秘密念仏私記 沙門 曇寂(密教大辞典には「曇寂・一六七四から一七四二。山城五智山の学僧。俗姓牧野氏。清和源氏六孫王経基の裔。延宝二年備後福山に生る。年甫めて十三、同州明王院宥翁に投じて薙髪受戒し元禄二年秋十六歳にして五智山禅杲に随ひて瑜伽教を学び早く顕密二教の大義を領す。同六年禅杲より具支灌頂を受け、同十一年夏本師宥翁に随って両部灌頂を重受す。時に本師並に明王院の衆徒等師跡を嗣がんことを懇請せしが師固辞して受けず。之を法弟宥辨に譲り寛永四年定光寂後五智院の席を董し、正徳四年秋宥辨早世しかば遂に明王院を兼務す。居ること三年之を観意に譲り五智山に帰錫して専ら著作に従事す。又東寺観智院に就いて一夏九旬悉曇字記を学び所聞を記して字記黯推記六巻を著す。その明王院にあるや灌頂壇を開く、阿闍梨位を受く者二十員、結縁灌頂に浴する者一万三千余人なりといふ。寛保二年十一月十一日寂す。壽六十九。臘五十七。五智山に葬る。師は宗學に於て一家言を有し、密教の教主につき、本地・加持和融説を唱道し、又地蔵院流の達匠として聲譽一世に高く、弟子に常明、寂厳あり。常明の學派は豊山に入りて法住僧正の本加和融説の大成となり、寂厳は梵学に秀でその學派は慈雲尊者に至りて梵学の大成となる。・・」著作は多いので省略。)
秘密念仏とは三密平等に住する也。一切衆生は本より以来法爾に三密平等に住す。然れども実の如く此の理を知らざるが故に昼夜に不平等の業を造作して三途に流転す。此れに依って諸仏同体の大悲を起こして三密平等の法門を説きたまふ。三密平等の法を名けて秘密念仏三昧と為す也。疏第九に入仏三昧を釈して云く「平等と言つは謂く如来現に此の三昧を証したまふ時、一切衆生の種々の身語意は悉く皆如来と等し、禅定智慧も実相の身と亦畢竟して等しと見たまふ。是の故に誠諦の言を出して衆生に告げたまはく、若し我が言ふ所、必定して虚しからざらんは、一切衆生に此の誠諦の言を発さん時、亦三密の加持を蒙って無盡荘厳、如来と等しからしめん。此の因縁を以ての故に能く金剛の事業を作すが故に三昧耶と名く」と。(大毘盧遮那成佛經疏卷第九入漫荼羅具縁品第二之餘「三昧耶是平等義是本誓義是除障義是驚覺義。言平等者。謂如來現證此三昧時。見一切衆生種種身語意。悉皆與如來等。禪定智慧與實相身亦畢竟等。是故出誠諦言以告衆生。若我所言必定不虚者。令一切衆生發此誠諦言時。亦蒙三密加持。無盡莊嚴與如來等。以是因縁故。能作金剛事業。故名三昧耶也。」)。
問、何ぞ一切衆生は三密平等に住すと云や。
答、理趣釈の外金剛部の章に云く「復、一切有情加持の般若理趣を説きたまふ。所謂一切有情は如来蔵なり。普賢菩薩一切我なるを以ての故にとは、一切有情は大円鏡智の性を離れず、是の故に如来、一切有情は如来蔵なりと説きたまふ。普賢菩薩と同一体也。一切有情は金剛藏なり、金剛藏灌頂を以ての故にとは、一切有情は平等性智の性を離れず。是の故に如來、一切有情は金剛藏なりと説きたまふ。金剛藏とは即ち虚空藏也。金剛寶を以て灌頂を獲得する也。一切有情は妙法藏なり、能く一切語言を転ずるが故にとは、一切有情は妙觀察智の性を離れず是の故に如來、一切有情は妙法藏なりと説きたまふ。妙法藏とは觀自在菩薩也。大集會に於て能く法輪を轉ずる也。一切有情は羯磨藏なりとは、羯磨藏とは即ち毘首羯磨菩薩也。能作・所作、性相應するが故にとは、一切有情は成所作智の性を離れず、能作の八相成道所作の三業化、諸有情を調伏相應せしむる也。此の四種の智は即ち四大菩薩にして現に法輪を転ずる王是也」(大樂金剛不空眞實三昧經般若波羅蜜多理趣釋卷下)。解して云く、普賢菩薩とは一切衆生の如来蔵なり。涅槃経に一切衆生は悉く仏性ありと(大般涅槃経「光明遍照高貴徳王菩薩品」)。即ち是平等の意密なり。一切衆生は首に髪髻を具す、是を虚空蔵灌頂宝冠と為す。頭は是れ一身の主なるが故に即ち身密なり。一切衆生は能く語言を転ず、是を観音の妙法蔵と為す。是れ法爾の語密なり。羯磨は三に通ずるが故に前の三業を総じて羯磨と名く。即ち是れ衆生行住坐臥の一切の事業なり。事業多しと雖も三業を出でず。故に総じて羯磨蔵と云ふ也。まさに知るべし一切衆生の三業の所作は即ち四大転輪王の事業にして毫釐も差ふことなし。是を法爾に三密平等に住すと云ふ也。故に疏の第一に、三平等の句を釈して云く、一切衆生は皆その中に入り而も實には能入の者も無く、所入の處もなし、故に平等と名く(文)と。(大毘盧遮那成佛經疏卷第一入眞言門住心品第一「今就此宗。謂修如是道迹。次第進修。得住三平等處。故名爲句。即以平等身口意祕密加持。爲所入門。謂以身平等之密印。語平等之眞言。心平等之妙觀。爲方便故。逮見加持受用身。如是加持受用身。即是毘盧遮那遍一切身。遍一切身者。即是行者平等智身。是故住此乘者。以不行而行。以不到而到。而名爲平等句。一切衆生皆入其中。而實無能入者無所入處。故名平等」)。
