大聖釈迦如来成道御和讃一、師走の八日朝まだき、菩提の葉風さわやかに 心の闇を払われし、自覚の主の釈迦世尊 二、六年の苦行重ねきて、具わるおのが珠の緒の 妙なるいのちさとられし、教えの主の釈迦世尊 三、久遠の願い深くして、もの皆救いたまはんと 誓いの道にいでたまふ、救いの主の釈迦世尊「明けの星 仰ぐ心は人の世の 光となりて 天地にみつ」 . . . 本文を読む
臘八大接心禅寺では、お釈迦様が12月8日に成道されたこと偲び、12月1日から8日にかけて昼夜を通して座禅する修行が実施されました。この間は睡眠も結跏趺坐した取ります。これを「臘八大接心」と呼びます。俗世のわれわれも今日は少しは「臘八大接心」の仕上げの心になりたいものです。「臘八大接心」について . . . 本文を読む
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史料綜覧 巻五 / 建治元年(1275)十二月八日条
「八日(中略)幕府 明年春 蒙古高麗ヲ征セントスルニ依リテ 山陰山陽南海諸道ニ梶取水手ヲ召集セシム」
前年文永の役が終わったばかりですが、このままでは攻められるばかりと反転攻勢 . . . 本文を読む
観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・27/27
十一。自在の業の事。釈して云く、佛は本と性悪を断ぜざる故に、性悪若し断ぜば普現色身何に依りてか而も立たん。菩薩は衆生利益の為に惑障を留めて是を便として其の界に趣き利益し玉ふなり。去ば観音は三十三身を分けて十九説法を成し玉ふ時は貪瞋痴の三毒多く地獄鬼畜の形をも現じ玉へり。さりながら此の三毒に縛らる之無き故に自在の業と云なり。我等衆生の業は不自在な . . . 本文を読む
今日正和二年十二月七日は後宇多天皇が東寺に施入状を書かれた日です。後宇多上皇宸筆庄園敷地施入状案「施入東寺敷地事等山城國拝師庄 興善院領内也、而替地所を立つ、永く當寺に施入するもの也。同上桂庄 七條院遺領也、同じく他所替、永く之を入れ此の地を掃除料と為す、人夫等長日之を召すべし、以年貢白砂、 以下毎年懈怠なく相續、其の沙汰す可し、佛庭荒蕪せしむる莫矣、 播磨國矢野例名 歓喜院領内也 . . . 本文を読む
史料綜覧 巻五 / 文永十一年(1274)十二月七日条
「七日(中略)延暦寺中堂ニ七仏薬師法ヲ行ヒテ 異国降伏ヲ祈ル」
文永の役は『金剛仏子叡尊感身学正記』が「十月五日、蒙古人が対馬に着く。二十日、博多に着き、即退散に畢わる」と書いているように十月には蒙古軍の敗北で終わっていますがその後にも緊張は続いていたということです。
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.三代実録 / 貞観十年(868)十二月七日丙寅条
「七日丙寅 ・・是日 朱雀門前に於いて京邑の貧人を召集し 物を賜ふ。(相手により)差有り。」
天皇は清和天皇。貞観十年には毎月のように地震がありこのため民が困窮していたと思われます。 . . . 本文を読む
観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・26/27
慈童仙人に成る事。秦の始皇の時慈童と云者帝王の御枕を越たり。公卿大臣等是を見て死罪に行ふべき由を奏聞す。帝王不憫に思し召し流罪にすべき由を勅定有りて酈懸山(てっけんざん)に流さるるなり。彼の山へ行くに七日七夜の間は日月を見ず。しかるに流罪の刻に帝不憫に思し召して彼の童世間の賊、財宝等は盗賊の難あるべきとて王法の秘曲たる此の二句の偈を授け玉へ . . . 本文を読む
史料綜覧巻五 / 建治三年(1277)十二月六日庚申条
「六日庚申 自来十日三箇日 法勝寺に於いて仁王経(注1)を転読すべきの由宣下さる(注2)。 今秋己来 天下病患流布の故也<或記には春夏よりと云ふ> 死人道路に満つる者。(注3)」
仁王経について
密教大辞典によると以下のようにあります。
「・・・大師が弘仁元年十月二十七日に上表せる「国家の為に修 . . . 本文を読む
写経勧進をしていた薬師寺の安田暎胤師は大法輪昭和52年7月号に写経のご利益を大要次のように書いています。「桑名の貝新の水谷新之助会長は1000巻の写経をした後お薬師様の霊夢をみて病気回復した。このほか失明の宣告をうけ自殺寸前に助けられた、20年来の神経痛が治った、不妊宣告にもかかわらず元気な男児をもうけた、などと無数の礼状が薬師寺にくる。」 . . . 本文を読む
観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・25/27
九、感応の事。感応同時なるゆへに海潮音といふなり。中道の音の勝彼世間音と云なり。是即ち凢夫二乗をえらぶなり。凢夫有聲二乗は但空の音なり。有無をきらふ意を勝彼世間音といふなり。故に非有非無の中道の音なり。さて 「念々勿生疑」の事、周琳の註にいはく、念とは繫念相続のいはれなりといへり。是即ち上件のごとく観音を念ずれば諸難を免るるといふ説をきひてこれ . . . 本文を読む
今日12月5日は真別処妙瑞和尚のご入滅の日です。密教辞典及び「妙瑞和尚と有部律(上田天瑞)」等からの引用です「妙瑞(1695元禄9年~1764明和元年12月5日(69歳)は高野山の学僧。真別処第八世。字は恵深坊、讃岐三野の人、12歳で威徳院慧了に出家、高野山に登って宝厳院、のち大阪生玉南坊を兼ね後如意輪寺に転じ、英同に中院・西院両流を、維宝に安祥寺流を南院教栄に小島流、東寺賢賀に勧修寺流を受法。1 . . . 本文を読む
シュバイッツアー「生への畏敬」1923年・動物を手術や薬の実験台に使ったり、動物に病原菌を植え付けたりしてそこから得られた結果を、人間を救うために応用する人々も「自分たちの仕事は残酷ではあっても立派な目的を持っているのだから」というだけの理由で安心してしまってかまわないというわけでは決してない。そういう人々は一つ一つの場合についてその動物を人類の為に犠牲にすることが本当にやむを得ないことであるかど . . . 本文を読む
観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・24/27
八、摂折(摂受 と折伏 )の事。「雷震」と云は、菩薩慈悲ばかりにては叶はず。或時は又忿怒の形をも現して衆生を利益するなり。衆生が盛んに悪業をつくるゆへにをどす意にて「戒雷震」とはとき玉ふなり。此の慈悲と忿怒と云は折伏摂受の二つなり。此の二は鳥の羽翼、車の両輪にして相離れざるなり。慈悲柔の形にては善者を利益し、折伏忿怒の形を現じて悪者を利益し玉ふ . . . 本文を読む