五十番繁多寺から五十一番石手寺までは3.3キロメートル。すぐです。
五十一番石手寺の草創は聖武天皇の神亀五年(七二八)伊予大守越智玉純が勅を奉して鎮護国家の道場として伽藍を建立し、安養寺と名づけたことにはじまるといいます。縁起によれば、「道後湯築城主河野息利の妻が男児を生んだ。その子は生後三年たっても左の手を握ったままであったが安養寺住職の祈祷により手をひらき、「衛門三郎再来」の小石がころげ落ちた。この子こそ天長八年十月、十二番焼山寺の山中で亡くなった衛門三郎の生まれかわりなのであった」とされます。やがて安養寺を石手寺に改め、この石は寺に納められています。澄禅「四国遍路日記」には「石手寺、本尊は薬師、本地は熊野三所権現。二十余間の長床あり。つつ゛いて本堂・文殊・三重塔・御影堂・鐘楼・二王門。予州無双の大伽藍なり」とあります。広い境内にその面影はいまものこっています。
境内には上に六観音の名を刻み下に「伊予の秋、石手の寺の香盤に海の色して立つ煙かな」の句を刻んだ与謝野晶子の句碑があります。「海の色した香煙」とはさすがにすばらしい譬えです。昔読んだ高校の先生の遍路記に「お線香の火で醜悪な近代文明を焼き尽くしたい。」とあったのをおもいだしました。まことに風のまにまに青く漂うお線香の煙はデジタル化され個人的欲望に塗りこめられた現代文明とは対極的位置にあります。
我々は普段何の気なしに焼香したりお線香をあげていますがこれには深い意味があります。
①仏様を供養し、仏様に来ていただくという意味②魔を払うという意味③中陰にいる故人の魂に香を食してもらうという意味④人間界の臭気を拂うという意味⑤精進を誓う意味、の5つです。
① (仏様を供養し、仏様に来ていただくという意味)賢愚経には、放鉢国の長者の息子、富那奇尊者は弟の羨那と共にお釈迦様の為に香木でお堂を作りました。そしてお釈迦様をお迎えしたいと思い、二人で各々香炉をもってお堂に上り、お釈迦様のいらっしゃる祇園精舎に向かって仏様のご来臨を祈願しました。この香煙は不思議なことに祇園精舎のお釈迦様に流れてゆきお釈迦様の頭上を覆ってしまいました。そこでお釈迦様は兄弟の深い帰依の気持ちを知り、弟子と共にその栴檀堂に赴かれたということです。ここから焼香は仏様をお迎えする便りであるとされます。大日経疏八には、(供養に塗香、華蔓、焼香、飯食、燈明があるが、)焼香はあまねく法界に到ることを、(塗香は清浄を、華は慈悲を、飯食は無上の甘露・不生不死を、燈明は如来の光明が暗を破する意味を)表わすとしています。金剛界曼荼羅には八供養菩薩(嬉・曼・歌・舞、香・華・燈・塗)と云う菩薩様方が描かれており、大日如来と四佛が相互に供養されています。
② (魔を払うという意味)説法明眼論には「焼香品第四、至心二香木ヲ焼ケバ天魔及ヒ波旬、香ヲ聞テ失心シテ退クコト楢シ死門二入ルガ如シ、讐ヘバ蜣蜋虫(リョウキョウチュウ)ノ天ノ甘露ノ美二酔ヒ、蚪蟢(トウキ)苦辛ヲ好テ、其ノ昧最モ美ナリト為ルガ如ク、魔民モ亦是の如シ。香ヲ聞テハ臭悪ト嫌フ、若し悪臭ノ気ヲ聞テハ、カヲ増テ功徳ヲ防ク、若し入美香ヲ焼ケハ魔倫ハ他方二趣キ、仏神ハ歓喜シテ守り、修善は必ス成就ス。」とあります。
③(中陰にいる故人の魂に香を食してもらうという意味)
雜阿毘曇心論 には「 問中陰何食答香食欲界中陰以香」(中陰では香を食事とする)とあります。
④(人間界の臭気を拂うという意味)密教仏事問答には「「律相感通傳」を考えるに天人が下って道宣律師(唐時代南山律宗の開祖、唐随一の学僧)に見えたとき、道宣が「仏の供養に先ず香を献ずるのは如何なる謂れがありますか」と問うたところ、天人の答えるには「人間の臭気は上四十万里に臭う、諸天は清浄でこれを厭う。しかし護法の佛勅をうけているので地に下らないわけにはいかない。故にこのために仏事には必ず香を焼かしめるのである」とあります。
⑤(精進の意味)嵐渓拾要集には「・・一。六種供具ノ事 示云。此六種供具ト者。六波羅蜜所表也。此行法ノ次第ハ。自因至果從果向因、成佛ノ所表ナルカ故ニ。必ズ供具ヲ用フ。其故ハ因位萬行萬善ハ、廣ク六波羅蜜ヲ促ルニ在ト雖モ。此六度ヲ一座行法ノ中ニ圓滿具足スル也。所謂閼伽者檀度。塗香ハ戒。花鬘ハ忍辱。燒香ハ精進。飮食ハ禪定。燈 明ハ智慧也。此六種供具當體。是六大相貎也。以ッテ六大無礙即身成佛ト名ズク也。仍チ我等ガ六大和合スルヲ祕密壇ノ供養法ト名ズク也・・」とあります。