問、若し衆生即ち是四大転輪王ならば何が故にか生死に流転して無量の苦を受るや。
答、疏に此の義を明かして云く、即心是れ道ならば何が故にか衆生生死に流転して成仏を得ざるや。答えて曰く、実の如く知らざるを以ての故に、と(大毘盧遮那成佛經疏卷第一入眞言門住心品第一「問曰。若即心是道者。何故衆生輪迴生死。不得成佛。
答曰以不如實知故。所謂愚童凡夫。若聞是法少有能信。識性二乘。雖自觀察未如實知。若如實自知。即是初發心時便成正覺。譬如長者家窮子。若自識父時。豈復是客作賤」)
又云く、一切の法において実の如く知らざるは即ち是無明也。是の所以に本不生を覚れば即ち遍法界の明を生ず、と(大毘盧遮那成佛經疏卷第六入漫荼羅具縁品第二之餘「於一切法相不如實知。即是無明。是故覺本不生時。即生遍法界明」)。まさに知るべし、実の如く知らざるは是無明也。無明に覆はるるが故に生死に流転す也。一切諸佛は遍法界の明を生ずるが故に即ち同体大悲を起こして三密平等の法門を説き、一切衆生に三平等に住して生死を離れしむる也。
問、何れの處にか三平等の法を念仏三昧と名くる耶。
答、第十、二十九に云く、此の三事等しきを以て明らかに本尊を見るが故に自處に於てまさに作す也。又即ち自ら其の身を観ずるに亦本尊に同ず。三事等しきを以ての故に、世間成就と名く。爾の時に本尊及び諸の菩薩等、想に随って而して念に随って至り、問に随って而して答たまふ。然して後に出世の真言を修学するの行に入る。此の如くならざる者は徒に其の功を捐なしうして益あることなき也、乃至、又月輪の円明清浄なるを想ひて字輪を観じて此の輪の明浄の心の中に在け前の如く成就す、此れ即ち浄菩提心の義也。三業平等清浄なるに由りて能く諸仏の相を見る浄菩提心と念仏三昧と相応して明了無碍なり。唯独自明了にして余人は見ざる所也、と。(大毘盧遮那成佛經疏世間成就品第五「以此三事等故。身口意皆住一見。衆縁具故則有成就之樂也。此三事等明見本尊。故當於自處作也。又即自觀其身亦同本尊。以三事等故名世間成就。爾時本尊及諸菩薩等。隨想而現隨念而至隨問而答。然後入修學出世眞言之行。不如此者。徒捐其功無有益也。第三句當知。即諸佛勝句。行者觀住彼。極圓淨月輪。於中諦誠想。諸字如次第者。次當觀佛即觀本尊。隨彼所欲爲事。各有像類法門。如色即有白黄赤等。坐起身印之形。隨所欲作事而極觀之。如欲寂心息災。即觀息災之像。既得成就明了無礙。又想月輪圓明清淨。觀字輪在此輪明淨心中。如前成就。此即淨菩提心義也。由三業平等清淨。能見諸佛相。淨菩提心與念佛三昧相應。明了無礙。唯獨自明了餘人所不見也」)
是れ世間の有相念仏三昧を明かす也。
第十一、十五に云く、是の如く観ずる時、極浄無垢の観と作る。一切の心と本尊と常爾なるを以ての故なり。是の如く観じ浄むる之時外縁せず安住不動にして一切法相を分別せざるを以て而も妄想を生ぜず。爾時に観佛三昧と相応すること譬ば浄眼の人の明鏡に面対するが如し。此の中の鏡とは即ち是本尊の心の上に円明の清浄無垢なる観ずるなり。(大毘盧遮那成佛經疏卷第十一悉地出現品第六「或自身爲本尊。而置心字於心上。故云以心置心等也。如是觀時。作極淨無垢之觀。以一切心本尊常爾故。如是觀淨之時。以不外縁安住不動。不分別一切法相。而不生妄想。爾時與觀佛三昧等相應。譬如淨眼之人面對明鏡。此中鏡者。即是觀本尊心上圓明清淨無垢。」)是れ影像成就位念仏三昧を明かす也。
