靖国神社春の例大祭は4月21日から23日までの3日間で、期間中、清祓・当日祭・第二日祭・直会の諸儀が斎行されます。
当日祭に先立って斎行される「清祓」では、神職はもとより祭儀に用いる諸具に至る一切が祓い清められます。当日祭では、生前、お召し上がりになっていた御饌神酒や海の幸、山の幸などの神饌50台をお供えして神霊をお慰めし、平和な世の実現を祈ります。また、この日には、天皇陛下のお遣いである勅使が参向になり、天皇陛下よりの供え物(御幣物)が献じられ、御祭文が奏上されます。
春季例大祭の期間中、境内では、各種奉納芸能、特別献華展やさくらそう展などの奉祝行事も繰り広げられます。
靖国神社には不思議な話がたくさんありますが数例を載せておきます。
・最初は昨年10月21日高野山東京別院で宗務総長様から拝聴した話です。「・・靖国神社で昭和52年に職員が通路の隅でクシャクシャになった戦闘帽を発見して展示ケースに入れたところ翌日早速老婆が現れ、「夢に息子が出てきて靖国神社に来てくれというのできたら展示ケースで息子の名前がはいった帽子をみつけた」といった、という話もありました。これなど戦後三十年もたってもまだ戦死者の霊は遺族を見ているということです。」
・2009-11-14の福聚講ブログには、Sさんから頂いた「同僚が戦没者を供養した話」を載せています。
「確か戦後50年に合わせた企画でしたが、ミクロネシア・トラック島に沈んだ旧日本軍の船の残骸に潜るという取材でのこと。この船は旧日本軍に徴用され、かの地で沈んだ商船でした。カメラマンが、照明などを担当する助手と潜ったところ、水中で「おーい!」と呼ぶ声がする。陸に上がって「おい、今、お前、水中で俺のことを呼んだか?」「いいえ、呼びませんよ」。次にまた潜ったら、また「おーい!」。水中なのでカメラマンが自分の耳を指さして「聞こえた」と示すと、助手も耳を指して「ぼくもぼくも」とのジェスチャー。陸に上がって「一体アレは何だ?」と話していると、現地人のガイドさんは「実は、日本人にだけ聞こえるらしい」と打ち明けた。二人はすっかり気味が悪くなったが、仕事で来ているだけにやめる訳にもいかない。次の日もおっかなびっくり潜ったら、今度は「助けてくれー」などと、かなりはっきりと聞こえる。さらに問題の船に近づくと、食堂のような大広間から、なにやら大合唱まで。部屋に入っていくと、はっきり歌詞まではわからないものの、あきらかに軍歌のようなものが耳をつんざくばかりの大音響で響く。もちろん撮影は続行したが、ビデオには音声は一切記録されていなかった。
この話には「オチ」まであります。出張から戻ったカメラマン、本社で機材を返してタクシーで自宅に帰った(出張からの帰宅は、荷物が多いためタクシーで帰宅できる)。当時の会社は新宿区、カメラマンの自宅は板橋区。疲れ切っていたカメラマン、タクシーに乗って行き先を告げるなりぐっすり眠ってしまった。しばらくすると、どうにも見覚えがないところを走っている。「運転手さん、これ、違うんじゃない?」と聞くと「すみません。道を間違えました」。窓の外を見たら、停まっていたのは靖国神社の前だった。くだんの二人、「これは、連れて来ちゃったなぁ」と、後日靖国神社で「お祓い」というか、慰霊の祈祷をしたそうです。
この話は信頼できる(真面目な性格の)同僚二人が言うのだから、まさか作り話とも思えない。たしかに「コワイ話」には違いないが、それよりも私には「かわいそうだなぁ」という気持ちの方が強い。日本に家族を残し、異国の地で敵に撃沈されて、さぞ無念だったんでしょう。たまにやってきた同胞に声をかけているのに、ただ「コワイ、コワイ」ではあまりにかわいそう、同僚はいい供養をしたと思います。」
・インターネットには次のような投稿もありました。
「「昨日、靖国神社の境内で、血だらけの兵隊さんを見た」「課外学習の時間に靖国に行ったら、木の影に立ってた。かわいそうに、やけどしてたの」
とか。そういう話は、靖国神社近くの学校だったので、しょっちゅうでした。高校時代のある夕方、部活も終わっての帰り道。