私も永く試行錯誤の上やっと高野でいいお香を見つけました。いまでは大切なお詣りはすべてそれを使うことにしています。するとそのお線香を焚くたびに仏様や亡き父母達と一体に成れる感じがするのです。四国遍路でもすべてこのお香を焚きました。
何回目かの遍路の時、石手寺の門のところで蓬髪破衣大きな荷を背負ったの中年遍路に出会いました。「何回くらいおまわりですか?」と尋ねると「15回くらいです」としっかりしたよく通る声で返事がかえってきました。少し喜捨しました。「すごい回数歩いておられてすばらしいですね」というと澄んだ声で「あなたさまこそ」と言われました。「貴方様」などといわれたのははじめてですがこのひとがいうと自然に聞こえました。蓬髪破衣の外観とは反対に、仕草や言葉使いからはなんともいえない気品を感じました。納経所の人達もこの人を何度も見かけており、一目置いているのでしょう「お気をつけて」と次々に言葉をかけていました。
禅僧には清貧に甘んじた修行僧が多くおられたようです。
唐の寒山・拾得の話は、森鴎外・坪内逍遥等も書いていて有名です。鴎外『寒山拾得』では「(拾得は)厨で僧どもの食器を洗わせております・・寒山でございますか、これは拾得が食器を滌いますとき、残っている飯や菜を竹の筒に入れて取っておきますと、寒山はそれをもらいに参るのでございます・・」とあります。しかしこの二人は実は文殊菩薩様と普賢菩薩様なのでした。
日本では江戸時代の高僧・乞食桃水の話も有名です。桃水は悟ったのち乞食の群れに身を投じ、死人の残したお粥を飲んだといいます。 「中隠」という 白居易の詩があります。「大隠は朝市に住み、小隠は丘樊に入る、丘樊は太だ冷落、朝市は太だ囂諠ごうけん、如かず 中隠と作なりて、隠れて留司りゅうしの官に在るに、出ずるに似て復また処おるに似る、忙ぼうに非あらずして復た閑かんに非ず」というものですが、「大隠」は市に居るようです。
古代ギリシャの哲学者デイオゲネスも樽のなかで生活をし、アレクサンドロス大王が希望を聞くと、「あなたが日陰になるからどいてください」とだけ言ったといいます。四国の遍路道にはおおくの寒山・拾得やデオゲネスや桃水のような人がいます。本来遍路は乞食して廻るのが修行と定められていたのですから当然です。わたしも数十年前に四度加行等をおえて、初めて僧侶になった時は頑張って徳島一国を乞食遍路して歩いたことがあります。一日に七軒の家で般若心経を唱えお接待を頂くのです。しかし当時でもなかなかお接待はしていただけませんでした。いまはもっと接待も少なくなり、しかも托鉢を門前ですることは霊場会で禁じられていると以前薬王寺の前に立っている托鉢遍路にききました。代受苦の菩薩でもあり、本物の遍路かもしれないこういう人々を疎外するようになっては八十八所も将来信仰の基盤をうしなうことになります。人々は托鉢する人を疎外していますがさしたる徳もなくして浪費三昧に日を送っている我々こそ実は仏さまから疎外されているのかもしれません。 中央では、経済人なるものが政府の審議会を独占し、経済官庁といわれる官庁が徘徊し、マスコミは毎日金儲けの記事ばかりです。そして、国民一人一人は、金をいくら持っているか、実入りがいくらか、だけで存在価値を判断されるという、浅ましい世の中になってしまいました。最近では強欲資本主義ともいわれます。
ノーベル経済学者アマルチア・センはこういう傾向を見越して数十年前にすでに「経済人は社会的には愚者である。」(「合理的な愚か者」)と喝破しています。実感します。愚者どころか弱者を食い物にする罪人でしょう。経済合理性のみに振り回されて生きてきた人こそ愚者を通り越して合理的な大悪人なのではないかと永年こういう人達を身近に見た経験でつくずく思わされます。こういう拝金主義者たちを見ていると、「じつは人間をホモ・スツルチッシムス(超愚人)とよびたいところだが、そこはすこしおだやかに、最上級の形容詞はやめて、ホモ・スツルツス(愚かなる人)と名けることで満足しよう。(リシェ『人間―愚かなるもの』)」という言葉を思い出させます。いままで出会った経済人で是はと思わせる人は残念ながらゼロに等しいのです。「経世済民」の意味を忘れて市場原理主義・拝金主義に陥っている国はその基礎を蝕まれて早晩亡びざるを得なくなります。藤原正彦は「この国のけじめ」で「市場原理主義は経済に限っても誤りである。それに止まらない、必然的に発生する金銭至上主義は・・人間の価値基準や行動基準までも変えつつある。人類の築いてきた文化、伝統、道徳、倫理などをも毀損しつつある。国柄を片端から破壊し、人々が穏やかな気持ちで生活することを困難にしている。市場原理主義は経済的誤りという域をはるかに越え、人類を不幸にするという点で歴史的誤りでもある。・・人類への挑戦でもある。これに制動をかけることは焦眉の急である。」と書いています。