又三十二に云く、中に於いて字を置け、此の阿字を見已りて即ち此の字を転じて毘盧遮那本尊の形と作せ。即ち是自身現に本尊の像に同なり。其の像はもはら本印に依りて作す也。此の佛の通身に光有り、此れ即ち菩薩心中に見る所の実相の仏なり。猶し浄瑠璃の中に内に真金の像を見るが如し。餘の心数の中の妄想に同ずるに非ざる也。まさに知るべし此の如く見る者は即ち心実相の仏を見るなり。是初地無相念佛三昧也。(大毘盧遮那成佛經疏卷第十一悉地出現品第六「又此字經云。并點廣者。即是字上加點義。増加即是廣也。於字外作四角金剛標欄。此欄同三股金剛。股更互相叉而作之。於中置字。見此阿字已。即轉此字作毘盧遮那本尊之形。即是自身現同本尊之像。其像一依本印而作也。此佛通身有光。此即菩提心中所見實相之佛。猶淨琉璃中内見眞金像。非同餘心數中妄想也。當知如是見者。即是見心實相之佛」)。智度論第二十九,二十一に云く、復次に菩薩常に善く念仏三昧を修する因縁の故に生ずる所常に諸仏に値ふこと般舟三昧の中に説くが如し。菩薩是の三昧に入れば即ち見るに阿彌陀佛國に生じ便ち其の佛に問ふ、何の業因縁を以てか彼の國に生じることを得るや。佛即答て言く「善男子。常に念佛三昧を修して憶念して廢せざるを以ての故に我國に生ずることを得」。問曰、何者か是の念佛三昧得生を以て彼の國に生ずことを得るや。答曰。念佛とは、佛の三十二相八十隨形好を念ず。
金色の身、光明を出して十方に遍滿すること融せる閻浮檀金の其色明淨なるが如く、須彌山王の大海中に在りて日光照す時、其色發明するが如し。行者是時都て餘色の想なし。所謂山地樹木等なり。但し虚空中の諸佛身相を見ること眞琉璃中の赤金外に現ずるが如く、亦た比丘の不淨觀に入りて但だ身體膖脹爛壞を観、乃至但だ骨人を見るが如し。作者あることなく、亦た來去無し。憶想を以ての故に見る。菩薩摩訶薩、念佛三昧に入りて悉く諸佛を見るも亦復た如是なり。攝心を以ての故に心清淨なるが故に。譬ば人の其の身を莊嚴して淨
水鏡に照らすに悉く見ざること無きが如し云々(大智度論初品中迴向釋論第四十五)。是の如く浅深不同なれども皆三密平等の行に依りて而も自心所具の佛を見るを念仏三昧と云ふ也。故に疏に、三平等の句の法門を釈する中に云く、「身平等の密印、語平等の真言、心平等の妙観を以て方便と為すが故に加持受用身を逮見す。即ち是れ毘盧遮那の遍一切身なり。遍一切身とは即ち是れ行者の平等智身なり。是の故に此の乗に住する者は不行を以て而も行し、不到を以て而も到る。而るを名けて平等句と為すことは一切衆生は皆其の中に入り而も實には能入の者も無く、所入の處も無し。故に平等と名く。平等の法門は則ち此の経の大意也」(大毘盧遮那成佛經疏卷第一入眞言門住心品第一「次第進修。得住三平等處。故名爲句。即以平等身口意祕密加持。爲所入門。謂以身平等之密印。語平等之眞言。心平等之妙觀。爲方便故。逮見加持受用身。如是加持受用身。即是毘盧遮那遍一切身。遍一切身者。即是行者平等智身。是故住此乘者。以不行而行。以不到而到。而名爲平等句。一切衆生皆入其中。而實無能入者無所入處。故名平等。平等法門。則此經之大意也」)。逮見加持受用身とは三密平等の行成就するに依るが故に、本尊の三昧衆相現前するを見る也。若し西方を願ふ者に約せば此の時に阿弥陀仏を見る、即ち是れ往生也。観経に云く、爾時に世尊は韋提希に告げたまはく、汝今阿弥陀仏此を去ることを知るや否や。此を去ること遠からず、汝當に繫念して、汝當に繫念して浄諦に彼の国の浄業成する者を見るべし、云々。(佛説觀無量壽佛經「爾時世尊告韋提希。汝今知不。阿彌陀佛去此不遠。汝當繋念諦觀彼國淨業成者」)。
問、経には十萬億土を過ぐと云ふ、何が故ぞ亦此を去ること遠からずと云ふや。
答、余を以て之を観ずるに是れ秘語也。何となれば華厳の音に云く、吠瑠璃耶、此に不遠と云ふ、然るに不空訳に女離耶と云ふ。女離耶(梵字)は即ち如如無垢心の実相なり。又ありや(梵字)と同じ。即ち衆生雑染の心也。此の「はらみた」(梵字)の言に彼岸此岸の両義を含む。「はらま」(梵字)は彼岸なり、「いた」(梵字)は此岸也。仁王陀羅尼経に見ゆ。此の岸は即ち生死也。一切衆生の阿頼耶蔵、生死の此岸は即ち是阿弥陀仏杏里。故に此を去ること遠からずと。又阿弥陀の梵の中に「はらみた」(梵字)の義を含む。「は」は「あ」と同じ故に「はらみた」(梵字)は即ち「あみだ」(梵字)也。金剛寶戒章に云く、凡そ極楽とは色の異名なり。尚色として見るべき無し。彌陀とは心の異名也。何ぞ心として尋ぬべき有らんや。然るに極楽と彌陀とは実に外境に非ず。即ち已心に在り。経に云く、此を去ること遠からず乃至是の心是仏なり、と(宗門無盡燈論・流通第十にも「凡極樂者色之異名也。尚無色而可見。彌陀者心之異名也。何有心而可尋。然極樂與彌陀。實非外境。卽在己心。經曰。去此不遠。乃至是心是佛 」)。先徳の云く、若し迷人に於いては求得求証なり。若し悟人に於いては無得無証なり。又云く、若し迷人に於いては久遠劫を期し、若し悟者に於いては頓に本佛を見る、と。