わたしは駅へ急ごうと、友達と近道をしていました。靖国神社を通り抜けるコースです。まだ夕日は明るく残っていました。境内の銀杏の葉が金色に色づいて、散歩するにはちょうどいいような夕方でした。すると突然、背後から「すみません!」と男の人の声がしました。
振り返ると、そこには軍服を着た若い軍人さんがにっこり笑っているのです。
「すみません。友達と約束をしているんですが、いま何時でしょうか?」
「あ…あの…、○時です。」 慌てて答える私に、 「そう。ありがとう!」 兵隊さんはまた微笑むと、くるっと背を向けて、銀杏の木の下に消えていきました。しばらく口も利けなかった私達は、靖国を抜けてから、やっと口を開きました。「ね、今の兵隊さん、背中に弾の跡があった…。」 「うん。こめかみにも跡があった…。」 弾に当たると、服の周りが焦げるんだね、などと取りとめのない話をしながら、私達はなんだか悲しくてたまりませんでした。・・・わたしは靖国神社というと、あの兵隊さんを思い出します。
明るい笑顔やはきはきした口調を思い出す度に、ただ純粋に悲しくなります。今でも時々、思うのです。あの兵隊さんは、友との約束を守るために、いまでも銀杏の木の下で待ち続けているのだろうか。友達をずっと待ちながら、彼は何を思っているのだろうか、と…。」
・三島由紀夫が「英霊の声」という作品を書いていますがそのときにも三島に英霊がとりついていたと三島の母が回顧しています。
「「昨夜一気に書き上げた。出来上がってしまったのだ」と渡されたのだが、一読して全身の血が凍る思いがした。どういう気持から書いたのかと聞くと、ゾッとする答が返って来た。「手が自然に動き出してペンが勝手に紙の上をすべるのだ。止めようにも止まらない。真夜中に部屋の隅々から低いがぶつぶつ言う声が聞える。大勢の声らしい。耳をすますと、二・二六事件で死んだ兵隊達の言葉だということが分った」
怨霊という言葉は知ってはいたが、現実に、公威(三島の本名)に何かが憑いている様な気がして、寒気を覚えた。
— 平岡倭文重「暴流のごとく――三島由紀夫七回忌に」」
当日祭に先立って斎行される「清祓」では、神職はもとより祭儀に用いる諸具に至る一切が祓い清められます。当日祭では、生前、お召し上がりになっていた御饌神酒や海の幸、山の幸などの神饌50台をお供えして神霊をお慰めし、平和な世の実現を祈ります。また、この日には、天皇陛下のお遣いである勅使が参向になり、天皇陛下よりの供え物(御幣物)が献じられ、御祭文が奏上されます。
春季例大祭の期間中、境内では、各種奉納芸能、特別献華展やさくらそう展などの奉祝行事も繰り広げられます。
靖国神社には不思議な話がたくさんありますが数例を載せておきます。
・最初は昨年10月21日高野山東京別院で宗務総長様から拝聴した話です。「・・靖国神社で昭和52年に職員が通路の隅でクシャクシャになった戦闘帽を発見して展示ケースに入れたところ翌日早速老婆が現れ、「夢に息子が出てきて靖国神社に来てくれというのできたら展示ケースで息子の名前がはいった帽子をみつけた」といった、という話もありました。これなど戦後三十年もたってもまだ戦死者の霊は遺族を見ているということです。」
・2009-11-14の福聚講ブログには、Sさんから頂いた「同僚が戦没者を供養した話」を載せています。
「確か戦後50年に合わせた企画でしたが、ミクロネシア・トラック島に沈んだ旧日本軍の船の残骸に潜るという取材でのこと。この船は旧日本軍に徴用され、かの地で沈んだ商船でした。カメラマンが、照明などを担当する助手と潜ったところ、水中で「おーい!」と呼ぶ声がする。陸に上がって「おい、今、お前、水中で俺のことを呼んだか?」「いいえ、呼びませんよ」。次にまた潜ったら、また「おーい!」。水中なのでカメラマンが自分の耳を指さして「聞こえた」と示すと、助手も耳を指して「ぼくもぼくも」とのジェスチャー。陸に上がって「一体アレは何だ?」と話していると、現地人のガイドさんは「実は、日本人にだけ聞こえるらしい」と打ち明けた。二人はすっかり気味が悪くなったが、仕事で来ているだけにやめる訳にもいかない。次の日もおっかなびっくり潜ったら、今度は「助けてくれー」などと、かなりはっきりと聞こえる。さらに問題の船に近づくと、食堂のような大広間から、なにやら大合唱まで。部屋に入っていくと、はっきり歌詞まではわからないものの、あきらかに軍歌のようなものが耳をつんざくばかりの大音響で響く。もちろん撮影は続行したが、ビデオには音声は一切記録されていなかった。
