一類の者が云。佛法は心を以て心を修するばかりで。世を助け民に長たる用に立ぬ。儒の道は禮を以て身を修むるに因て。人民を教ゆる功あると。此も佛教を知らぬ者が。宋元以来の幣儀を佛法の様に思云出す言葉じゃ。佛法の中此十善あることじゃ。士庶人なれば。近くは身を修め家を齋ふ。遠くは無漏正道の因縁と成る。王公大人なれば。近くは國を治め天下を治めて。万民と共に太平の風化を樂しむ。遠くは千萬衆とともに無漏正道の因縁と成る。出家なれば。戒學を以て自ら身心清浄にし。他を教へて身心清浄ならしめ。慧學を以て自ら身心明了にし。他を教て身心明了ならしむ。若賢聖ならば。たとひ深山幽谷の中に在て一人の知人なきも。其國の福縁廣大なるといふことじゃ(一人でも十善戒を全うしている修行者がいればその国は安泰ということです)。若縁有て顕るゝときは。衆目の視るところじゃ。阿含経中に心をもって心を修ると云。(中阿含經「復次比丘。念相善相應時生不善念。觀念惡患時亦生不善念。不念念時亦生不善念。當以思行漸減念。時復生不善念者。彼比丘應如是觀。比丘者。因此念故。生不善念。彼比丘便齒齒相著舌逼上齶。以心修心受持降伏令不生惡不善之念。彼以心修心受持降伏。已生不善念即便得滅。惡念滅已心便常住。在内止息一意得定。猶二力士捉一羸人受持降伏。如是比丘。齒齒相著舌逼上齶。以心修心受持降伏令不生惡不善之念。彼以心修心受持降伏。已生不善念即便得滅。惡念滅已心便常住。・・・」)
彼等が云ようなことではなきじゃ。
彼等が云ようなことではなきじゃ。