(景徳傳燈録 「師曰。見性者即非凡夫。頓悟上乘超凡越聖。迷人論凡論聖。悟人超越生死涅槃。迷人説事説理。悟人大用無方。迷人求得求證。悟人無得無求。迷人期遠劫。悟人頓見」)。前に引く所の大日の疏に、如浄瑠璃中内見真金像と云ふは即ち心自ら心佛を見る也。所謂、此を去る事遠からずとは、即ち此の謂也。
問、智度に云く、三十二相八十随好を念ずと。云何ぞ心佛を見るといふや。
答、三十二相八十随好とは即ち是れ心佛なり。故に観経に第八の像観を明かす。中に云く、佛、阿難および韋提希に告はく此の事(蓮華想)を見已って次に當に佛を観ずべし。所以は如何。諸仏如来は是法界身なり。一切衆生の心想の中に入る。是汝等が心に佛を想ふ時、是の心即ち是れ三十二相八十随好なり。是の心作佛す、是の心是佛なり。諸仏の正徧知海は心想より生ず。この故に當に一心に繫念し諦に彼の仏多阿伽度阿羅訶三藐三仏陀を観る。(佛説觀無量壽佛經「佛告阿難及韋提希。見此事已。次當想佛。所以者何。諸佛如來是法界身。遍入一切衆生心想中。是故汝等心想佛時。是心即是三十二相八十隨形好。是心作佛是心是佛。諸佛正遍知海從心想生。是故應當一心繋念諦觀彼佛多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀」)。(具には般舟記に之を辨ず如し)。
問、三密平等の念仏三昧をば何んが修行せんや。
答、西方浄土に往生せむと欲する者は阿弥陀仏の供養行軌に依り、手に彌陀の印契を結び、口に彌陀の真言を誦し、心に彌陀の形像を観ぜよ。三密相応して専念に修習すれば則ち本尊の衆相現前を逮見す。乃至鏡曼荼羅の中に於いて而も心佛を見る、是を悉地成就と為す。即ち是れ往生也。第十七に云く、自真実とは謂く自ら真言手印を持して本尊を想ふなり。専念を以ての故に能く本尊を見る。本尊とは即ち是真実の理也。但し本尊を見る已に非ず、又実の如く我が身を観れば即ち本尊と同じ故に真実と名く也。此に三平等之方便あり。身は即ち印也。語は即ち眞言也。心は即ち本尊也。此の三事、其眞實を観ずれば究竟して皆等し。我が此の三平等と一切如來の三平等と異ることなし。是故に眞實也(大毘盧遮那成佛經疏・持明禁戒品第十五「自眞實謂自持眞言手印想於本尊。以專念故能見本尊。本尊者即是眞實之理也。非但見本尊而已。又如實觀我之身即同本尊。故名眞實也。此有三平等之方便。身即印也。語即眞言也。心即本尊也。此三事觀其眞實究竟皆等我。此三平等與一切如來三平等無異。是故眞實也。」)。
問、既に念仏と云ふ、但し當に想念すべし、何ぞ身口を用ん。
答、三密は是れ一相の法門なり。印形を結ぶに依りて能く身業を浄め、真言を誦するに依りて能く口業を浄め、
本尊を観ずるに依りて能く意業を浄め、能く本尊を見る故に第十に云く、三業平等清浄なるに由りて能く諸仏の相を見る(大毘盧遮那成佛經疏世間成就品第五「由三業平等清淨。能見諸佛相」)。若し一も闕ること有ば事成ぜず。世間の小事すら尚成すこと能はず。況や出世の大道をや。凡そ三密差別なるを称して凡夫と為し、三密平等なるを名て諸仏と為す。若し平等に住せざらんには云何んぞ諸仏平等の身を見ることを得んや。疏の第一に云く、入真言門に略して三事ありと。三事は即ち見佛の門也(大毘盧遮那成佛經疏卷第一・ 入眞言門住心品第一「入眞言門略有三事。一者身密門。二者語密門。三者心密門。是事下當廣説。行者以此三方便。自淨三業。即爲如來三密之所加持。乃至能於此生。滿足地波羅密。不復經歴劫數。備修諸對治行」)。
問、念仏とは、念は是れ心想なり。像を取りて體となす。像を取るは有相なり、有相の心想豈に諸仏の真相を見る事を得んや。
