善財童子の訪問者と教え(華厳経入法界品)56(最終)
五十五番目、金剛蔵道場 普賢菩薩
文殊菩薩は「無量の大智の光明、無量の菩薩の陀羅尼、無量の三昧、無量の神通、無量の智慧を得、皆悉く成就せしめまた普賢の所行の道場の内に入ることを得しめたまえり・・」とされ、善財は「一心に普賢菩薩にまみえんと思えり・・」となり、「そのときに善財、すなわち普賢菩薩をみたてまつるに金剛蔵道場に在して如来の前において蓮華獅子座に処して大衆に囲繞せられ・・」と善財は普賢菩薩に会えます。
普賢菩薩は文殊菩薩の智慧に対して行を象徴する菩薩です。(しかし 普賢十大願は四十華厳の「普賢行願品」に「一者禮敬諸佛。二者稱讃如來。三者廣修供養。四者懺悔業障。五者隨喜功徳。六者請轉法輪。七者請佛住世。八者常隨佛學。九者恒順衆生。十者普皆迴向」とありますがここ六十華厳では出てきません。)ここでは普賢菩薩の広大無辺の世界と信心行の大切さが説かれ華厳経が終わります。
「爾時善財は十種の瑞相を見已りて即ち是の念を作す。『我今必ず普賢菩薩を見たてまつりて善根を増長し菩薩妙行を究竟して一切佛を見たてまつらん。若し普賢菩薩を見たてまつらば一切智の想を得ん』と。一心に恭敬して普賢菩薩を見たてたつらんと欲す。爾時善財は即ち普賢菩薩を見たてまつるに金剛藏道場に在して如來の前において蓮華藏師子の座に處し大衆に圍遶せられ心は虚空の如くにして染著するところなく障礙を除滅し一切刹を淨め、無礙法を以て十方に充滿し、一切智に住し、諸法界に入りて衆生を教化し、一切劫に於いて菩薩行を行じ、一切諸佛を恭敬供養し心無退轉にして衆生中において最勝最上にして一切世間に能く壞る者なし。一切菩薩も其の智慧境界を察すること能わず。不思議諸妙功徳を具し普く三世等の諸如來を観じたまう。爾時善財、普賢菩薩を見たてまつるに一一の毛孔より一切世界の微塵に等しき光明を放ち普く一切虚空法界に等しき世界を照らしたまい一切衆生の苦患を除滅し・・・善男子よ、汝且らく我清淨法身を観ぜよ。無量劫海に菩薩行を行じて成就する所、無量劫の中にも難聞難見なり。少善根を植えたる聲聞菩薩は猶尚ほ不我名字を聞くことを得ず、況や我身を見んをや。善男子、若し衆生ありて我名を聞ん者は阿耨多羅三藐三菩提に於いて復た退轉せず。若しは見、若しは觸れ、若しは迎送し、若しは隨行し、若しは光明を見、若しは諸佛世界の震動を見、乃至夢中にも我を見聞せん者は亦復た如是なり・・如來淨法身は 三界に倫匹なし。 諸世間を超出して 有に非ず亦た無に非ず。其實所依無く 不去にして遍く至る。譬ば夢の所見の如く 亦た空中の畫の如し。色に非ず、無色に非ず、 非相非無相 非有亦非無にして其性は虚空の如し。 海の摩尼寶の 能く種種寶を出し、 衆生の諸光明は 光に所有なきが如し。 導師も亦た如是なり。 有といえども有に非ず、一處中に於いて功徳寶を積集せず、大仙の現ずるは虚空の如く、 如・自性・實際・涅槃・離欲・滅は皆悉く是れ一性なり。衆生心の微塵も 海水の渧をも數うべく、 虚空も亦た量るべくとも 佛徳は説くとも無盡なり。
此法を聞きて歡喜し 信心して疑うこと無き者は
速に無上道を成じて 諸如來と等しからん。」
探玄記では最後の普賢菩薩の場は「顕因広大相」とされています。
自分にとってこの普賢菩薩にあたるのは法縁のあった方々、福聚講でご縁のあった方々全てです。いままでご縁のあったすべての方のお陰で道心を失わずにいられるからです。
