福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

「悟り、鈴木大拙」より・・その3

2018-05-13 | 法話
阿含経などをみてもよくこういう言葉がある「正覚は一つの目覚めであってそれは自分自身の中にできる経験で他人によるものではないのである。自分の意識の上に内面的に展開して行く一つの経験でその経験から涅槃の世界に到達したという心持になる。永遠の調和と美の世界がそれから造られる。」・・黄山谷(宋の政治家)が晦堂和尚に禅をたずねたことがあった。その時に晦堂がいうには「孔子のことばに『われ汝に隠したことがあるか、わしはお前たちに何事も隠してないのである』とあるではないか」そういわれて黄山谷はないかを答えようとして口を開けたが晦堂が手でふさいだ。その後、この二人は山へ一緒に散歩に出かけたが、丁度木犀の花盛りでその香りが渓谷に満ちていた。晦堂が「木犀の好い香りがきけるか」と尋ねた。そうすると黄山谷は「いい香りがする」と返事した。晦堂和尚はすかさず「それだ汝に隠したことはないではないか」これを聞いて黄山谷は悟るところがあった、ということである。これをみても悟りは内から出るもので外から来るものではないことがわかる。(禅語に「露堂々」という言葉がります。また覚りの世界はありのままに我々のまわりに隠すことなく現れている、という意味でしょう。われわれが勝手に自分で勝手に迷宮を作って「むつかしい」とか「わからない」とかいって迷っているに過ぎないのです。)
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