答、経に言はざるや、諸仏の正徧知海は心想より生ずと(佛説觀無量壽佛經「次當想佛。所以者何。諸佛如來是法界身。遍入一切衆生心想中。是故汝等心想佛時。是心即是三十二相八十隨形好。是心作佛是心是佛。諸佛正遍知海從心想生。是故應當一心繋念諦觀彼佛多陀阿伽度阿羅呵三藐三佛陀」)。念仏三昧寶王論に、飛錫云く、問、至人は思無し、而して念じて想を用ふ、豈に謬らずや。対へて曰く、謬らざるなり。大威徳陀羅尼経に云ふが如し、有結を超過して応に欲心を発して無欲の事を想ふ。今則ち之に例するに念仏を修せんと欲せば、応に想心を発して無想の事を想ふべし。故に方等賢護経に云く、悪欲をもって女を想すれば夢に女を見、善欲を以て佛を想すれば夢に佛を見る。吾謂く、二想名同じなれども善悪はるかに隔たれり。想と聞きて一概に之を厭ふべからず。若し苟も之を厭はば、経を毀たず、仏を謗せずと雖も、則ち必ず無想天宮に生ず。若し固く無想を執して而も佛想を噬む者は則ち謗法と名く。謗法を以ての故に遂に十方無択の圄囹に入りて未だ出る日を知らず。豈に天宮の望有らんや云々(念佛三昧寶王論「又問曰。至人無思。而今用想。豈不謬哉。對曰。不謬也。如大威徳陀羅尼經云。超過有結。應發欲心想無欲事。今則例之。欲修念佛。應發想心想無想事。故方等賢護經云。惡欲想女。夢見於女。善欲想佛。夢見於佛。吾謂。二想名同。善惡天隔。不可聞想一概厭之。若苟厭之。雖不毀經。不謗佛。則必生於無想天宮矣。若固執無想。而噬想佛者。則名謗法。以謗法故。遽入十方無擇之囹圄。未知出日。豈有天宮之望乎。縱令得生。名外道天。非解脱路」)。今大日経に依るに心想念仏を初入の法門と為す故に疏に釈して云く、是れ最初発足の處也(大毘盧遮那成佛經疏・世間成就品第五「此行善成得悉地果。佛意言。若有衆生欲得成就如上大果者。先當依此品次第而修行之。即是最初發足處也。當字字相應。句句亦如是。作心想念誦。善住一洛叉。初字菩提心者。如上一一字各有字義。從此字入實相門。即眞言字也」)。又第十の疏に云く、又経の中に云ふところの命とは所謂風なり。風とは想也。想とは念也。是の如き命根出入の息の想は復浄妙なりと雖も猶し是れ想は風の所成なり。亦當に之を浄む(大毘盧遮那成佛經疏・世間成就品第五「又經中所云。命者所謂風也。風者想也想者念也。如是命根出入息之想雖復淨妙。猶是想風所成。亦當淨之。所云彼等淨除已。作先持誦法者所云阿字者。以一切種子皆從阿字而生」)。第十七に云く、この諸法は即ち阿字を以て而して第一命と為す也。猶し人の出入りの息有れば此れを以て命と為し、息絶えぬれば即ち命続かざるが如し。此の阿字も亦爾なり。一切の法と有情と此を以て命と為す也(大毘盧遮那成佛經疏・阿闍梨眞實智品第十六「我心住一切遍自在。我皆遍種種有情非有情阿字第一命者。謂即以阿字爲心。故遍於一切自在而成。言此阿字不異我。我不異阿字也。乃悉遍於一切情非情法。此諸法即以阿字而爲第一命也。猶如人有出入息以此爲命。息絶即命不續。此阿字亦爾。一切法有情以此爲命也」)。
問、心自ら心佛を見ば何ぞ往生と云乎。
答、爾かなり。往生の言、迷人に約すれば求得求証なり。若し悟者に於いては頓に心佛を見る。不行を以て行し、不到を以て到る。且く常途に約して往生と云ふ。生等の四相本来不生なり。豈に何の生ありて往生と名けん乎。而も実には無得無証なり。真言(阿弥陀如来根本陀羅尼)の中の阿密㗚多尾佉訖隣多(あみりた びきらんた・極楽)誐弭寧(ぎゃみねぃ・進往)を、極楽往生と云ふ。尾佉訖隣多とは亦神変の義なり。謂く三密の神通乗に乗りて発意の頃に於て便ち所詣に至る。即ち不到にして到也。
問、無量寿経の上に法蔵比丘の四十八願を明かし畢って云く、法蔵菩薩今已に成仏して現に西方に在り。此を去ること十万億刹なり。その佛の世界を名て安楽と曰ふ、と(佛説無量壽經卷上「佛告阿難。法藏菩薩。今已成佛現在西方。去此十萬億刹。其佛世界名曰安樂」)。彌陀経に云く、是依り西方十万億土を過ぎて世界有り、名て極楽と云ふ、と。(佛説阿彌陀經「爾時佛告長老舍利弗。從是西方過十萬億佛土。有世界名曰極樂。其土有佛號阿彌陀。今現在説法。舍利弗。彼土何故名爲極樂。其國衆生無有衆苦。但受諸樂故名極樂」)云何ぞ不行にして行等と云ふ乎。
答、凡そ顕略の説を名けて顕教と為す。若し密意を開顕すれば一切の諸教は皆悉く如来内証の秘號にして法性の深名を顕さざること無矣。宗家の所謂「医王の目には途に触れて皆薬なり」(般若心経秘鍵「医王の目には途に触れて皆薬なり。 解宝の人は鉱石を宝と見る」)とは即ち此の義也。十万を億と為すは梵に「くてい」(梵字)