そうです、私利私欲の者たちに蹂躙されて日本を亡ぼしてはなりません。それには相当深いところから日本人を再度造り直していかねばならないでしょう。福聚講で神仏一体を叫ぶ所以です。
スウエデンボルグは「霊界通信」でパウロ、ルターなど信仰のみで行動を軽んじたキリスト教界のおおくのリーダーが地獄におちていたと書きました。
東南アジア諸国の上座部仏教国には、地域や貧窮する人々の救済に努め、心の開発を行う「開発僧」がいます。台湾の慈済も有名です。14番常楽寺も孤児院を経営していました。(私も老人ホームや障害者施設でボランチアのまねごとをやったことがありますがここで全盲の人が音だけでテニスができ、しかも剛速球を打つことができることを目の当たりにして大きな教訓を得ました。東日本大震災のボランチアも数回行きました。その後は少額の義援金の寄付をしたり、以前から毎日市街地のゴミ拾いを続けてお茶を濁していますが隔靴掻痒の感がぬぐえません。)
大乗戒の三聚浄戒(摂律儀戒、摂善法戒、摂衆生戒)でいう摂衆生戒、密教の四重禁戒(不応捨正法戒、不捨離菩提心戒、不応慳悋正法戒、不応不利衆生行戒)でいう不応不利衆生行戒 はまさにこのことです。
おおくのお経にも具体的救済活動が大切とあります。
・道教の太上感応編にも、一日三善して三年たてば必ず福が来るとしています。「・・諸悪莫作、衆善奉行、久しくして必ず吉慶を獲る、所謂災いを転じて福となす也。故に吉人よきひとは善を語り、善をおこなう。一日ごとに三善あれば三年にして必ず天これに福を降す。凶人わるきひと悪を語り悪を行う、一日ごとに三悪あれば三年にして天必ずこれに禍をくだす。なん勉めて之を行はざる。(太上感応編)」とあります。
ましてや仏教経典には無数に出てきます。
・「小慈はただ心に念じて衆生に楽を与えんとするもじつには楽事なし。小悲は衆生の種々の身苦・心苦を観ずるになずく。(それはただ衆生を)憐みんするのみにて(苦より)脱せしむることあたわず。大慈は衆生をして楽をえしめんと念じ、(じっさいに)楽をあたう。大悲は衆生の苦を憐みんし、またよく苦を脱せしむ。」(大智度論)
・「大慈悲をもって一切衆生の苦悩を観察して応化の身を示す。生死の園・煩悩の林のなかに廻入して神通力に遊戯す。」(浄土論)
・お大師様の秘蔵宝鑰にも「仏教は人々に悪を離れ善をおこなうことを具体的に教えて幸福に導く、これを諸仏は守り多くの利益を与える。(悪を断ずるがゆえに苦を離れ、善を修するが故に楽を得、僧尼あるが故に仏法絶えず、仏法存するが故に人みな眼を開く。眼明らかにして正道を行ず。
・・・教法のあるところ諸仏護念し諸天守護す、かくのごとくの利益あげてかぞふべからず・・・)」とあります。
・大日経には有名な三句の法文があります。「菩提心と大悲の上にたち究極的には具体的救済活動をおこなうことが最終目的(菩提心を因とし大悲を根とし方便を究境となす)」と書いています。
・そして究極の方便(具体的救済活動)としてお大師様は「衆生や宇宙がなくなるまで衆生の救済にあたってやろう(衆生尽き、虚空尽き、涅槃尽きなばわが願いも尽きなん(性霊集))」とおっしゃって高野山奥の院に入定されました。ここにわれわれがお蔭をいただくもとがあるのです。
このお大師様の請願をいただき、人のため祈ることも含めお大師様の末資として具体的救済活動に動いていくことが自分自身の救済にもなるのではないかと思いいたりました。
与謝野晶子は
「劫初よりつくりいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ」
とよみました。
慈雲尊者は陰徳を積んでないものが贅沢な境涯を享受していると必ず不詳がおこるといっています。飽きることなく資源を浪費しているわれわれのことです。
「房屋その制度をすぐる、必ず禍を招く。衣服の分、刀剣の飾り、車馬の装い、みな準じしるべし。智勇世をおおふ、容貌衆に異なる、名称のひろく達する、才芸の他に超ゆる等、その慎しみを忘るべからず。その徳ありてその位にをる、その功ありてその禄をはむ、譲をうけてその家に主たる、幸いに遭うてその財にとむ、もしおごる心あればこれもなきにしかず。(人となる道)」
石手寺では納経所の人に見守られながら出ていく遍路の「桃水さん」は大変心地よさそうでした。
「桃水の山門をでる春霞」(行者)