福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

浅野和三郎(東大英文学科卒。海軍機関学校教官)「幽魂問答」より・・2

2024-03-13 | 法話

ここでは、幽魂が
・人に憑りついているときはこのよのことがわかる。
・生前に執着していたことも知ることができる。
・慰霊祭等により故人の魂も位が上がり結果として子孫も繫栄する。
・墓地には慰霊祭等の決まった日に訪れる。不定期の慰霊祭は故人が迷う。といっています


宮崎。然しからば其許そこもとは(魂となって)数百年間此地に住める筈なり。これより当時の事を問わむ(昔のことを問う)。

幽魂。イヤ幽界に入りたる者は顕世(この世)の事には関係せぬものなり。顕世の事は見聞するも穢けがらわしきのみならず、幽魂は顕事に与あずからぬが掟なり。ただ生きてありし時に心を遺し、思いを籠めたる事は、霊魂となりて後も能く知り得、之を知るが故に苦痛は絶えざる也(生きているときの心残りなことはきがかりで之を思うと苦痛である)。凡およそすべての幽魂は顕世の成行きは知らぬが常なり。されば予も顕世の委曲は之を知らず。ただ人体に憑きて其耳目を借り得る間は、顕事のすべてを知り得らるるものぞ(人に憑依しているときにのみ現世のことがわかる)。さて斯かく人の肉体を借るに当りて、其その人を悩ますは如何なる義かというに、そは之を悩まさざれば、人の魂太く盛んなるを以て、我魂の宿るべき所なければなり。気の毒なれど予は市治郎を悩まして其その魂を傍に押遣り、その空所に己れの魂を充たしぬ。されば市治郎の肉体は今見らるる如く大病人の肉体なれど、内実は我魂の宿なり。されば前にも述べたる通り幽界に入りては人事を知らぬが道なれど、ただ人体に憑きたる間の事は能く知り居おれば、何事にても問われよ。又生前に心を籠めし事も知り居いるなり。
宮崎。さらば顕世より弔祭などすとも幽界の魂には通ぜぬ道理ならずや(この世で慰霊祭などしてもはあの世の魂には通じないか?)。
幽魂。なかなか然しからず。よく思われよ。神を祀り、魂を祭る事は、縦令たとえ顕世の業なりとも、そは皆幽界に関せずや。かるが故に祭祀は神にも通じ又幽魂にも通ず(慰霊祭おまつりなどは故人の魂にも神にも通じる)。金銭の取り遣り、又婚姻等一切の人事は穢はしければ幽魂は之が見聞を避くるなり。幽魂となりては衣食共に其その要なきが故に欲しき物もなく、唯だ苦を厭い楽みを思うのみなり。さて祭事を行うに当り、人々俗事を忘れつつ親しく楽める心は幽界に通じ、祭られし霊魂に感応して之これを歓ばしむ。歓べば自然に魂も大きくなり、徳も高くなり、祭り呉れたる人も幸福を享うくるものにて、人より誠を尽せば其その誠よく霊に通ずるものなり人々が仲良く楽しくしているのを見るとあの世の霊魂も徳が高くなり祭事をしてくれた人にお礼をすることになる。故人のために誠を尽くせばその霊に誠意は通じる)。
宮崎。人の幽魂は皆各自の墓所に鎮り居いるものにや?

幽魂。常に墓地に鎮り居るは、我等の如く無念を抱きて相果てし輩か、又最初より其墓に永く鎮まらんと思い定めたる類にして、其数至って少し(いつも墓にいる霊魂は無念の気持ちを持っている霊か、そこにいたいと思っている霊のみであとは集まる場所がある)。多数の幽魂の到り集る所は、幽事なれば言うことを得ず。

宮崎。墓地に居おらざる総ての幽魂は何地に於おいて祭祀を受くるや。彼等は祭場にも来るか。

幽魂。顕世にて五百年の間も引続きて行い来れる祭事は幽界にても大体その如く定まれるもの也。されば不図ふと祭りの月日を改め、霊魂に告げずして執行すれば、之が為めに却って凶事を招くことあり(祭りは定期の日におこなわないと霊魂がとまどう)。そは霊魂が従来規定の祭日を思い出でて享うけに来るに、その事なきが故なり。又顕世にて同時に数ヶ所にて祭祀を行うことあらむには、霊魂は数個に分れて、各々其所そこに到りて祭を享うくべし。縦令たとえ百ヶ所にて祭るとも、霊魂は百個に分れて百ヶ所に到るべし。尤もっとも我等の如き者の魂は一つに凝りてさる自由は得難し。

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