福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

中論・觀去來品第二

2021-12-26 | 諸経

中論・觀去來品第二 (二十五偈)

(已去(すでに去った)・未去(いまだ去らない)・去時(去りつつある)という三時の現象にすべて「去る働き」は存在しない。俗世では「生死・愛別離苦」などの「去る」ことに苦悩しているが、実は「去」ということもないのである。)

問曰、世間眼見に三時に作(はたらき)有り。已去・未去・去時なり。作(はたらき)あるを以ての故に當に知るべし、諸法あり。答曰、

「已去は去あることなし、 未去にも亦た去なし、已去・未去を離れて、 去時にも亦た去無し。」(第一偈)

已去に去あることなし、已に去る故に。若し去を離れて去の業あらば、是の事然らず。未去にも亦た去なし。未だ去法あらざるが故に。去時(さりつつある時)とは半去・半未去(去りつつある現在)に名く。已去・未去を離れざるが故に。問曰、

 「動の處、則ち去あり、 此の中に去時あり、已去・未去には非ず。 是の故に去時に去あり」(第二偈)

作業ある處に随って是の中に應に去あるべし。眼見に去時中に作業あり。已去中には作業已に滅す。未去中には未だ作業あらず。是の故に當に知るべし去時に去ありと。答曰、

 「云何んが去時に於いて 當に去法あるべきや。若し去法を離るれば 去時は不可得なり」(第三偈)(去りつつある者は「去」はない。「去」なくして去りつつあるものは不可得。)

去時に去法あらば是の事然らず。何以故。去法を離れては去時不可得なればなり。若し去法を離るるも去時あらば、應に去時中にも去有ること器中に果有るが如くなるべし。復次に、

 「若し去時に去ありと言はば、 是の人則ち咎あり。 去を離れて去時有らば 去時獨り去なるが故に」(第四偈)

若し已去・未去中に去無く、去時に實に去有りと謂はば、是の人則ち咎あり。若し去法を離れて去時有らば則ち相因待せず。何以故。若し去時に去有りと説かば是れ則ち二と為す。而も實には

爾らず。是の故に去を離れて去時有りと言ふを得ず。復次に、

「若し去時に去あらば 則ち二種の去あり、一には謂く去時と為し 二には謂く去時去なり。」(第五偈)

若し去時に去有りと謂がば是則ち過有り。所謂、二去あればなり。一には去に因って去時あり。二には去時中に去あり。問曰、若し二去有らば何の咎ぞや。答曰、

「若し二の去法あらば 則ち二去者あらむ。去者を離るれば 去法は不可得なればなり」(第六偈)

若し二去法あらば則ち二去者あらむ。何以故。去法に因りて去者あるが故なり。一人に二去二去者あり。此れ則ち然らず。是の故に去時に亦た去無し。問曰。去者を離れて去法無きは爾るべし、今三時中に定んで去者あらむ。答曰、

「若し去者を離るれば 去法不可得なり。去法無きを以ての故に何ぞ去者あることを得んや」(第七偈)

若し去者を離れては則ち去法不可得なり。今、云何んぞ無去法中において、三時に定んで去者ありと言はむ。復次に

「去者は則ち去らず。 不去者も去らず。去・不去者を離るれば 第三の去者無し」(第八偈)

去者は有ること無し。何以故。若し去者あらば則ち二種あり。若しくは去者、若しくは不去者なり。若し是の二を離るれば、第三の去者無し。

問曰、若し去者が去せば何の咎あらむ。答曰、

「若し去者は去す、と言はば 云何んが此義あらむ。若し去法を離るれば 去者は不可得なり。」(第九偈)

若し定んで去者は去法を用ふること有りと謂はば、是事然らず。何以故。去法を離るれば去者は不可得なるが故に。若し去者を離れて定んで去法あらば則ち去者は能く去法を用ひむ。而も實には爾らず。復次に

「若し去者に去らば 則ち二種の去あり。一には謂はく去者の去、 二には謂はく去法の去なり」(第十偈)

