第十一番同國横見(現在も第11番は岩殿山安楽寺(吉見観音))
武州横見郡吉見郷岩殿山安楽寺の濫觴は古老相傳へて曰、昔此の地に吉見兵庫介と云人在て、近郷開發の領主たり。故あって北國へ移住するになり、先祖より持佛堂に安置する聖観音の像を守りて共に北地へ移し奉んとするに、尊像頻りに重くなり、数百人の力にも堪がたし。兵庫介為方なく石槨に入れて、山の腰の岩窟に納置しと。今吉見と云郷廣し、皆兵庫介所領の地なり。是故に吉見の里人等、當寺の本尊を氏神と崇仰す。吉見氏信州に移住して又観音の像を安置せり。後に入宋の沙門樵谷和尚伽藍を建て同じく安樂寺と云と、僧傳に見ゆ(樵谷惟仙は鎌倉時代中期の臨済宗の僧。信濃国出身。樵谷惟僊とも表記される。別所温泉の天台宗常楽寺に学び、上洛して泉涌寺に学ぶ。入宋して虚堂智愚、別山祖智に禅宗を学び、蘭渓道隆が来日するのと同じ船で寛元4年(1246年)、日本へ帰国した(『大覚禅師語録』)。禅宗に帰依した北条義政の庇護により、信濃国で最初の禅寺として安楽寺を中興させた)。
𦾔記に曰、當地大悲の道場發起のことは、延暦年中、奥州の北邊に蝦夷の逆賊蜂起して多く國人を侵害すること、桓武帝の天聴に達し、甚だ宸襟を愴せ玉ふ。是の故に坂上田村丸を召れ、征夷大将軍に任ぜらる。時に坂将軍思説、我國の剛敵は奥州に如くものなし。若し我佛神の冥助を假ずんば争か強猛の夷族を征せんと。洛東清水寺へ詣で玉ひ、逆徒退治の擁護を祈り、斯て兵員を天日に輝し、軍旗を官風に靡して、東海の驛路を進發ある。驛中、観世音の在す所にては、必ず馬を駐て拝念し玉ふ。其晩夏の中旬に至り、比企より吉見へ出る夜の夢に、一の老比丘来たり告て曰、汝夷族退治の大義に關り我を念ずることの切なれば、下我軍営を衛り大功を立しめん。必ず思慮を勞すること勿れと。将軍夢覺て喜悦の眉を披き、勝敵利運の瑞夢を得たりと。其夜の曙るも待迂く、勇める駒に策て吉見の方へ發向せり。此夜吉見の里人の夢に香の衣の老比丘来たり、我當地の岩窟に在て久しく汝等を守護すれども、深く荊棘に蓁(ふさが)り鳥獣の栖處となれば、汝等我形像を見る者なし。今や開縁の時至れり。此事東征将軍に披露せよと。是の故に郷里の老若心を戮せ艸を刈り、路をつくりて、将軍へ伺候して曰しけるは、此の地に観世音の靈像在すこと、由来久しく聞傳れども、荊棘途を蓁(ふさ)ぎ、老樹鬱茂して毒蛇野干のすみかとなり、古希の爺嬢も尊容を拝し奉らず。伏請将軍賢計を回し、遄(はや)く大悲の結縁を為しめよと。時に将軍靈夢の符契を感じ、彼の吉見が城跡の山に推入り玉ふ。然に武威鐘鼓の聲に怖れ退き只飛走の狼藉たる跡のみなり。其の荊棘の中に異香薫ずる所あり。諸人怪み、其の所を干るに岩洞の口に石扉を鎖たるあり。軍勢是を推排んとするに、金輪より衝出たるが如し。時に坂将軍その岩戸に立ち向ひ、至心に大悲者を念じ奉れば倐ち山林震動して岩戸自ら開け、中に聖観世音光明を放って立せ玉ふ。其の尊容の光彩庸工の及所にあらず。昔行基大士遊化して吉見氏に造與し像なり。貴賤感涙を流し、序を乱して競拝す。斯て将軍奥州へ出陣あり、夷賊と弓刀を交へ戦ふに、両陳(りょうじん)の間に異形の者数十人出て艸を結び箭を拾て官軍に加勢す。坂将軍獨り是を見玉ふ。其の中に一の老比丘在せば、観音四七の眷属と俱に我軍中を救護し玉ふと、将軍心中に恭敬渇仰せり。果して敵賊を討亡し万歳を謡ふ。田村公帰洛の後、宣命を奉て香堂をを建てて、千載の霊場と成玉ふ。是の故に田村将軍の開基と稱す。
𦾔記に曰、比企郡松山の城主上田能登守合戦の時、伽藍兵火の為に烏有の地となる。其の時貧本尊火中を出て往古の岩窟に飛入り池魚の殃を避玉ふ。今其岩窟を奥院と稱して本地の阿弥陀佛を安置す。本堂の正後に有り。里俗は天の岩戸と云。其の後、下総因幡郡に杲慶と云僧あり。當寺本尊の霊夢に依て、此の地へ尋来り伽藍を再営して靈場𦾔觀に復す。今の諸
