41番龍光寺は大同二年初午の日、大師の前に、稲を担いだ稲荷大明神が現れ、「われ、この地に住し、仏法を守護して衆生を利益せん」と告げたので、大師はその尊像を刻んで一宇を建立し、四国霊場の総鎮守としたとされます。その後明治の神仏分離により、本堂は稲荷神社(三間稲荷神社)とされ、稲荷大明神と本地仏・十一面観音は、神社から少し下がった現在地にあります。珍しい境内です。十七世紀後半の真念「四国徧禮道指南」には「四十一番稲荷宮」とあります。御詠歌は「この神は三国流布の密教を まもり給ん 誓いとぞきく」です。
17年のときはここではかなり年老いて呂律も覚束ない住職が納経をしてくださいましたが、私を見て「会社を首になって廻って居るのか。」と聞かれます、私は丁度リタイアしたばかりでもありましたので「そうです」と答えました。納経、掛け軸の字を後から見ると相当字体が乱れていました。しかしそれはそれでいい思い出になります。
41番から42番佛木寺までは4キロくらいです。花々の植えられた遍路道を辿っていくとすぐです。ここのご本尊は金剛界大日如来です。御詠歌は「くさもきも ほとけになれるぶつもくじ なをたのもしき きちくにんてん」です。山川草木悉有仏性を詠みこみ、ましてや生命を持つ、餓鬼・畜生・人・天は成仏できるのが当たり前と歌っています。
澄禅「四国遍路日記」には「佛木寺、本堂東向、本尊金剛界大日如来座像、五尺ばかり。一孰山毘盧遮那院と号す、堂の後ろに楠あり、此の枝の落ちたるを拾ひて諸国にて病気を治と云」とあります。「佛木」とはこの事を云うのでしょうか。開創に際しても大師が楠木に唐から投げた宝珠が掛っているのを発見して、この楠木で大日如来を作り、その眉間へ宝珠をおさめ「一果山 佛木寺」とされたといいます。いずれにせよ楠木が霊木としてあったということでしょう。17年のお遍路の時はここのご住職と高野山の共通の知り合いの話で盛り上がりました。
43番明石寺より大洲市街を通り過ぎ、国道56号線沿いの十夜が橋永徳寺を参りました。車が激しく行き交う国道56号の下に石像のお大師様が横になっておられました。
お姿を拝し涙が出てしかたがありません。
ここは大同2(807)年厳冬、大師がこの地を通られた時、宿がなくこの橋の下で休まれ「いきなやむ、浮世の人を渡さずば、一夜も十夜の橋とおもほゆ」と詠われたところ。
ここから遍路は橋の上では杖をつかないことになったわけです。
一休禅師も、当初は橋の上も杖をつきながら遍路をしていたのですが、ここにきてお大師様の衆生済度の熱いお心にふれ、ハラハラと涙を流しお詫びしたということです。
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17年のときはここではかなり年老いて呂律も覚束ない住職が納経をしてくださいましたが、私を見て「会社を首になって廻って居るのか。」と聞かれます、私は丁度リタイアしたばかりでもありましたので「そうです」と答えました。納経、掛け軸の字を後から見ると相当字体が乱れていました。しかしそれはそれでいい思い出になります。
41番から42番佛木寺までは4キロくらいです。花々の植えられた遍路道を辿っていくとすぐです。ここのご本尊は金剛界大日如来です。御詠歌は「くさもきも ほとけになれるぶつもくじ なをたのもしき きちくにんてん」です。山川草木悉有仏性を詠みこみ、ましてや生命を持つ、餓鬼・畜生・人・天は成仏できるのが当たり前と歌っています。
澄禅「四国遍路日記」には「佛木寺、本堂東向、本尊金剛界大日如来座像、五尺ばかり。一孰山毘盧遮那院と号す、堂の後ろに楠あり、此の枝の落ちたるを拾ひて諸国にて病気を治と云」とあります。「佛木」とはこの事を云うのでしょうか。開創に際しても大師が楠木に唐から投げた宝珠が掛っているのを発見して、この楠木で大日如来を作り、その眉間へ宝珠をおさめ「一果山 佛木寺」とされたといいます。いずれにせよ楠木が霊木としてあったということでしょう。17年のお遍路の時はここのご住職と高野山の共通の知り合いの話で盛り上がりました。
43番明石寺より大洲市街を通り過ぎ、国道56号線沿いの十夜が橋永徳寺を参りました。車が激しく行き交う国道56号の下に石像のお大師様が横になっておられました。
お姿を拝し涙が出てしかたがありません。
ここは大同2(807)年厳冬、大師がこの地を通られた時、宿がなくこの橋の下で休まれ「いきなやむ、浮世の人を渡さずば、一夜も十夜の橋とおもほゆ」と詠われたところ。
ここから遍路は橋の上では杖をつかないことになったわけです。
一休禅師も、当初は橋の上も杖をつきながら遍路をしていたのですが、ここにきてお大師様の衆生済度の熱いお心にふれ、ハラハラと涙を流しお詫びしたということです。
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