44番太宝寺に向かって歩いている時、突然道端の売店の女将さんが大きな二十世紀梨を接待してくれたことがあります。近くのコスモス畑の中で頂きました。蜂蜜でも流し込んだような甘い梨でした。梨は母の大好物でした。その日は母の命日でもありました。
或る年の遍路では朝早く遍路宿をでてあるきはじめると道端に東屋が有り近寄ると中からむっくりとお遍路さんらしき人が起き上がりました。近いてみると晴れ晴れとした素晴らしい顔つきの頭を剃った40歳くらいのお遍路さんがいました。「悟った顔」というのはきっとこういう顔だ、相当の高僧に違いないと思いおずおずと「どちらのお寺からいらっしゃいましたか?」と話しかけました。
ところが、その人は「私は僧侶では有りません」といったのです。よくよく話を聞くとうつ病のためエリートコースをひた走っていた会社を退職し、足摺岬に自殺にきた人でした。しかし自殺の直前に遍路の鈴の音を聞き、せめて遍路でもしてから死のうと思い、托鉢して回りはじめたらお接待が相次ぎうれしくなってまわっているうちにお蔭を頂きうつ病が治ったというのです。 以来、四国を何度も回ったそうです。四国の自然と人情そして千数百年染み込んだ無数の人々の祈りと、歴代札所住職達の土中入定や補陀落渡海による捨身の誓願、なによりもお大師様と札所本尊・歴代住職の衆生済度の誓願がこの方に働いたのでしょう。色々と話し込みました。身の上話はタブーなので避けましたが、遍路道でのお接待の話は参考になりました。それによるとお接待をして下さる家は立派な家ではなく、むしろ質素な家であることが多いということでした。また病人を抱えている方とか、深刻な悩みをかかえている方等人生苦にあえぐ方々が厳しい生活の中からお接待をして下さる傾向が強いとも教えてくれました。聞いていてなんともいえない複雑な気持ちになりました。恵まれすぎている方々は弱者に冷たいというのです。いま恵まれている人は前世の布施行のおかげなのにまったくあわれな人たちです。
(その後、帰京してしばらくしたころ俗世のお付き合いの方から「知人がうつ病になって会社を休んでいる、相談に乗ってほしい」と頼まれ増上寺境内で相談に乗ったこともありました。此の人も某大企業でエリートコースを驀進していた人でしたが、栄転先の部下たちが反抗してうつ病になったのでした。川崎大師の近くといいますので、だまされたと思って川崎大師に21回お参りにいってみなさい、かならず回復します」というとその通り実行して18回目に治り復職しました。)
26年夏にも自宅近くの国立駅前で黙々とゴミ拾いをしている婦人に「ご苦労様です、いつもありがとうございます」と声をかけましたがこの方は、ゼスチャーで、耳が聞こえないという仕草をしました。ハッとしました。 時々通りかかる文京区の大塚公園でも、野宿している老婦人がいつも公園の落ち葉を掃いています。 こういう方たちは俗世の価値観からすると必ずしも恵まれているとは言えない立場です。俗世の価値観で「弱者」と「強者」を分けるとすれば、「弱者」という立場かもしれません。しかしこういう方たちが黙々と「布施行」に励んでいます。のうのうと恵まれた生活をして布施のなんたるかを知らずにいる人たちは恥ずかしい限りです。
「貧者の一灯」の説話の基になった「阿闍世王授決經」では、貧母が乞食で得た僅かな金で油を買い燈を燃やして仏を供養したところその燈か消えることなく輝き続けた、貧母は仏様から将来「須彌燈光如來」となると授記(将来仏となると予言)された、と書かれています。授記の理由は貧母の「一図さ」です。阿闍世王が同じことをしても授記されなかったのは「王の作すところ多しといえども心不專一なり。此母の佛への注心の如くならざる也」とされます。即ち一心に供養申し上げるかどうかがお蔭の出る分かれ道ということです。
