを現在しています。以前はピアノだけがわたしの音楽でしたが。ずっとクラシック音楽だけでしたがある時からポピュラーピアノを習い始め楽しみました。下手の横好きです。
長々と書きましたがどうぞまたのお訪ねをお待ちしています。
母が奏でた あのしらべ
春の日射しの 照る窓辺
母の歩んだ 足音が
聴こえるような 琴の音を
ニ、琴を弾くたび 思い出す
母と歩んだ 人の世の
強い光の当たる道
かすかな光の 射す所
見えくるような 琴の音を
三、琴を疎くたび 思い出す
青い空飛ぶ 秋酋
母に負われた 田舎道
つらい悲しい 人の世も
慰めくれた 琴の音を
四、琴を弾くたび 思い出す
母と同じの 歳かさね
母が残した この楽譜
頁をめくる そのたびに
母の教えた 琴の音を
こんな歌ですが、作曲はクラシックの歌曲調です。お近くに大正琴の演奏者がいらっしゃれば譜面を送らせていただきます。
私の母は富山の出身で民謡しか唄わなかったのですが「越中小原節」などを唄うと父に「そんな下品な歌を歌うな」なぞといわれていましたが、私の子守唄は、いつも風の盆でした。
浮いたか瓢箪軽そうに流れる行きさきゃ知らねだあの身になりたい」越中版「川のながれのように」ですね。
なにしろ、私は、日本人の唄う外国の歌は下手で下手で聞いていられないと思っていました。バッハのカンタータやベートーヴェンのシンフォニーやモーッアルトのヴァイオリンソナタやピアノソナタで育ちました。
母と音楽の話をすると「おまえは何にも弾けないけど、私は大正琴が弾ける」と自慢をしていました。母が亡くなる3月程どうしてもお風呂に入れるのが大変になり、船橋の市営の施設に入れたらその悔悟の若い担当が富山の隣村の方で毎晩二人で亡くなるまでい歌っていたそうです。
そこで御礼に演奏会をしたところ100人ばかりの認知症の方が息子の名前も解らない方たちが「ふるさと」や「蘇州夜曲」をきちんとうたっているではないですか。館長さんが女性の方で滔々とmさめざめと泣いているのです。
今までどんな音楽にも反応しなかった方たちがですよ、中国琵琶の演奏家は、国際的に著名になったシャオ・ロンで私の娘と同い年で上海から来た時期から20年も前になりますが余りにも初めての時の演奏が素晴らしかったので永くお付き合いをしています。今も今月行う演奏会のプログラムを書いているうちに久しぶりにこのぺ字を開きました。
吉川英治さんは、私の家に何度かおいでになりました。ちょうど、安土に疎開している頃で父は信長直系の18代目。昔の事はあてになりませんが本来的には総見寺の12代目を継ぐはずだったのです。宝塚の好きだった父は好色坊主のレッテルを貼られるのが厭だったのでしょう。でも、父が継承していれば私も今頃、人々を集めて経を説いていたかも知れません。
でも。色々な事がありましたが、希望に燃えて活きてきましたからしあわせだったかもしれません、それでは、またお会いしましょう。
ホームページ、時々見させて頂いていますが全部お一人でなさって居られるのですか?素晴らしいですね。
資料の確認のための労力は大変な事とお思居ます。なかなか出来る事ではありません。素晴らしいです。
以前店をしていた時はホームページを作って頂き、更新はわたしがやっておりました。今になってみますとそのホームページを継続していれば良かったと思います。
日記の他に料理とか音楽とか、読書とかのページがあればそれなりに楽しめるのでは、と思ったりします。
人と別れる事の辛さは身に染みています。今も癌と闘う友人が数人居られます。言葉をかける時の緊張は日増しに強くなります。
状況が異なる人からの何気い言葉が、どれほど傷つけるかはわたし自身経験しています。慰めに声をかけて下さった善意の言葉で、立場の違うわたしが深い傷を覆ったことは度々でした。恥ずかしいのですが、良い年になって初めて言葉が武器に変わる、その恐ろしさを知りました。
知らない事ばかりです。特に手作りパン屋をしていました20年間は、経験の蓄積は出来たかも知れませんが知識の蓄積はまったく出来ませんでした。アプアプして過ごしました。
早崎様はあれだけのホームページを調べ、書き、形成しておられるのは、本当に素晴らしいです。
知識が無い私は随分焦っていろいろ吸収したいと焦りましたが、きりの良い年齢の今年からは趣旨をかえてのんびりペースに切り替えるようにしようと思いました。
好きな事、したい事だけに時間と労力を使うつもりです。
