仏法伝来のこと
凡そ佛のときたまひし所の法に於いて、顕教と密教とあり。顕教とは釈迦如来の一代80年の間にときたまひし百億部の法なり。この経の中に
人乗と天乗と声聞乗と縁覚乗と菩薩乗との五乗あり。中において
・人乗と天乗とは世間の法なり。この世間の人乗と天乗との教えには汝らは五戒と十善戒とを持て有漏の善行を修行して人中とおよび天等とに生ぜんことを願へとしめしたまふなり。
・声聞乗と縁覚乗とは小乗教なり。小乗教にはもとよりこのかた三界(欲界・色界・無色界)の生死を受くる人我は無ければ、無漏智の聖道を発して修にして三界の生死輪廻の煩悩と善悪の業と苦果との三道を断じて涅槃安楽の果をうべしと示したまふ。阿含等の経の声聞の人と縁覚の人との教ふる四諦の法と十二因縁の法これなり。
・菩薩乗の人は大乗の大般若経、法華経、涅槃経、華厳経等の教えなり。二乗の人はただ自度得道にして、自身のための善根の修行のみなり。菩薩種性のひちはこれに反して、有情を利益する修行なれば、悪趣の有情の極苦を受くるに代わりて、三悪道に生じて彼の有情の苦を代わりて受けて彼の受苦を済うふ大悲深重の普賢弥勒地蔵観音等の大菩薩なり。されば天竺国には字を無価駄婆といふ。こころは少しの価の賃銭も無きに、常に大慈悲の憐愍の心を垂れて一切衆生の生死輪廻の苦を受けるに代りて種々の苦労を引き受くると申すことなり。
かくのごとく二乗のひとは利益有情の六度の行をいたさざれば佛になることあたはざるなり。これによって菩薩の人は無上菩提の仏果をもとむるには六度の行を本とするなり。これをもって当来の成仏をねがはんには一切の事々に他人のためによろしきやうに常に心掛くべし。己がために致すは声聞根性と申して成仏をとげがたし。しかるに顕教と申すは大日如来のときたまふ三密の法は劣鈍の凡夫と二乗と菩薩との知るところにあらざるがゆえに、それ等の人の解了せざるよう、その国々に物語する妄語をもって法を説き聞かせて解せしむるの教えなれば、顕教といふ。
密教とは上智上根の真言行者のために金剛界の大日如来の説きたまふ金剛経と、胎蔵界の大日如来の説きたまふ大日経とこれなり。大日如来とは三世常住の仏にてその法をときたまふ語は如義真実の言と申す。真言とはこの義なり。いうところの顕教は一心縁起の法をときたまふがゆえに、顕れてわかりやすく、密教は本有性徳の三密の法なれば一言一句に多くの義を含みて解しがたし。
たとえば「あ・び・ら・うん・けん」の五字に各々義理を含み一句には大日経の一部にときたまふところの無量無辺の義理を含めり。これによって高祖大師は「一字に千理を含み、・・」「一句の妙法は劫を経て説くもいまだつきせず」とのべたまへり。このゆえに阿字諸法本不生の深義を契証せん人はすなわち大日如来なり。・・
凡そ佛のときたまひし所の法に於いて、顕教と密教とあり。顕教とは釈迦如来の一代80年の間にときたまひし百億部の法なり。この経の中に
人乗と天乗と声聞乗と縁覚乗と菩薩乗との五乗あり。中において
・人乗と天乗とは世間の法なり。この世間の人乗と天乗との教えには汝らは五戒と十善戒とを持て有漏の善行を修行して人中とおよび天等とに生ぜんことを願へとしめしたまふなり。
・声聞乗と縁覚乗とは小乗教なり。小乗教にはもとよりこのかた三界(欲界・色界・無色界)の生死を受くる人我は無ければ、無漏智の聖道を発して修にして三界の生死輪廻の煩悩と善悪の業と苦果との三道を断じて涅槃安楽の果をうべしと示したまふ。阿含等の経の声聞の人と縁覚の人との教ふる四諦の法と十二因縁の法これなり。
・菩薩乗の人は大乗の大般若経、法華経、涅槃経、華厳経等の教えなり。二乗の人はただ自度得道にして、自身のための善根の修行のみなり。菩薩種性のひちはこれに反して、有情を利益する修行なれば、悪趣の有情の極苦を受くるに代わりて、三悪道に生じて彼の有情の苦を代わりて受けて彼の受苦を済うふ大悲深重の普賢弥勒地蔵観音等の大菩薩なり。されば天竺国には字を無価駄婆といふ。こころは少しの価の賃銭も無きに、常に大慈悲の憐愍の心を垂れて一切衆生の生死輪廻の苦を受けるに代りて種々の苦労を引き受くると申すことなり。
かくのごとく二乗のひとは利益有情の六度の行をいたさざれば佛になることあたはざるなり。これによって菩薩の人は無上菩提の仏果をもとむるには六度の行を本とするなり。これをもって当来の成仏をねがはんには一切の事々に他人のためによろしきやうに常に心掛くべし。己がために致すは声聞根性と申して成仏をとげがたし。しかるに顕教と申すは大日如来のときたまふ三密の法は劣鈍の凡夫と二乗と菩薩との知るところにあらざるがゆえに、それ等の人の解了せざるよう、その国々に物語する妄語をもって法を説き聞かせて解せしむるの教えなれば、顕教といふ。
密教とは上智上根の真言行者のために金剛界の大日如来の説きたまふ金剛経と、胎蔵界の大日如来の説きたまふ大日経とこれなり。大日如来とは三世常住の仏にてその法をときたまふ語は如義真実の言と申す。真言とはこの義なり。いうところの顕教は一心縁起の法をときたまふがゆえに、顕れてわかりやすく、密教は本有性徳の三密の法なれば一言一句に多くの義を含みて解しがたし。
たとえば「あ・び・ら・うん・けん」の五字に各々義理を含み一句には大日経の一部にときたまふところの無量無辺の義理を含めり。これによって高祖大師は「一字に千理を含み、・・」「一句の妙法は劫を経て説くもいまだつきせず」とのべたまへり。このゆえに阿字諸法本不生の深義を契証せん人はすなわち大日如来なり。・・