と云ふ。然も十万億と云ふは是れ大倶胝也。西方浄土は正しく是れ初地所生の土なるが故に、地前の人に対して大数を以て而も云ふ也。十萬を「らさ」(梵字)と云ひ、億を「くにてい」(梵字)と云ふ。「くだ」(功徳・梵字)と通同するが故に「くてい」(梵字)は即ち功徳なり。言は落叉の功徳に依りて三密平等地に至るを十万億土を過ぐと云ふ也。無量寿の軌に、陀羅尼の功能を明かす中に云く、一万遍を誦すれば不廃忘菩提心三摩地を獲得す、乃至極楽世界の上品上生に生じて菩薩の位を証す云々(無量壽如來觀行供養儀軌「此無量壽如來陀羅尼。纔誦一遍。即滅身中十惡四重五無間罪。一切業障悉皆消滅。若苾芻苾芻尼犯根本罪。誦七遍已。即時還得戒品清淨。誦滿一萬遍。獲得不廢忘菩提心三摩地。菩提心顯現身中。皎潔圓明猶如淨月。臨命終時。見無量壽如來與無量倶胝菩薩衆。圍遶來迎行者。安慰身心即生極樂世界上品上生。證菩薩位」)。此の真言を十甘露と名く。一甘露を一万と為れば則ち十万を成す也。菩薩の位を証すとは謂く、初地不退位を証す、即ち是れ上品上生也。應に知るべし落叉の功徳に依りて而も心の仏国に往生する也。第二十巻(二十三)に、「らさ」(梵字)の秘義を明かして云く、復次に身の印、口の真言、意の本尊、即ち是の三行差別不同なるは即ち是三相なり。即ち此の三相阿字門に入るが故に三相を離れて一相平等なり。是の如く照見すれば是れ三落叉の義なり。落叉とは見也、と(大毘盧遮那成佛經疏・世出世持誦品第三十「復次身印口眞言意本尊。即是三行差別不同。即是三相。即此三相入阿字門故。離於三相一相平等。如是照見。是三落叉義。落叉者見也故云勿異者不得他觀也。」)。
第十二、十五に云く、又この中に見と云つは是れ有得の見に非ず。無垢なるを以ての故に即ち能く見る。見は即ち是れ法界の體也、と(大毘盧遮那成佛經疏・成就悉地品第七「又此法界云見者。非是有得見。以無垢故即能見。見即是法界體也。如鏡淨故萬像自現。而不作如是分別。我能見彼彼是所見。亦不分別去來之相。但縁合見耳。一切衆生皆亦同此法界之體。」)。法界體を見るは即ち心佛を見るなり。前の所引の如浄瑠璃中内見真金像(妙法蓮華経序品第一)とは即ち是也。まさに知るべし落叉とは是れ三密平等の行なり。三密平等の行の功徳に依りて自ら心佛を見て心の佛國に生ずるを過十万億土と云ふなり。又十波羅蜜円満するを過此十万億土と云ふ。此れは謂く、此岸なり。十万は謂く十煩悩なり。過は謂く過超なり。此に二義あり。常途の義に約すれば十惑を過越し十度を円満する也。若し深秘の義ならば過は謂く越入。謂く十惑の當相即十度の功徳なと達見するを越入と云ふ也。所謂八万四千の煩悩の実相は即ち八萬四千の寶聚門なりと見る是也。若し此の義に依らば直に衆生の雑染の心土即ち是れ無量寿浄妙の土なりと指す也。然るに凡愚の為に十万を過ぎて而も浄土有りと説きて願求を生ぜしむるなり。其の密意は即ち唯心の土あんり。十波羅蜜円満する時、心蓮開敷し心佛顕現す。是を心自ら心を証すと云ふ。而も実には無成無覚なり。
問、言の如く十度円満して浄土に往生するならば我等凡夫何んが往生することを得ん。
答、往生に重重経に十八願を明かして有り。云く、「もし我仏を得たらんに、十方の衆生至心に信楽して、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずんば、正覚を取らじ」(佛説無量壽經)。是は仏の本願に依りて而して浄土に生ずることを明かす。即ち下品下生なり。仮令ひ十悪五逆の衆生も若し専注に十念成就すれば則ち往生す。豈に疑ふべけんや。又秘蔵記に云く、密教に拠らば十念成就とは謂く十波羅蜜円満なり、と。此れは神呪の功徳を明かす也。何となれば十甘露の陀羅尼を誦すれば則ち十念成就し十波羅蜜円満して已心の弥陀を見るを往生と云ふ。即ち上品上生也。念をば「しゃち」(梵字)と云ふ。「あさ」(梵字)通同する故に此の中に「あみゃち」(梵字)甘露の義を含む。十念は即ち十甘露也。又「あまた」(梵字・甘露)は、「あ・梵字」と「はら・梵字」と同じ故に知る、「あみだ梵字」は即ち「はらみた梵字」到彼岸の義也。故に十甘露は即ち十度円満也。八印品の如来臍の真言の釈に云く、「あみりた・梵字」甘露とは一切智智の別名也、と(大日經住心品疏私記)。まさに知るべし十度円満は即ち得一切智智也。此の呪を誦する者は坐を起たずして十度円満す。即ち是れ十念往生の深義也。神呪の功深き哉至れる也。実に仰ぎ信ずべし。