若し去者が去法を用ふると言はば則ち二過あり。一去者中において而も二去あり。一には去法を以て去者を成じ、二には去者を以て去法を成ず。去者が成じ已りて然る後に去法を用ふといはば、是の事然らず。是の故に三時中に定んで去者が去法を用ふること有りと謂ふも、是事然らず。復次に

「若し去者が去す、と謂はば、是の人則ち咎あり。去を離れて去者有り、去者を離れて去有りと説けばなり」(第十一偈)(「去者が去る」との考えは「去なくして去者あり」とする過ちがある。去者に更に去ることを要求するがゆえに)。

若し人が去者能く去法を用ゆると説かば、是人則ち咎あり。去法を離れて去者あればなり。何以故。去者が去法を用ると説かば是れは先に去者ありて後に去法有りと為すなり。是の事然らず。是故に三時中に去者あることなし。復次に若し決定して去有り、去者有らば、應に初發あるべし。而して三時中において發を求むるに不可得なり。何以故。

「已去中には發無し 未去中にも發無し 去時中にも發無し 何れの處にか當に發あらんや」(第十二偈)

何以故に三時中に發なきや。

「未だ發っせずんば去時無く 亦た已去もあることなし。是の二、應に發あるべきなり。 未去に何ぞ發あらむや」(第十三偈)(去の初発より以前に去りつつあることはなく、已に去った、ということもない。また未だ去ってないことに於いても去はない。)

「去なく未去も無く 亦復た去時も無し。一切は發あること無きに 何が故に而も分別せむ」(第十四偈)

若し人、未だ發せずんば則ち去時なく、亦た已去なし。若し發あらば當に二處あるべし。去時と已去との中なり。二倶に然らず。未去時には未だ發あらざるが故に、未去中に何ぞ發あらむ。發無きが故に去なし。去無きが故に去者なし。何ぞ已去・未去・去時有ることを得んや。問曰、若し去無く去者無きも應に住と住者とは有るべし。答曰、

 「去者は則ち住せず 不去者も住せず。去・不去者を離れて 何ぞ第三の住あらむや」(第十五偈)

若し住有り住者有らば應に去者の住か若しくは不去者の住なるべし。若し此の二を離れて應に第三の住あるとは是の事然らず。去者は住せず。去未だ息まざるが故に。去と相違するを名けて住と為す。不去者も亦た住せず。何以故。去法の滅するによるが故に住有り。去なければ則ち住なし。去者・不去者を離るれば更に第三の住はなし。若し第三の住なる者あらば即ち去者不去者中に在り。是を以ての故に去者は住すと言ふべからず。復次に、

「去者若し當に住すべくんば 云何んが此義あらむ。 若し當さに去を離るべくんば 去者は不可得なり。」(第十六偈)

汝、去者住すと謂はば是の事然らず。何以故。去法を離るれば去者は不可得なり。若し去者に去相あらば云何んが當に住有るべし。 去と住とは相違するがゆえに。 復た次に

「去・未去に住なし。 去時にも亦た住無し。所有る行止の法は 皆な去義に同じ。」(第十七偈)

若し去者が住す、と謂はば、是の人は應に去時・已去・未去中に在りて住すべし。三處に皆な住無し。是の故に汝、去者住ありと言ふは是れ則ち然らず。去法は住法を破するが如く、行止も亦た如是なり。行は、穀子より相續して芽・莖・葉等に至るが如し。止は穀子滅するが故に芽・莖・葉が滅するごときをいふ。相續の故に行と名け。斷の故に止と名く。又、無明は諸行乃至老死に縁となる、是を行と名け、無明滅するが故に諸行等滅するを是れを止と名くるが如し。問曰、汝、種種の門にて去・去者、住・住者を破すると雖も而も眼見にては去と住と有り。答曰、肉眼の所見は信ずべからず。若し實に去・去者あらば、一法を以て成ずと為むや二法を以て成ずと為むや。二倶に過あり。何以故、

