福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

四国八十八所の霊験・・・その45

2018-11-14 | 四国八十八所の霊験
58番仙遊寺から59番伊予の国分寺は6キロです。すぐ着きます。ここは天平13年(741)に行基菩薩が開基。当時は、七堂伽藍を備えた豪壮な大寺で、弘法大師は第三世住職智法律師の時代に来錫、五大尊の絵像一幅を残されました。また大師十大弟子の一人真如法親王も2年ほど滞在されたといいます。藤原純友の乱、源平合戦、貞治3年(1364)の讃岐の細川右馬頭頼之の侵入、長宗我部元親と伊予国守河野通直の兵火と4度も焼失してもその都度復興しています。現在の本堂は寛政元年(1789)に43代住職の恵光上人が金堂として建立したとされます。澄禅「四国遍路日記」には「寺楼、庭上、前栽、誠に国分寺というべき様なり」としていますから江戸初期にはすでに寺容を調えていたと思われます。17世紀真念の「四國徧禮道指南」にはこの次の廻り方として「いにしへは一宮・香園寺・横峯と順に札をおさめしかども一宮を新屋敷村へうつし奉るによりて今は大明神河原より右へ横峯・香園・一宮へと打つ。」とあります。昔はこの後62番宝寿寺・61番香園寺・60番横峰寺と廻っていたようです。これも今でも合理的なコースです。

2回目遍路の18年12月31日はこのあと61番香園寺を目指して今治湯ノ浦の「ホテル橘」にとまりました。
何軒か電話してやっと暮にも開いているところを見つけたのです。日が高いうちに屋上の大浴場にはいりました。年末でだれもいません。透明なガラス越しに午後のお日様がさんさんとさしこんできました。一人でプールのような湯船に何回もつかりお遍路なのにこんなことしていていいのかなと思いました。以前、 23番薬王寺宿坊で一人旅の女遍路が「遍路がこんなに楽しいなんて知りませんでした。こんなに楽しくて修行になるのでしょうか。」といっていたのを思い出したりしました。

しかしこんなことを思い出していい気になっていたのはとんでもない思い違いだったことにあとで気がつくのです。後に横峯寺のところでのべますが2回目といえど四国遍路はそんなにたやすいものではなかったのです。

それは後で述べるとして年の瀬にホテルのロビーで興味深い新聞記事をみつけました。
18年12月31日付の毎日の記事だったと思います。宮脇昭横浜国大名誉教授等がアフリカのサバンナは本来熱帯雨林だったのを欧州人が牛や羊を持ち込み下草を食べさせて壊した結果だという趣旨のことを書いていました。
以前、NHKの番組で、ギリシャの地層を調べたらいろいろな植物の花粉の化石が検出され、森林があったこと証明されたことが紹介されていました。しかし牧畜のため緑を失い滅んだといいます。
ローマ文明も地中海の緑を破壊し尽くして終焉を迎えます。スペイン、イギリスもやはり、同様の運命をたどります。 17-18世紀のイギリスは強い海軍力を持っていましたが、軍艦を作るために森を切りつくし、帆柱に使う大木が確保できなくなるにつれて、海軍力が傾いたといいます。またイギリスはアメリカなど植民地の森も伐採したということです。
イラン、イラクもかっては森だったといわれています。人間の欲望の暴走は自己の文明の母である森林までも食い尽くしてやまないのです。
「どこにも土着の宗教がありそれが自然を保護していたのに土着の宗教を抹殺した結果環境まで破壊されたのではないか。」とも宮脇教授は書いていました。その後、宮脇教授は23年の東日本大震災の被災地海岸にも大規模植林をしておられ敬服しています。

国家神道化の一環で神社合祀により鎮守の森を破壊しようとした明治政府に南方熊楠が抗議し身を挺して森を守った話は有名です。
昭和天皇が「雨にけぶる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」とうたわれたことをおもいだしました。
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