また、今恵まれている方々はこういう弱者、不条理な目にあっている方々が自分の受けるべき苦を代わって受けてくれているから、のほほんとしておれるのです。東北の被災者の方々をはじめ災害等で犠牲になっている方々は其の他の人々に代わって被災されたのです。あらゆるお経に出てくるこの「代受苦の思想」を知らずして「自分だけは不幸な目に会わなくてよかった」と思ってのうのうと日々を過ごしているとするとそういう人はこの後が大変です。なぜなら華厳経でいうように、時間も空間も、すべては相互に入り込んでいてあらゆる存在は一体であるからです。他者と切り離された自己などというものは存在しないのです。
最近やっとこの考え、即ち「華厳経第13巻初発心菩薩功徳品」の「一の世界はこれ無量無辺の世界なりと知り、無量無辺の世界はこれ一の世界にはいることを知り、・・一劫は数ふべからざる阿僧祇劫にして、数ふべからざる阿僧祇劫は即ち一劫なりと知る・・」という考え即ち「すべては一である」という考えが頭でなく体で感じられる気がしてきました。
四国遍路で出会ったこの高僧のような風格のお遍路さんはこれからお礼参りして実家に帰るということでした。 この方に心ばかりのお接待をして、「もしよかったら体験記を送ってください、ひとに見せてやりたいので」といって別れましたが、その後連絡はありませんでした。
43番明石寺から44番大宝寺までは80k徒歩で約 16時間の距離です。途中歩きとバスを組み合わせても44番太宝寺には夕方ふらふらで着くこともあります。44番大宝寺の境内は樹齢数百年の杉や桧が林立しており幽邃です。寺は大宝元年(七〇一)に、百済の僧がこの地に草庵を結び十一面観世音を安置したのがはじまりで、後に開創当時の年号、大宝年間にちなみ大宝寺として創建、のちにお大師様が四国88番霊場に定められたということです。保元年間に後白河法皇が、元禄年間に住持の雲秀法師がそれぞれ再興し、現存の本堂は大正十四年の再建とされます。
一回目の時、ふらふらで歩いていると上り口にある売店のおじいさんがジュースを接待してくださった上に、遍路宿まで軽四輪に乗せてくださるというのです。助手席で私が「ここの久万町の名はお大師様を大切に接待した「おくまさん」からきているらしいですよ」と話すと、( 地元には「むかし、お大師様がここの山里の一軒家で「おくま」という老婆に接待してもらい、大師がお礼に此の山里を人でにぎわう里にしてあげた」という言い伝えが残っているようなのです。)おじいさんは運転中なのにハンドルから手を離して合掌してしまいました。
このあと送り届けてもらった遍路宿の主人にこのおじいさんの店の電話番号を調てもらい電話で改めてお礼をいいました。
ただ2年後の19年に再開を楽しみに訪れたときはもうこのおじいさんの店はありませんでした。相当のお年の夫婦だったので店をたたんだのでしょうか。時の流れの残酷さを感じました。何年かのちに行くと納経所でも同じ人は少ない気がします。みなさん代替わりしています。
「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず。」と劉希夷の「白頭を悲しむ翁に代わる詩」を思い出します。
(「代 悲 白 頭 翁 (白頭を悲しむ翁に代わる)劉 廷 芝
洛陽城東 桃李の花 飛び来り飛び去つて誰が家にか落つ 洛陽の女児は 顔色を惜しみ 行くゆく落花に逢ひて長歎息 今年花落ちて顔色改まり 明年花開いて復た誰か在る 已に見る松柏の摧かれて薪と為るを 更に聞く桑田の変じて海と成るを 古人 復た洛城の東に無く 今人還た対す 落花の風 年年歳歳 花相似たり 歳歳年年 人同じからず 言を寄す 全盛の紅顔子 応に憐れむべし 半死の白頭翁 此の翁白頭 真に憐れむべし 伊(こ)れ昔 紅顔の美少年 公子王孫 芳樹の下(もと) 清歌妙舞す 落花の前 光禄の池台に 錦繍を開き 将軍の楼閣に 神仙を画く 一朝病に臥して相識る無し 三春の行楽 誰が辺にか在る 宛転たる蛾眉 能く幾時ぞ 須臾にして 鶴髪乱れて糸の如し 但看る 古来歌舞の地 惟黄昏(こうこん)鳥雀の悲しむ有るのみ」。