(大方廣佛華嚴經入法界品終わり)
五十五番目、金剛蔵道場 普賢菩薩
文殊菩薩は「無量の大智の光明、無量の菩薩の陀羅尼、無量の三昧、無量の神通、無量の智慧を得、皆悉く成就せしめまた普賢の所行の道場の内に入ることを得しめたまえり・・」とされ、善財は「一心に普賢菩薩にまみえんと思えり・・」となり、「そのときに善財、すなわち普賢菩薩をみたてまつるに金剛蔵道場に在して如来の前において蓮華獅子座に処して大衆に囲繞せられ・・」と善財は普賢菩薩に会えます。
普賢菩薩は文殊菩薩の智慧に対して行を象徴する菩薩です。(しかし 普賢十大願は四十華厳の「普賢行願品」に「一者禮敬諸佛。二者稱讃如來。三者廣修供養。四者懺悔業障。五者隨喜功徳。六者請轉法輪。七者請佛住世。八者常隨佛學。九者恒順衆生。十者普皆迴向」とありますがここ六十華厳では出てきません。)ここでは普賢菩薩の広大無辺の世界と信心行の大切さが説かれ華厳経が終わります。
「爾時善財は十種の瑞相を見已りて即ち是の念を作す。『我今必ず普賢菩薩を見たてまつりて善根を増長し菩薩妙行を究竟して一切佛を見たてまつらん。若し普賢菩薩を見たてまつらば一切智の想を得ん』と。一心に恭敬して普賢菩薩を見たてたつらんと欲す。爾時善財は即ち普賢菩薩を見たてまつるに金剛藏道場に在して如來の前において蓮華藏師子の座に處し大衆に圍遶せられ心は虚空の如くにして染著するところなく障礙を除滅し一切刹を淨め、無礙法を以て十方に充滿し、一切智に住し、諸法界に入りて衆生を教化し、一切劫に於いて菩薩行を行じ、一切諸佛を恭敬供養し心無退轉にして衆生中において最勝最上にして一切世間に能く壞る者なし。一切菩薩も其の智慧境界を察すること能わず。不思議諸妙功徳を具し普く三世等の諸如來を観じたまう。爾時善財、普賢菩薩を見たてまつるに一一の毛孔より一切世界の微塵に等しき光明を放ち普く一切虚空法界に等しき世界を照らしたまい一切衆生の苦患を除滅し・・・善男子よ、汝且らく我清淨法身を観ぜよ。無量劫海に菩薩行を行じて成就する所、無量劫の中にも難聞難見なり。少善根を植えたる聲聞菩薩は猶尚ほ不我名字を聞くことを得ず、況や我身を見んをや。善男子、若し衆生ありて我名を聞ん者は阿耨多羅三藐三菩提に於いて復た退轉せず。若しは見、若しは觸れ、若しは迎送し、若しは隨行し、若しは光明を見、若しは諸佛世界の震動を見、乃至夢中にも我を見聞せん者は亦復た如是なり・・如來淨法身は 三界に倫匹なし。 諸世間を超出して 有に非ず亦た無に非ず。其實所依無く 不去にして遍く至る。譬ば夢の所見の如く 亦た空中の畫の如し。色に非ず、無色に非ず、 非相非無相 非有亦非無にして其性は虚空の如し。 海の摩尼寶の 能く種種寶を出し、 衆生の諸光明は 光に所有なきが如し。 導師も亦た如是なり。 有といえども有に非ず、一處中に於いて功徳寶を積集せず、大仙の現ずるは虚空の如く、 如・自性・實際・涅槃・離欲・滅は皆悉く是れ一性なり。衆生心の微塵も 海水の渧をも數うべく、 虚空も亦た量るべくとも 佛徳は説くとも無盡なり。
此法を聞きて歡喜し 信心して疑うこと無き者は
速に無上道を成じて 諸如來と等しからん。」
探玄記では最後の普賢菩薩の場は「顕因広大相」とされています。
自分にとってこの普賢菩薩にあたるのは法縁のあった方々、福聚講でご縁のあった方々全てです。いままでご縁のあったすべての方のお陰で道心を失わずにいられるからです。
(大方廣佛華嚴經入法界品終わり)