この話には「オチ」まであります。出張から戻ったカメラマン、本社で機材を返してタクシーで自宅に帰った(出張からの帰宅は、荷物が多いためタクシーで帰宅できる)。当時の会社は新宿区、カメラマンの自宅は板橋区。疲れ切っていたカメラマン、タクシーに乗って行き先を告げるなりぐっすり眠ってしまった。しばらくすると、どうにも見覚えがないところを走っている。「運転手さん、これ、違うんじゃない?」と聞くと「すみません。道を間違えました」。窓の外を見たら、停まっていたのは靖国神社の前だった。くだんの二人、「これは、連れて来ちゃったなぁ」と、後日靖国神社で「お祓い」というか、慰霊の祈祷をしたそうです。
この話は信頼できる(真面目な性格の)同僚二人が言うのだから、まさか作り話とも思えない。たしかに「コワイ話」には違いないが、それよりも私には「かわいそうだなぁ」という気持ちの方が強い。日本に家族を残し、異国の地で敵に撃沈されて、さぞ無念だったんでしょう。たまにやってきた同胞に声をかけているのに、ただ「コワイ、コワイ」ではあまりにかわいそう、同僚はいい供養をしたと思います。」
・インターネットには次のような投稿もありました。
「「昨日、靖国神社の境内で、血だらけの兵隊さんを見た」「課外学習の時間に靖国に行ったら、木の影に立ってた。かわいそうに、やけどしてたの」
とか。そういう話は、靖国神社近くの学校だったので、しょっちゅうでした。高校時代のある夕方、部活も終わっての帰り道。
わたしは駅へ急ごうと、友達と近道をしていました。靖国神社を通り抜けるコースです。まだ夕日は明るく残っていました。境内の銀杏の葉が金色に色づいて、散歩するにはちょうどいいような夕方でした。すると突然、背後から「すみません!」と男の人の声がしました。
振り返ると、そこには軍服を着た若い軍人さんがにっこり笑っているのです。
「すみません。友達と約束をしているんですが、いま何時でしょうか?」
「あ…あの…、○時です。」 慌てて答える私に、 「そう。ありがとう!」 兵隊さんはまた微笑むと、くるっと背を向けて、銀杏の木の下に消えていきました。しばらく口も利けなかった私達は、靖国を抜けてから、やっと口を開きました。「ね、今の兵隊さん、背中に弾の跡があった…。」 「うん。こめかみにも跡があった…。」 弾に当たると、服の周りが焦げるんだね、などと取りとめのない話をしながら、私達はなんだか悲しくてたまりませんでした。・・・わたしは靖国神社というと、あの兵隊さんを思い出します。
明るい笑顔やはきはきした口調を思い出す度に、ただ純粋に悲しくなります。今でも時々、思うのです。あの兵隊さんは、友との約束を守るために、いまでも銀杏の木の下で待ち続けているのだろうか。友達をずっと待ちながら、彼は何を思っているのだろうか、と…。」
・三島由紀夫が「英霊の声」という作品を書いていますがそのときにも三島に英霊がとりついていたと三島の母が回顧しています。
「「昨夜一気に書き上げた。出来上がってしまったのだ」と渡されたのだが、一読して全身の血が凍る思いがした。どういう気持から書いたのかと聞くと、ゾッとする答が返って来た。「手が自然に動き出してペンが勝手に紙の上をすべるのだ。止めようにも止まらない。真夜中に部屋の隅々から低いがぶつぶつ言う声が聞える。大勢の声らしい。耳をすますと、二・二六事件で死んだ兵隊達の言葉だということが分った」
怨霊という言葉は知ってはいたが、現実に、公威(三島の本名)に何かが憑いている様な気がして、寒気を覚えた。
— 平岡倭文重「暴流のごとく――三島由紀夫七回忌に」」