「日本巡礼記集成(弘法大師空海刊行会、昭和60年) 」によると「昭和50年頃、北海道の中谷という人(当時60歳)がお蔭を受け、ここで目がみえるようになった」とありました。
或る年の遍路では朝早く遍路宿をでてあるきはじめると道端に東屋が有り近寄ると中からむっくりとお遍路さんらしき人が起き上がりました。近いてみると晴れ晴れとした素晴らしい顔つきの頭を剃った40歳くらいのお遍路さんがいました。「悟った顔」というのはきっとこういう顔だ、相当の高僧に違いないと思いおずおずと「どちらのお寺からいらっしゃいましたか?」と話しかけました。
ところが、その人は「私は僧侶では有りません」といったのです。よくよく話を聞くとうつ病のためエリートコースをひた走っていた会社を退職し、足摺岬に自殺にきた人でした。しかし自殺の直前に遍路の鈴の音を聞き、せめて遍路でもしてから死のうと思い、托鉢して回りはじめたらお接待が相次ぎうれしくなってまわっているうちにお蔭を頂きうつ病が治ったというのです。 以来、四国を何度も回ったそうです。四国の自然と人情そして千数百年染み込んだ無数の人々の祈りと、歴代札所住職達の土中入定や補陀落渡海による捨身の誓願、なによりもお大師様と札所本尊・歴代住職の衆生済度の誓願がこの方に働いたのでしょう。色々と話し込みました。身の上話はタブーなので避けましたが、遍路道でのお接待の話は参考になりました。それによるとお接待をして下さる家は立派な家ではなく、むしろ質素な家であることが多いということでした。また病人を抱えている方とか、深刻な悩みをかかえている方等人生苦にあえぐ方々が厳しい生活の中からお接待をして下さる傾向が強いとも教えてくれました。聞いていてなんともいえない複雑な気持ちになりました。恵まれすぎている方々は弱者に冷たいというのです。いま恵まれている人は前世の布施行のおかげなのにまったくあわれな人たちです。
(その後、帰京してしばらくしたころ俗世のお付き合いの方から「知人がうつ病になって会社を休んでいる、相談に乗ってほしい」と頼まれ増上寺境内で相談に乗ったこともありました。此の人も某大企業でエリートコースを驀進していた人でしたが、栄転先の部下たちが反抗してうつ病になったのでした。川崎大師の近くといいますので、だまされたと思って川崎大師に21回お参りにいってみなさい、かならず回復します」というとその通り実行して18回目に治り復職しました。)
26年夏にも自宅近くの国立駅前で黙々とゴミ拾いをしている婦人に「ご苦労様です、いつもありがとうございます」と声をかけましたがこの方は、ゼスチャーで、耳が聞こえないという仕草をしました。ハッとしました。 時々通りかかる文京区の大塚公園でも、野宿している老婦人がいつも公園の落ち葉を掃いています。 こういう方たちは俗世の価値観からすると必ずしも恵まれているとは言えない立場です。俗世の価値観で「弱者」と「強者」を分けるとすれば、「弱者」という立場かもしれません。しかしこういう方たちが黙々と「布施行」に励んでいます。のうのうと恵まれた生活をして布施のなんたるかを知らずにいる人たちは恥ずかしい限りです。
「貧者の一灯」の説話の基になった「阿闍世王授決經」では、貧母が乞食で得た僅かな金で油を買い燈を燃やして仏を供養したところその燈か消えることなく輝き続けた、貧母は仏様から将来「須彌燈光如來」となると授記(将来仏となると予言)された、と書かれています。授記の理由は貧母の「一図さ」です。阿闍世王が同じことをしても授記されなかったのは「王の作すところ多しといえども心不專一なり。此母の佛への注心の如くならざる也」とされます。即ち一心に供養申し上げるかどうかがお蔭の出る分かれ道ということです。