「去法は去者に即す 是の事則ち然らず。去法は去者に異なるも 是の事亦た然らず。」(第十八偈)

若し去法・去者が一ならば是れ則ち然らず。異も亦た然らず。問曰、一と異とに何の過有るや。答曰、

「若し去法に於いて即ち是れ去者たりと謂はば、作者及び作業 是事則ち一なるべし。」(第十九偈)

 「若し去法に於いて去者異なる有りと謂はば、去者を離れて去あり、去を離れて去者あらん」(第二十偈)

如是に二倶に過あり。何以故。若し去法即ち是れ去者ならば是れ則ち錯亂して因縁を破す。去に因って去者あり。去者に因って去あり。又た去を名けて法と為す。去者を名けて人と爲す。人は常、法は無常なり。若し一ならば則ち二倶に應に常なるべきか、二倶に無常なるべきか、なり。一の中には如是等の過あり。若し異ならば則ち相違す。未だ去法あらざるに應に去者あるべく、未だ去者あらざるに應に去法有るべし。相因待せずして一法滅すとも應に一法在るべし。異中有如是等過。復次に

「去と去者と是の二に 若し一か異かの法を成ぜむとするに二門倶に成ぜず。 云何んが當に成ずることあるべきや」(第二十一偈)(一体によりても異体によりても成ずることなき、去と去者の二にいかにして成あらむや)

若し去者と去法と、若しくは一法を以て成じ、若しくは異法を以て成ぜむとする有らんに、二倶に不可得なり。先に已に第三法の成ずること無きを説きたり。若し成ずること有りと謂はば、應に説くべし、因縁に去なく去者なしと。今當に更に説くべし、

 「去に因って去者を知るに是の去を用ふる能はず。先に去法あることなし、 故に去者の去は無し」(第二十二偈)

何れの法に随ひて去者を知るとも、是の去者は是の去法を用ふる能はず。何以故。是の去法の未だらざる時は去者あることなく、亦た去時は已去・未去も無し。先に人有り城邑有りて所趣あることを得るが如し。去法と去者とは則ち然らず。去者は去法に因りて成じ、去法は去者に因りて成するが故に。復次に、

 「去に因りて去者を知るに 異去を用ゆる能はず。一の去者中に於いて二去を得ざるが故に」(第二十三偈)

何れの去法に随ひて去者を知るとも、是の去者は異の去法を用ゆる能はず。何以故。一の去者中に二の去法は不可得なるが故に。復次に、

 「決定して去者あるも三去を用ゆること能はず。不決定の去者も亦た三去を用ゐず」(第二十四偈)

  「去法定なるも不定なるも去者は三を用ひず。是の故に去と去者と所去處とは皆な無なり。」(第二十五偈)

決定とは本實有に名く。去法に因りて生ぜしめたるに非ざるなり。去法は身動に名く。三種は未去・已去・去時に名く。若し決定して去者あらば、去法を離れて應に去者有るべし。應に住すること有るべからず。是の故に、決定して去者有るも三去を用ゆる能はずと説く。若し去者が不決定ならば、不決定は本實無に名く。去法に因って去者と名くるを得るを以て去法無きを以ての故に三去を用ゆる能はず。去法に因るが故に去者あらば若し先に去法無くば則ち去者無し。云何んが不決定の去者にして三去を用ゆと言はんや。去者の如く去法も亦た如是なり。若し先に去者を離れて決定して去法有らば則ち去者に因って去法あるに非ず。是の故に去者は三去の法を用ゆる能はず。若し決定して去法無くば去者は何の用ふる所ぞ。如是に思惟觀察せば、去法・去者・所去處は是の法、皆な相因待し去法に因って去者有り去者に因って去法有り。是の二法に因って則ち可去の處あり。定んで有と言ふを得ず、定んで無と言ふを得ず。是故に決定して知んぬ、三法は虚妄・空・無所有にして但だ假名のみ有り。如幻如化なり。(已上終)

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