早崎さまの経験豊富、知識一杯の方のホームページを楽しく読ませて頂いています。
どうぞお時間がありました折、時にはお尋ね下さいませ。早崎様のコメント、嬉しく読ませて頂いております。
生れてこの方日々死に向かって歩きながら、色々な事をしました。一日、睡眠時間3時間は、5,6歳の頃からたまには5時間くらい寝ることもありますが、恐らく馬鹿ですから人の3倍は働かないとと、この年になっても絶え間なく仕事がありやることがたくさんありすぎる、さすがに人から頼まれることはのらりくらりと断り、日がな一日、数十冊の本を積み上げ余りに知識のないのに自分自身の無知に驚き、人の書いたものを見るだに感動の日々を送っているのです。世界を歩き、日本国中を飛び歩き、そんな時は水の流れのように通り過ぎて行きました。
でも、別れることは辛いことです、その人との間で交わした会話も味わった美味佳肴も、共感した想いも断ち切られそこでドラマは集結してしまいます、長い長い中さんの挿絵も私が感動したことを人に伝えたくてHPに書いたのです。
先日は、私が作った歌の事が北海道の美幌の方に知れ、私のHPが中国蘇州の副知事の目にとまったり凄い世の中になりました。
人を批判するのではなく人を褒めそやすHPにしたいと、二万頁になりました。アクセスも天文学的な数字になりこちらはますます多忙になりふっと見つけた見ず知らずのブログにコメントを書きました。團伊玖磨さん、ダークダックス、そして、私の関係してきた絆をローソクの蝋が燃え尽き燈心が融けた透明に沈むまでこんな鯛のないことを言うために御座敷に上がらせていただきます。それでは、お元気で
もう読んで下さっておられるかも知れませんがまだでしたら申し訳ありませんが、再度コメントで要請して下さい。他の削除コメントと間違え削除してしまいました。
團伊玖磨先生は、生き物がお好きで大蛇から小鳥まで各種の動物がいたそうです幸い大蛇には邂逅したことはありませんが先生がお仕事をされる机の上の灰皿に文鳥がちょこんと乗ってチチと先生と会話を楽しんでいました。
和子夫人の「早崎さん何が召し上がりたいですか」と問われ、本場中国で学ばれた種々のお料理がテーブル上に並ぶのが楽しみで、秋谷を訪問する楽しみでもあった状況を思い起こし、今も、耳のどこかで和子夫人の声が聞こえ、口中に中国料理が広がる美味を想起するのです。
その記事はいつごろでしょうか。もし、時期がおわかりでしたらご教示ください。團伊玖磨全仕事のHPを作成して世界中の多くの方々とお話しできることが増え日本全国の團先生とご縁のある方たちともお会いすることが増え、全く、どこにも書かれていない、あるいは團ご夫妻からお聞きしたことのない多くの人の絆に触れ、先生の偉大さに今更ながら日々感動の刻を送っています。と、長くなりますのでこの辺で、又一つ、和子夫人の頁にドラマをくわえさせていただきます。私は怠け者でブログが毎日書けません。毎日書いておられる方には感動です。
新聞小説ですから、毎日一弥さんの絵を見る事が出来た昨年が懐かしいです。
検索して、ホームページを見させて頂きました。ご活躍なのですね。
そのような方からのコメントとは、嬉しいです。ありがとうございます。
池上正太郎さんが書かれた文章を読みながら、浅草近辺を歩いた事が有ります。懐かしいです。
全く関係ない事ですが、ずっと以前團伊玖磨さんの奥様、和子さんの「鍋」とわたしの「鍋」が、産経新聞から取材を受け掲載された事が有りました。
つまらない事をふと思い出し、更につまらない事を書きました。
俳句と英語、面白いですね。
わたしも国文法は英文法と並べ、比較しながら書いていました。
その方が理解出来ていたようです。お気に入りに登録させて頂きました。
特に中一弥さんの若い女性の絵は、素晴らしいですね。年齢を感じさせられません。何時までもお元気でいて頂きたい・・・。時代小説には無くてはならない方ですから・・・。
どんな人が描いているかと、調べてビックリ、
98歳の挿絵画家、調べてここに同じ事を感じている人に出会えました。
私も俳画を描きます。
中村作雄
時々好きなところから読み始めては楽しんでいます。
どのページにも絵があるのが嬉しいですね。
新聞の小説のまま本に出来ればもっと嬉しいです。
ささやかに切り抜きで、贅沢を堪能しています。
中一弥さんを検索して驚きました。
98歳で益々円熟された、素晴らしい挿絵です。
挿絵だけで立派な芸術品だと恐れ入りました。