また、今恵まれている方々はこういう弱者、不条理な目にあっている方々が自分の受けるべき苦を代わって受けてくれているから、のほほんとしておれるのです。東北の被災者の方々をはじめ災害等で犠牲になっている方々は其の他の人々に代わって被災されたのです。あらゆるお経に出てくるこの「代受苦の思想」を知らずして「自分だけは不幸な目に会わなくてよかった」と思ってのうのうと日々を過ごしているとするとそういう人はこの後が大変です。なぜなら華厳経でいうように、時間も空間も、すべては相互に入り込んでいてあらゆる存在は一体であるからです。他者と切り離された自己などというものは存在しないのです。
最近やっとこの考え、即ち「華厳経第13巻初発心菩薩功徳品」の「一の世界はこれ無量無辺の世界なりと知り、無量無辺の世界はこれ一の世界にはいることを知り、・・一劫は数ふべからざる阿僧祇劫にして、数ふべからざる阿僧祇劫は即ち一劫なりと知る・・」という考え即ち「すべては一である」という考えが頭でなく体で感じられる気がしてきました。
四国遍路で出会ったこの高僧のような風格のお遍路さんはこれからお礼参りして実家に帰るということでした。 この方に心ばかりのお接待をして、「もしよかったら体験記を送ってください、ひとに見せてやりたいので」といって別れましたが、その後連絡はありませんでした。
43番明石寺から44番大宝寺までは80k徒歩で約 16時間の距離です。途中歩きとバスを組み合わせても44番太宝寺には夕方ふらふらで着くこともあります。44番大宝寺の境内は樹齢数百年の杉や桧が林立しており幽邃です。寺は大宝元年(七〇一)に、百済の僧がこの地に草庵を結び十一面観世音を安置したのがはじまりで、後に開創当時の年号、大宝年間にちなみ大宝寺として創建、のちにお大師様が四国88番霊場に定められたということです。保元年間に後白河法皇が、元禄年間に住持の雲秀法師がそれぞれ再興し、現存の本堂は大正十四年の再建とされます。
一回目の時、ふらふらで歩いていると上り口にある売店のおじいさんがジュースを接待してくださった上に、遍路宿まで軽四輪に乗せてくださるというのです。助手席で私が「ここの久万町の名はお大師様を大切に接待した「おくまさん」からきているらしいですよ」と話すと、( 地元には「むかし、お大師様がここの山里の一軒家で「おくま」という老婆に接待してもらい、大師がお礼に此の山里を人でにぎわう里にしてあげた」という言い伝えが残っているようなのです。)おじいさんは運転中なのにハンドルから手を離して合掌してしまいました。
このあと送り届けてもらった遍路宿の主人にこのおじいさんの店の電話番号を調てもらい電話で改めてお礼をいいました。
ただ2年後の19年に再開を楽しみに訪れたときはもうこのおじいさんの店はありませんでした。相当のお年の夫婦だったので店をたたんだのでしょうか。時の流れの残酷さを感じました。何年かのちに行くと納経所でも同じ人は少ない気がします。みなさん代替わりしています。
「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず。」と劉希夷の「白頭を悲しむ翁に代わる詩」を思い出します。
(「代 悲 白 頭 翁 (白頭を悲しむ翁に代わる)劉 廷 芝
洛陽城東 桃李の花 飛び来り飛び去つて誰が家にか落つ 洛陽の女児は 顔色を惜しみ 行くゆく落花に逢ひて長歎息 今年花落ちて顔色改まり 明年花開いて復た誰か在る 已に見る松柏の摧かれて薪と為るを 更に聞く桑田の変じて海と成るを 古人 復た洛城の東に無く 今人還た対す 落花の風 年年歳歳 花相似たり 歳歳年年 人同じからず 言を寄す 全盛の紅顔子 応に憐れむべし 半死の白頭翁 此の翁白頭 真に憐れむべし 伊(こ)れ昔 紅顔の美少年 公子王孫 芳樹の下(もと) 清歌妙舞す 落花の前 光禄の池台に 錦繍を開き 将軍の楼閣に 神仙を画く 一朝病に臥して相識る無し 三春の行楽 誰が辺にか在る 宛転たる蛾眉 能く幾時ぞ 須臾にして 鶴髪乱れて糸の如し 但看る 古来歌舞の地 惟黄昏(こうこん)鳥雀の悲しむ有るのみ」。
「日本巡礼記集成(弘法大師空海刊行会、昭和60年) 」によると「昭和50年頃、北海道の中谷という人(当時60歳)がお蔭を受け、ここで目がみえるようになった」とありました。