問、既に神呪の功徳に依りて而して浄土に往生すと聞く。然るに今現に神呪を誦する者比比として在り然るに成就を得ること甚だ難きは何ぞや。
答、第二十一に云く、然れども行者猶身印と真言と及び本尊を観ずると此の三事和合するに依るが故に本尊即ち自ら道場に降臨して而して来て加被したまふ也。然も此の行じゃ初行の時は尚し是れ凡夫にして自ら徳力無し。何ぞ能く即ち佛菩薩の如是に応ずることを感得せん耶。但し彼の菩薩等は先に誠言の大誓願を立ちたまふが故に若し衆生有りて我が此の法に依りて之を修行して法則を虧かさずんば我必ず冥應せん、或は来らずと雖も遥かに之を加護せん、若し行人法則如法ならんに而も応赴せざらんは即ち是れ本所願に違するが故に応ぜざるを得ざる也。明珠方諸月に向へば而して水降り、円鏡日に向へば而して火生ず。因縁相応して而も思念なきが如し。此の法も亦喩と為すべし。是れ諸仏の心行有りて而して凡夫に同じて之に赴応するには非ざるなり。若し心相応せざる事縁闕けることあれば則ち本尊護念を加へず。故に応験なし。佛菩薩等の過には非ず、と。
(大毘盧遮那成佛經疏・本尊三昧品第二十八「本尊者。梵音娑也地提嚩多。若但云提嚩多者。直所尊之義也。尊亦云自尊。謂自所持之尊也。然彼行者。猶身印眞言及觀本尊。此三事和合故。本尊即自降臨道場而來加被也。然此行者初行之時。尚是凡夫自無徳力。何能即感佛菩薩等如是而應耶。但由彼佛菩薩等。先立誠言大誓願故。若有衆生依我此法。而修行之不虧法則者。我必冥應。或雖不來而遙加護之。若行人法則如法而不應赴。即是違本所願。故不得不應也。如方諸向月而水降。圓鏡向日而火生。因縁相應而無思念。此法亦可爲喩。非是諸佛有心行。而同凡夫之赴應也。若心不相應事縁有闕。則本尊不加護念。故無應驗。非佛菩薩等之過也。然行者以此事故。當須正觀本尊清淨身。清淨身若見已。即以自身而爲本尊身。」)。此の釈明らけし。諸仏皆誓言の大誓あり。中に於いて「あみだ」佛(梵字)は過去世に於て四十八の大願を立つ。乃至若し生ぜずんば正覚を取らじと云ふ。佛に妄言なし。故に専念願求すれば則ち生ぜざることなし。但し懈怠不信を除く。故に佛の過失には非ずと云ふ也。若し行者一心に願求すること頭燃を救うが如くせば豈に往生を得ざらん乎。但し當に勤めて精進して之を務むべき耳。
問、経に乃至十念と云ふ、若し何の易修速疾なる此に過ぐること有らんや。
答、乃至十念と云ふ故に十念は即ち下品往生也。神呪の功徳は即ち爾らず。修行者の機根の差別に随って或は下品に生じ、乃至上品に生ず。故に軌に功能を明かす中に云く、纔に一徧を誦すれば則ち身中の十悪四重五無間罪を滅し一切の業障皆悉く消滅すと。(無量壽如來觀行供養儀軌「此無量壽如來陀羅尼。纔誦一遍。即滅身中十惡四重五無間罪。一切業障悉皆消滅。若苾芻苾芻尼犯根本罪。誦七遍已。即時還得戒品清淨。誦滿一萬遍。獲得不廢忘菩提心三摩地。菩提心顯現身中。皎潔圓明猶如淨月。臨命終時。見無量壽如來與無量倶胝菩薩衆。圍遶來迎行者。安慰身心即生極樂世界上品上生」)。業障消滅に軽往重有るが故に、生に亦浅深あり。義准して知るべし。又功能を明かす中に云く、一万徧を誦すれば不廃忘菩提心三摩地を獲得す乃至極楽世界の上品上生に生じて菩薩の位を証す、と(無量壽如來觀行供養儀軌「誦滿一萬遍。獲得不廢忘菩提心三摩地。菩提心顯現身中。皎潔圓明猶如淨月。臨命終時。見無量壽如來與無量倶胝菩薩衆。圍遶來迎行者。安慰身心即生極樂世界上品上生。證菩薩位」)。菩薩の位を証すとは即ち初地無生法忍を得するなり。無生法忍は即ち即身成仏也。まさに知るべし十甘露の十念とは即ち是れ頓覚成仏の入心実相門也。
問、真言宗は要するにまさに即身成仏を期すべし。汝何が故にか西方往生を勧むる乎。
