福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

中論第二十四章

2011-06-19 | 諸経
一 もしもこの一切が空であるならば、生も滅も存在しない。【生も滅もないから】聖なる四つの真理(四諦・・苦集滅道)の無いことが汝に付随して起こる。

二 聖なる四つの真理がないから、完全に熟知すること(知)、【煩悩を】断ずること(断)、道を習得すること(修)、【ニルヴァーナを】直接に体得すること(証)はありえない。

三 それ(知・断・修・証)がないが故に四つの尊い果報(四聖果)は存在しない。結果がないが故に結果としての状態(位)もなく、また目標に向かって進むこと(向)もない。

四 もしもそれらの八賢聖(四向四果の聖者、預流果 、一来果、不還果、阿羅漢果をいう)が存在しないならば、修行者(サンガ)は存在しない。また聖なる【四つの】真理が存在しないから、正しい教えもまた存在しない。

五 法【宝】ならびに僧【宝】がないが故にどうして仏【宝】
がありえようか。このように【空を】説くならば汝は三宝(仏法僧)をも破壊する。

六 空【を説くもの】は果報の実有、非法、法、および世俗の一切の慣用法をも破壊する。

【竜樹の反駁】
七 ここにおいてわれらは答えていう。―――汝は空における効用(動機)・空【そのもの】および空の異議を知らない。故に汝はこのように論争するのである。

八 二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。【その二つの真理とは】世俗の覆われた立場での真理と、究極の立場から見た真理とである。

九 この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解していないのである。

一〇 世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。

一一 不完全に見られた空は智慧の鈍いものを害する。あたかも不完全に捕らえられた蛇あるいは未完成の呪術のごとくである。

一二 それ故にその法が鈍いものどもによってよく領解されないことを考えて、聖者(ブッダ)が教えを説示しようとする心はやんだ。

一三 また、汝が<空>を非難しても、われわれには欠点を付随して起こることがない。<空>においては欠点が成立しえない。

一四 空が適合するものに対しては、あらゆるものが適合する。空が適合しないものに対しては、あらゆるものが適合しない。

一五 故に、汝は自分のもっているもろもろの欠点を、われわれに向かって投げつけるのである。汝は馬に乗っていながら、しかも馬を忘れているのである。


一六 もしも、それ自体(自性)にもろもろの事物の実有であることを認めるならば、もしもそうであるならば汝はもろもろの事物を因縁なきものとみなすのである。

一七 汝はすなわち結果、原因、行動主体、手段、作用、生起、滅亡および果報を破壊する。

一八 どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。

一九 なんであろうと縁起して起こったものではないものは存在しないから、いかなる不空なるものも存在しない。

二〇 もしもこの一切のものが空でないならば、【何ものかの】生起することも無いし、消滅することも無いであろう。【そうして】汝にとっては四つの真理が存在しないということになるであろう。

二一 縁起したのではない苦しみがどこにあろうか。無常は苦しみであると説かれている。それ【無常性】は自性を有するものには存在しないからである。

二二 それ自体として存在するものが、どうして再び生起するだろうか。それ故に<空であること>を排斥する人にとっては、苦しみの起こる原因【の真理】(集諦)は存在しない。

二三 それ自体として存在する苦しみが消滅することは、存在しない。汝はそれ自体を固執するから、苦しみの消滅(滅諦)を破壊する。

二四 もしも道がそれ自体として存在するのであるならば、それの修習(実践)は成立しない。しかるに道は修習される。汝の説くそれ自体なるものは、存在しないのである。

二五 苦と集と滅とが存在しないときに、苦しみを消滅させるものであるからとて、いかなる道が【ニルヴァーナを】得させるであろうか。

二六 もしも【苦しみが】それ自体として完全に熟知されないならば、それではどうしてそれを熟知しうるであろうか。それ自体(【自性】)は確立しているものであると伝えられているではないか。

二七 完全に熟知することと同様に【煩悩を】断ずること、【ニルヴァーナを】直接に体得すること、道を修習することも、四つの果報(四果)も、このように理に合わないことになる。

二八 それ自体(自性)を固執する人にとっては、それ自体としては証得されない四果を、どうして証得することができるであろうか。

二九 四果が存在しないならば、果に安住している人々も、果に向かっている人々(四向)も存在しない。もしもそれらの八種の人々(八輩)が存在しないならば、修行者のつどい(サンガ)も存在しない。

三〇 また四つの真理(四諦)が存在しないが故に、正しい教えもまた存在しない。法とつどい(サンガ)が存在しないのに、どうして仏が存在するであろうか。

三一 汝には、さとりに縁らないでも仏があるという欠点が付随して起こる。また汝には、仏に縁らないでもさとりがあるという欠点が付随して起こる。

三二 また【汝の説によると】、それ自身として仏でない人は、求道者の実践(菩薩行)において、たとえさとりに向かって努めても、さとりを体得することはないであろう。

三三 さらにいかなる人も、法にかなった行い、不法な行いを、なすことはないであろう。空でないものにとって、何のなすべきことがあるだろうか。何となれば、それ自体(本体)というものはつくられないからである。

三四 汝の説によると、法にかなった行いや不法な行いがなくても、果報が存在するわけである。汝の説によると、法にかなった行いと不法な行いとにもとづいて起こる果報は存在しないわけである。

三五 あるいは、汝にとって、法にかなった行いと不法な行いとにもとづいて起こる果報が存在するのであるならば、法にかなった行いと不法な行いとにもとづいて起こった果報は、汝にとっては、どうして不空であうのか。

三六 汝は一切の世俗活動を破壊する。汝は縁起の空であることを破壊する。

三七 空である道理を破壊する者にとっては、なすべきことは何もないことになるであろう。なすはたらきは起こされないであろう。そうして行動主体は何もなさないでいることになるであろう。

三八 それ自体として種々なる状態を欠いている世間は、【縁起しないものであるから】、不生不滅で、また常住なるものとなるのであろうか。

三九 もしも不空であるならば、未だ得ざる者が得ることも、苦しみを絶滅させる行為も、一切の煩悩を断ずることも、存在しない。

四〇 この縁起をみるものは、すなわち苦、集、滅および道を見る。


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