福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験・・・その38

2018-11-07 | 四国八十八所の霊験

47番八坂寺から次の48番西林寺までは4.5kmです。田んぼの中の細い道を歩き、それから車道に出ると着きます。18年末の48番西林寺は森閑として人の気配はありませんでした。夕方やみ迫る中、近くの野焼きの臭いと紫色の煙が読経中の私のところまで流れてきます。
突然何十年も前の生家の山寺の境内にながれていた野焼きの煙が時を経てここにながれこんできたかのような幻想に陥りました。
48番西林寺は聖武天皇の勅願によって天平十三年(七四一)行基菩薩が徳威の里に堂宇を建立し、一宮別当寺としたのが開創です。大同二年(八〇七)にはお大師様は現在地に寺を移し、十一面観世音菩薩を刻んで本尊として安置されました。大師は旱魃に悩む村民を救済するため、杖を所々に突いて清水の湧く水脈を発見されましたが寺の西南にある「杖の渕」はその遺跡だとされます。寺の周囲のいたるところに小川が流れていて「お大師さまのおかげで水だけは不自由しない」と地元の人々は杖の渕に修行大師像を奉安し感謝しているとガイドブックにありました。

48番西林寺から49番浄土寺までは、わすが3キロで1時間もかかりません。しかし、いつも49番近くで夕暮れになるので、たかの子温泉の「ホテル鷹ノ子」に泊まっていました。20年ころでしたか年の暮れにここにとめてもらったこともありました。年の暮れ、正月を家族で祝うために宿泊している人たちの間で、白装束で一人食事をするのはなにか溶け込めない雰囲気だった事を思い出します。
49番浄土寺は天平年間(729~48)恵明上人の手によって開基、孝謙天皇の勅願寺として盛時には、寺内八丁四方に及び、六十六坊の末寺をもつ大伽藍であったとされます。澄禅「四国遍路日記」には「浄土寺、西林山吉祥寺と号す。三蔵院といふ。又近所八幡の別当を如来院と云ふ。この本堂零落したりしを遊西禅師といふ道心者十方旦那を勧って再興したるなり。堂の傍に祖師あり、善導大師の影像五体不具の像ども五,六体あり。」とあります。この三蔵院というのは、浄土宗の開祖円光大師、二世聖光上人、三世良忠上人の自作の像があったところからそう呼ばれているそうです。御詠歌は「じゅうあくの わがみをすてずそのままに じょうどのてらへ まいりこそすれ」です。天徳年間(957~60)には空也上人が三年とどまったとされています。
 境内には子規の句「霜月の空也は骨に生きにける」が森寛紹元高野山管長の筆で彫られていました。
朝霧の残る薄暗い本堂のご本尊釈迦如来の前で一人般若心経をあげている時、ふとお釈迦様と空也上人ともに諸法皆空・・すべてのものはもとのもとのもとと、どこまでも無限に辿っていくと茫漠として捕らえ様のない世界にたどり着く・・を説かれたのだとおもいました。気が付くと青い綺麗な羽の鳥がお経に唱和してくれていました。後で図鑑でしらべるとルリビタキだったかもしれません。
鳥は古来人間にとっても大切なパートナーでした。
基督教では聖人は鳥に説法します。聖フランチェスコは小鳥に説法したとされますが、佛教では小鳥が人に説法します。『阿弥陀経』では浄土では六鳥が説法しているとされます。
「舎利弗、かの国には常に種々の奇妙雑色の鳥あり。白鵠(白鳥)・孔雀・鸚鵡・舎利(鷲鷺)・迦陵頻伽・共命鳥(一身二頭の鳥・共通の命)なり。このもろもろの衆鳥、昼夜六時に和雅の音を出だす。その音、五根(信、進、念、定、慧)・五力(信力・進力・念力・定力・慧力)、七覚支(念・択法・捨・精進・喜・軽安・定)、 八聖道分(正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)かくのごときらの法を演暢す。その土の衆生、この音を聞き已りて、みなことごとく仏を念じ、法を念じ、僧を念ず。」とあります。 
お大師様も「後夜に仏法僧の声を聞く」で「閑林に独坐す草堂の暁、三宝の声一鳥に聞く、一鳥声あり人心あり、声心雲水俱に了了(鳥は法を説き(法宝)、人は仏心がある(仏寶))」とおっしゃっています。高野山真別所で加行していた時もいつも鳥の声に聴きほれました。その時『鳥声明』という言葉を教わりました。実際、朝皆で声明をあげていると必ず小鳥が唱和しました。懐かしく思い出します。
お大師様の「一鳥声あり、人、心あり」という句も遍路の山道で鳥の声を聞くといつも思い出します。
頼富本宏「四国遍路とはなにか」によると「・・空也は寺をさるとき姿を模した自刻像をのこしたという。浄土寺につたわる空也上人像(重文)は京都六波羅蜜寺のものと同様、口から六体の阿弥陀仏を吐き出し、鹿の衣をmとって鹿の角の杖を左手にもち、首から吊った鉦を右手に持つ槌で叩く姿をとる。鎌倉時代の作であり、念仏遊行者によってもたらされたものと考えられる」としています。

49番から50番繁多寺までは2キロメートル余にすぎませんが毎回50番繁多寺近くになって迷います。
人家の中や墓地をとおりますが道しるべもなく心細くなります。すぐ近くなのに何度も人にききました。

 50番繁多寺の説明版には「孝謙天皇の勅願により天平勝宝年間(8C中頃)に行基により開創(本尊薬師如来)、このとき天皇から数流の旗を賜ったので「旗多寺」といわれたのが「繁多寺」となった。「一遍聖絵」によると正応元(1288)年一遍上人が最後の遊行に出られたとき44番大宝寺45番岩屋寺を巡拝して当寺に三日間参篭し亡父如仏のために三部経を奉納した・・・」とありました。、弘安2年(1279)には後宇多天皇の勅命をうけ、この寺で聞月上人が蒙古軍の撃退を祈祷したり、応永2年(1395)には後小松天皇の勅命により泉涌寺26世・快翁和尚が、繁多寺の第7世住職となったとされます。さらに江戸時代には四代将軍家綱念持仏の歓喜天を祀るなど、寺運は36坊と末寺100数余を有するほどの大寺として栄えたときもあるようです。しかし澄禅「四国遍路日記」(1653)には「繁多寺、この寺は律寺にて昔六十六坊のところなり。實に大門の跡より二王門までは三町ばかりなり。本堂二王門には雨もたまらず塔は朽ち落ちて心柱九輪傾いて哀れ至極なり」とあります。今は真言宗ですが江戸初期は律宗だったのでしょう。それにしてもどこも寺は有為転変を繰り返しているようで、諸行無常をみずから衆生に示してくださっているとしか思えません。今も当時の面影を残して広い境内です。そして、寺容はそれなりにととのっています。
19年暮の人気のない繁多寺では御住職自ら納経してくださいました。「どちらから?」と声をかけられ「東京です」と答えました。
納経のとき一言でも言葉をかけていただけるとぐっとありがたくなります。


 十四世紀室町時代ごろ大干ばつで村人が苦しんでいるとき当時の住職覚了師は穴を堀りそのなかで雨乞いの行をしたまま10日目に入寂し23日目に雨が降ったということです。 壮絶な札所住職の生き様です。
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