答、是愚者の所疑也。凡そ密教の中には三品の成就あり。疏第三に云く、此の中の悉地宮に上中下あり。上は謂く密厳佛國、三界を出過して二乗の見聞を得る所に非ず。中は謂く、十方浄厳。下は謂く、諸天修羅宮と(大毘盧遮那成佛經疏卷第三入眞言門住心品之餘「此中言悉地宮。有上中下。上謂密嚴佛國。出過三界非二乘所得見聞。中謂十方淨嚴。下謂諸天脩羅宮等。若行者成三品持明仙時。安住如是悉地宮中」)。まさに知るべし西方往生は是れ中品の悉地也。是れ且く機の不同に約して三品の差別有りと云ふ。而も実には唯心の浄土なるが故に心の佛國に生じて心の如来を見る。即ち是れ即身成仏也。邊見の密学者多く此の見に堕す。過に非ずして何ぞや。実に悲しむべし。見ずや龍樹大士、西方に生じることを。吾今龍樹を祖述す。幸いに龍樹大士と西方に遊ばば所願即ち足る。更に他の求むべき無き而已。今修行者に信心を生ぜしめんが為にゆえに陀羅尼の功能を出す。無量寿の軌(不空訳)に根本陀羅尼の功能を明かして云く、此の無量寿如来陀羅尼をば纔に誦すること一徧すれば則ち身中の十悪五無間罪を滅して一切の業障悉く皆消滅す。若し苾芻苾芻尼、根本罪を犯さんに誦すること七遍已んなば、即時に還て戒品清淨なることを得。誦すること一萬遍なれば、不廢忘菩提心三摩地菩提心を獲得し、身中に顯現して、皎潔圓明なること猶し淨月輪の如し。臨命終時、無量壽如來、無量倶胝菩薩衆に圍遶せられ來迎し行者を安慰したまふ。即ち極樂世界上品上生に生じて菩薩位を証す、と云々(前出)。
無量寿如来の真言に曰く「おん あみりた ていせいからうん」。
十万遍を誦すれば阿弥陀如来を見ることを得て命終せば決定して極楽に生じることを得。
「おん ろけいじんばら あらんじゃ きりく」。此の真言一遍を誦するに阿弥陀経不可説遍を誦するに敵る。秘の故に勝の故に、重障難を破す、具に説くこと能はず。
享保十五年庚戌正月二日 沙門「だるましゃに梵字」
天台止観第二の一に云く、若し彌陀を唱ふれば是即ち十方佛を唱ふると功徳等し。但し専ら彌陀を以て法門の主と為せ。要を挙げて之を言はば、歩歩聲聲念念唯阿弥陀佛に在りと(摩訶止觀卷第二「唱念相繼無休息時。若唱彌陀即是唱十方佛功徳等。但專以彌陀爲法門主。擧要言之。歩歩聲聲念念唯在阿彌陀佛」)。記に挙要の下は三業を結勧する也。歩歩は身業、聲聲は口業、念念は意業と。有る人この分を挙げて余に問て曰く、なんの功徳ありてか此れ等の義有るや。請ふ為に之を解せよ、と。解して云ふ、あみだ(梵字)此れには無量壽という、亦甘露と云ふ、如来臍の真言の釈に云く、あみりた(梵字)甘露とは智智の別名也(蓮華胎藏界儀軌解釋「大疏云。阿沒㗚都。此云甘露。言甘露者。智智別名。能除一切衆生勢惱。令得長壽之身」)。理趣釈に云く、一切智智は唯是佛自証の智也、と(大樂金剛不空眞實三昧耶經般若波羅蜜多理趣釋巻上「一切智智者。唯佛自證之智。皆以瑜伽法相應。獲得於法自在」)。意は佛佛道同にして異無きことを明かす。一佛として一切智智を得ずして成仏する者無きが故に。而も阿弥陀独り一切智智の名を得たまふは即ち是れ総即別名也。又第三の疏に云く、実の如く自心を知るを一切智智と名く、と(大毘盧遮那成佛經疏入漫荼羅具縁眞言品第二「如説如實知自心名一切種智。則佛性一乘如來祕藏。皆入其中」)。第六に云く、自心を覚れば本より已来不生なり、と。即ち是成仏也。(大毘盧遮那成佛經疏卷第六・入漫荼羅具縁品第二之餘「我覺本不生者。謂覺自心從本以來不生。即是成佛。而實無覺無成也」)。自心とは謂くきゃた(梵字)真実心、亦あまら(梵字)識と名く。此れ無垢と云ふ。第九識也。常途所謂真如也。又、菴摩羅、此れを甘露と云ふ。中に甘露の義を含む。因果同一なり。故に此の心を証するを一切智智と名く。甘露即ち成仏也。此の尊は毘盧遮那の成覚三昧を主となるが故に亦受用佛と称す。此の尊独り一切智智の名を得たまふは意ここに在り。まさに知る、一切諸仏最正覚を成するは皆是弥陀佛の三昧也。宜なるかな若し彌陀を唱ふれば即ち是れ十方佛を唱すると功徳等しと云ふこと也。又此の真言に十箇のあみりた(梵字)の語あり。故に十甘露の呪と名く。其の実は十波羅蜜円満の義を表す。あみりた(梵字)の梵とはらみた(梵字)とは通同す。はらみた(梵字)此れには到彼岸と云ふ。是れ二転の果地に到る。即ち是れ成覚の義也。十方三世の一切諸仏皆悉く十度円満の正覚を成ず。而も此の尊、独り此の義あるは亦是れ総即別名也。故に此の尊を法部の主と為す故に法門と称する也。天台の在世には密教未だ渡らず、未だ知らず、これ等の義を以ての故に此の釈を為すや。」