58番仙遊寺から59番伊予の国分寺は6キロです。すぐ着きます。ここは天平13年(741)に行基菩薩が開基。当時は、七堂伽藍を備えた豪壮な大寺で、弘法大師は第三世住職智法律師の時代に来錫、五大尊の絵像一幅を残されました。また大師十大弟子の一人真如法親王も2年ほど滞在されたといいます。藤原純友の乱、源平合戦、貞治3年(1364)の讃岐の細川右馬頭頼之の侵入、長宗我部元親と伊予国守河野通直の兵火と4度も . . . 本文を読む
58番仙遊寺では明治4年住職宥蓮上人が42才で衆生済度のため即身仏となったということが「東寺四国遍路札所案内」に記されています。つい最近です。札所住職は代々衆生済度のため文字通り身を捨てています。そもそも入定はお釈迦様の弟子摩訶迦葉が、弥勒菩薩出世の56億7千万年後を目指しお釈迦様から託された袈裟を弥勒菩薩に伝えるべく鶏足山に入定されたことにはじまります(大唐西域記)。中国でもおおくの入定僧がでて . . . 本文を読む
57番栄福寺から58番仙遊寺へは2km少しの距離です。 58番仙遊寺のある作礼山へのぼる途中、振り返るとかすかに、瀬戸内海に架かる西瀬戸自動車道がみえます。
58番仙遊寺の参道には、「草木国土悉皆成仏」の石塔がありました。
謡曲「杜若」「西行桜」などで、草木の精が「草木国土悉皆成仏」といいます。(「杜若」には「植えおきし。昔の宿の。かきつばた。色ばかりこそ昔なりけれ。色ばかりこそ昔なりけれ。色 . . . 本文を読む
56番泰山寺から57番栄福寺までも4キロですぐ着きます。57番栄福寺は縁起によれば、嵯峨天皇の勅願により弘法大師のご開創です。大師が瀬戸内海を巡錫し、内海の風波海難の平穏を祈って大護摩を修されていると、海上はたちまち穏やかになり、海中より阿弥陀如来を感得し、ご本尊として奉安したとのことです。
本堂向右手に回廊があり、大師堂、薬師堂など諸堂をコの字型に結んでいます。澄禅「四国遍路日記」には「八幡宮、 . . . 本文を読む
52番太山寺へは51番から13キロです。いつも道後温泉街にはいると道がわからなくなります。1回目は町中の187号線をとおりましたが迷いました。2回目のときは散歩中のおじいさんに道を聞いたのですがよくわかりません。ききかえしていると商店街から店の女将さんらしき人が飛んで出てきました。「わからないでしょう。護国神社にでてそこから川に沿ってどこまでもいくのがいちばん分かりやすいですよ」と地図をさしながら . . . 本文を読む
五十番繁多寺から五十一番石手寺までは3.3キロメートル。すぐです。
五十一番石手寺の草創は聖武天皇の神亀五年(七二八)伊予大守越智玉純が勅を奉して鎮護国家の道場として伽藍を建立し、安養寺と名づけたことにはじまるといいます。縁起によれば、「道後湯築城主河野息利の妻が男児を生んだ。その子は生後三年たっても左の手を握ったままであったが安養寺住職の祈祷により手をひらき、「衛門三郎再来」の小石がころげ落ち . . . 本文を読む
47番八坂寺から次の48番西林寺までは4.5kmです。田んぼの中の細い道を歩き、それから車道に出ると着きます。18年末の48番西林寺は森閑として人の気配はありませんでした。夕方やみ迫る中、近くの野焼きの臭いと紫色の煙が読経中の私のところまで流れてきます。
突然何十年も前の生家の山寺の境内にながれていた野焼きの煙が時を経てここにながれこんできたかのような幻想に陥りました。
48番西林寺は聖武天皇の . . . 本文を読む
文殊院のすぐ先は47番八坂寺です。
ここは毎回おなじように朱塗りの橋がでむかえてくれます。 17年秋には47番八坂寺には、数組のお遍路さんがおとずれていました。鮮やかな赤いリュックの女遍路が私の前に赤い橋を渡りました。その人の後ろから「遍路はもう少し地味な格好がいいのに」などど思いつつ入りました。ここは役の行者小角(神変大菩薩)開創です。大宝元年に第四十二代文武天皇の勅願寺として小千伊予守玉 . . . 本文を読む
岩屋寺から46番浄瑠璃寺までは三坂峠越で30Kmくらいあります。 平成17年は三坂峠の頂上を右手に折れ山に入り昔の遍路道をいったので近道でした。三坂峠から八坂寺まで9キロ強です。三坂峠(海抜七一〇㍍)は「三坂越えれば吹雪がかかり、戻りや つま子が泣きかかる」とうたわれたほど、馬子泣かせの峠で、土佐街道最大の難所でした。朝まだきの暗闇のなか、蜘蛛の巣を拂いつつ急こう配を錫杖をつきながら下りていきまし . . . 本文を読む
44番太宝寺から45番岩屋寺へは山道がありこれがすばらしい遍路道でした。44番から国道12号を歩いていく途中久万高原ふるさと村を過ぎて少しのところで遍路道の標識にであいます。国道をそれ、この道をいくと昔の遍路道でこのうえなく風情のある道でした。
途中に「大切なのは今だ」と書いた道標があります。
木漏れ日が落ち葉の絨毯に落ちていました。なぜか何十年も前におとずれた福島県の勿来(なこそ)の関の歌、千 . . . 本文を読む
44番太宝寺に向かって歩いている時、突然道端の売店の女将さんが大きな二十世紀梨を接待してくれたことがあります。近くのコスモス畑の中で頂きました。蜂蜜でも流し込んだような甘い梨でした。梨は母の大好物でした。その日は母の命日でもありました。
或る年の遍路では朝早く遍路宿をでてあるきはじめると道端に東屋が有り近寄ると中からむっくりとお遍路さんらしき人が起き上がりました。近いてみると晴れ晴れとした素晴ら . . . 本文を読む
41番龍光寺は大同二年初午の日、大師の前に、稲を担いだ稲荷大明神が現れ、「われ、この地に住し、仏法を守護して衆生を利益せん」と告げたので、大師はその尊像を刻んで一宇を建立し、四国霊場の総鎮守としたとされます。その後明治の神仏分離により、本堂は稲荷神社(三間稲荷神社)とされ、稲荷大明神と本地仏・十一面観音は、神社から少し下がった現在地にあります。珍しい境内です。十七世紀後半の真念「四国徧禮道指南」に . . . 本文を読む
40番観自在寺から41番龍光寺への道も相当あります。50キロくらいです。丁度半分くらいのところ、金剛橋辺りだったと思いますが、遠くの農家の縁側からこちらを見て飛んできたおじいさんからみかんを10個も接待されたことがあります。なんともいえない素朴ないいお顔でした。
41番龍光寺に着くと白髪の小柄な80歳くらいの遍路装束のおばあさんが石段を降りてきました。
すれちがいざまにみたその顔がなんともいえ . . . 本文を読む
38番金剛福寺から39番延光寺までも60キロ以上あります。昔から38番金剛福寺を打ちおえると大月の月山参りをしてから39番延光寺を打つこともあったとされます。月山神社はもとは「守月山月光院南照寺」と呼ばれ、神仏一体の霊場でしたが、明治以来「月山神社」と改称されています。月山の名は、神社のご神体が三日月形の石であり、また月弓大神を祭祀したことによって名付けられたことが起源とされています。四国八十八 . . . 本文を読む