復た次に覺の體・相とには四種の大義あり。虚空と等しくしてなお淨鏡の如し。云何が四となすや(復次に「覚り」の本体と有様には四種のありさまがあり、それはあたかも虚空や鏡のようである。)
・一は如實空鏡なり。一切の心と境界との相を遠離して法として現わるべきもの無きをいう、覺照の義なるに非ざるが故なり(第一は覚りはまさに空っぽな鏡の如くである。それは一切の主観客観を遠く離れていて何物もあらわすものがない。鏡自体からはなにもあらわさないように覚り自体は何らあらわすものを持たないのである。)
・二は因熏習鏡にして如實不空を謂う。一切世間の境界は悉く中において現れて出でず入らず失せず壊れずして常住なる一心なり。一切法は即ち眞實性なるをもっての故なり。又た一切の染法のよく染するところ能わざる所なり。智體は不動にして無漏を具足し衆生に熏ずるが故なり(第二は衆生の内側から原因として働きかける鏡である、というのは衆生の心は本来仏と同じように徳が満ちていて空しくないからである。心は世間の色々な有様を映し出すがそれは鏡がいろいろなものを映し出すようなものであり、なにも実体として残るものではない、あくまでも常住なる一心があるだけである。なんとなれば一切の法は真実であるからである。また一切の穢れも真実の心を汚すことはできない。覚りは智慧を本性としており不動であり煩悩に汚されないものでありこれが衆生に働きかけて覚りへ導くのである。)
・三は法出離鏡。謂く不空の法なり。煩惱礙と智礙とを出で、和合相を離れて淳・淨・明なるが故なり(第三には法が汚れから出てきた鏡のようである。ここで法とは空しからざるものであり、煩悩・智の妨げを払って出てきて覚りと迷いの一体となった阿頼耶識を離れて淳・淨・明となることである。)
・四は縁熏習鏡。謂う法出離によるが故に、衆生の心を遍照して、善根を修せしめ、念に隨って示現するが故なり(第四にこれは外から縁となり衆生に働きかける鏡である。これは第三の「法出離」によって衆生の心を遍く照らして善根を修めさせて、衆生の心に応じて示現する。)
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