堂舎是也(見住蓮恒記録)。
巡禮詠歌「よし見よと、法の磐戸を推ひらき、照す恵の際り無きかな。」神代の巻に日神天石窟に入り六合常闇と成し時、手力雄尊(信州戸隠)太神を出し奉り世間明に成ぬ。今當寺の本尊も前に吉見氏岩洞へ安置し後に田村将軍是を出し奉り、大光普照の恵日今已に一千年なり。よしよみとは俗に是見よと云程のことなり。地名を詠つつ゛けてにをはを云かなへること歌の常なり。
近代霊場集に云、元禄年中のことなるに、横見郡細谷村原口氏の某、當寺の観世音に帰依して、月次(つきなみ)六斎の参詣を怠らず。然るに此者壮年の頃より、世の産業不如意にして朝暮貧乏に心身を苦む。一時、自ら感慨して謂へらく、我過去世に慳貪邪見にして、他に恵み施すの善因なき故に、斯る貧乏の悪果を得たるべし。今又供佛施僧の徳本しを不植ば、當來定て悪趣に堕すべし。仰願くは、大悲の冥助を蒙り、世財に富て三寶を供養せんと。三箇年日参の願を立、何なる風雨雪霜をも厭ず、毎夜人定の時に至り、歩を運びて精誠に祈念せり。てん滴不止ば漸く大器に盈る。既に千日満ずるの夜、寶前に籠り、竟夜大悲の寶号を唱へ居たり。其の暁の比、居眠る間の夢に、須彌壇の後より、香の衣の老僧出て、汝が所願勇猛浄心なれば此無價の摩尼珠を與ふと。右の掌へ黒色の寶玉一顆を賜ふ。原口驚覚して掌を開見れば大棗の如くなる黒色の玉あり。本尊我愚願を哀れみ玉ふて福聚の寶珠を賜ふならんと、手の舞、足の踏むことを知らず。此の事密に住僧に語り、住僧の教化に随て、観音の像を造り、感得の寶玉を其の胎中に納め、朝暮此の尊を禮念して、増々信心堅固に祈りける。尒しより損減の事は幸に免れ、利潤の事は不計に来り、漸く五七年の間にして陶朱猗頓(「陶朱」は中国春秋時代の越王「勾践」に仕えた「范蠡はんれい」の別名。売買事業で巨万の富を手に入れた。「猗頓」は陶朱から牧畜と蓄財の方法を学び、大富豪となった。)にも譲るまじき近國に聞ふる富豪となりぬ、子孫も孝順の者出来して、家倍々繁榮なりと、已上。愚按ずるに黒色の玉は蓋し佛舎利なる乎。法苑珠林曰、砕身舎利に三種あり。一には骨舎利、白色也、二には髪舎利。黒色也。三には肉舎利。赤色也。(法苑珠林卷第四十・引證部第二「舍利有其三種。一是骨舍利。其色白也。二是髮舍利。其色黒也。三是肉舍利。其色赤也。菩薩羅漢等亦有三種。若是佛舍利椎打不碎。若是弟子舍利椎撃便破矣」。)
悲華經、智度論等に、佛舎利は如意宝珠也と。
延亭四年卯(1748年)の三月、石階(いしがき)布石(しきいし)建立供養として、横見郡の浄侶を請じ第一天下泰平の御祈祷、兼ねては檀越先亡の追福の為、光明真言土砂加持を修行せり。其法要の中日に當る夜半比、宮殿の内より大風吹出す音あり。集會の僧侶是を奇みたるに、翌る廿日の朝に至て(開白は十七日)、境内より四方十四五町の間、白砂霜の如くに降布り。其の形色恰も氷雹に似たり。見る人、土砂加持の奇特を感じ、聞く者大悲の應験を貴にけり。屋上或は艸木の枝葉に止るを、各々争ひて拾て珍重す。其の中に舎利に變ずるものあり。是を収て駄都の秘法(舎利寶珠供養法儀軌)を修し、試に火に焼又は鉄槌に手打に色彩損せず。倍々清光を出す。此の事横見一郡の知る所なりと。愚衲戌の秋巡禮して彼の寺に宿し、件の靈砂幷舎利に變ずるを拝す。常州水戸守山の宿に神社あり。社頭に池あり。常に清水を涌す。仍って其の流れを泉川と云。若し砂を望むもの社頭に至り、寶殿に向て法楽を資け、池に臨んで光明真言を唱れば、池の底より白き砂涌出て、池の水より高く吹上る。此の砂を採来て加持せしと(見住蓮恒物語)。予嘗って東都寶林山に登り、彼の守山の霊砂の奇談を聞り。亥八月巡禮して佐竹寺に至りて、又其の事實を聞き侍れども、旅行を急て尋行かず。于今臍を噬(かむ)て志の薄きことを憾む。