世界新秩序の原理
西田幾多郎
「・・
今日の世界は、私は世界的自覚の時代と考える。各国家は各自世界的使命を自覚することによって一つの世界史的世界即ち世界的世界を構成せなければならない。これが今日の歴史的課題である。第一次大戦の時から世界は既に此の段階に入ったのである。然るに第一次大戦の終結は、かかる課題の解決を残した。そこには古き抽象的世界理念の外、何等の新らしい世界構成の原理はなかった。これが今日又世界大戦が繰返される所以である。今日の世界大戦は徹底的に此の課題の解決を要求するのである。一つの世界的空間に於て、強大なる国家と国家とが対立する時、世界は激烈なる闘争に陥らざるを得ない。科学、技術、経済の発達の結果、今日、各国家民族が緊密なる一つの世界的空間に入ったのである。之を解決する途は、各自が世界史的使命を自覚して、各自が何処までも自己に即しながら而も自己を越えて、一つの世界的世界を構成するの外にない。私が現代を各国家民族の世界的自覚の時代と云う所以である。・・・・いずれの国家民族も、それぞれの歴史的地盤に成立し、それぞれの世界史的使命を有するのであり、そこに各国家民族が各自の歴史的生命を有するのである。各国家民族が自己に即しながら自己を越えて一つの世界的世界を構成すると云うことは、各自自己を越えて、それぞれの地域伝統に従って、先ず一つの特殊的世界を構成することでなければならない。而して斯く歴史的地盤から構成せられた特殊的世界が結合して、全世界が一つの世界的世界に構成せられるのである。かかる世界的世界に於ては、各国家民族が各自の個性的な歴史的生命に生きると共に、それぞれの世界史的使命を以て一つの世界的世界に結合するのである。これは人間の歴史的発展の終極の理念であり、而もこれが今日の世界大戦によって要求せられる世界新秩序の原理でなければならない。(鈴木大拙の「即非の論理」にも似ているし密教曼荼羅的でもある・・講元)
・・・ 今日の世界的道義はキリスト教的なる博愛主義でもなく、又支那古代の所謂王道という如きものでもない。各国家民族が自己を越えて一つの世界的世界を形成すると云うことでなければならない、世界的世界の建築者となると云うことでなければならない。我国体は単に所謂全体主義ではない。皇室は過去未来を包む絶対現在として、皇室が我々の世界の始であり終である。皇室を中心として一つの歴史的世界を形成し来った所に、万世一系の我国体の精華があるのである。我国の皇室は単に一つの民族的国家の中心と云うだけでない。我国の皇道には、八紘為宇の世界形成の原理が含まれて居るのである。
世界的世界形成の原理と云うのは各国家民族の独自性を否定することではない、正にその逆である。・・私の世界的世界形成と云うのは、各国家各民族がそれぞれの歴史的地盤に於て何処までも世界史的使命を果すことによって、即ちそれぞれの歴史的生命に生きることによって、世界が具体的に一となるのである、即ち世界的世界となるのである。世界が具体的に一となると云うことは各国家民族が何処までもそれぞれの歴史的生命に生きることでなければならない。恰も有機体に於ての様に、全体が一となることは各自が各自自身となることであり、各自が各自自身となることは全体が一となることである。私の世界と云うのは、個性的統一を有ったものを云うのである。世界的世界形成の原理とは、万邦各その所を得せしめると云うに外ならない。今日の国家主義は、かかる世界的世界形成主義に基礎附けられていなければならない。・・・
各国家民族が何処までも自己に即しながら、自己を越えて一つの世界を形成すると云うことは、各国家民族を否定するとか軽視するとかと云うことではない。逆に各国家民族が自己自身に還り、自己自身の世界史的使命を自覚することによって、結合して一つの世界を形成するのである。かかる綜合統一を私は世界と云うのである。各国家民族を否定した抽象的世界と云うのは、実在的なものではない。従ってそれは世界と云うものではない。故に私は特に世界的世界と云うのである。従来は世界は抽象的であり、非実在的であった。併し今日は世界は具体的であり、実在的であるのである。今日は何れの国家民族も単に自己自身によって存在することはできぬ、世界との密接なる関係に入り込むことなくして、否、全世界に於て自己自身の位置を占めることなくして、生きることはできぬ。世界は単なる外でない。斯く今日世界が実在的であると云うことが、今日の世界戦争の原因であり、此の問題を無視して、今日の世界戦争の問題を解決することはできない。私の世界と云うのは右の如き意味のものであるから、世界的世界形成と云うことは、地域伝統に従ってと云うのである。然らざれば、具体的世界と云うものは形成せられない。
・・ 歴史的世界形成には、何処までも民族と云うものが中心とならなければならない。それは世界形成の原動力である
・・併し自己自身の中に真の世界性を含まない単に自己の民族を中心として、そこからすべての世界を考える単なる民族主義は、民族自己主義であり、そこから出て来るものは、自ら侵略主義とか帝国主義とか云うものに陥らざるを得ないであろう。
・・或一民族が自己自身の中に世界的世界形成の原理を含むことによって始めてそれが真の国家となる。而してそれが道徳の根源となる。国家主義と単なる民族主義とを混同してはならない。私の世界的世界形成主義と云うのは、国家主義とか民族主義とか云うものに反するものではない。世界的世界形成には民族が根柢とならなければならない。而してそれが世界的世界形成的なるかぎり国家である。個人は、かかる意味に於ての国家の一員として、道徳的使命を有するのである。故に世界的世界形成主義に於ては、各の個人は、唯一なる歴史的場所、時に於て、自己の使命と責務とを有するのである。日本人は、日本人として、此の日本歴史的現実に於て、即ち今日の時局に於て、唯一なる自己の道徳的使命と責務とを有するのである。
民族と云うものも、右の如く世界的世界形成的として道徳の根源となる様に、家族と云うものも、同じ原理によって道徳の根源となるのである。単なる家族主義が、すぐ道徳的であるのではない。世界的世界形成主義には家族主義も含まれて居るのである。之と共に逆に、共栄圏と云う如きものに於ては、嚮に云った如く、指導民族と云うものが選出せられるのではなく、世界的世界形成の原理によって生れ出るものでなければならない。
神皇正統記が「大日本は神国なり、異朝には其たぐいなし」という我国の国体には、絶対の歴史的世界性が含まれて居るのである。我皇室が万世一系として永遠の過去から永遠の未来へと云うことは、単に直線的と云うことではなく、永遠の今として、何処までも我々の始であり終であると云うことでなければならない。天地の始は今日を始とするという理も、そこから出て来るのである。慈遍は「神代は今にあり、往昔というなかれ」とも云う(旧事本紀玄義)。日本精神の真髄は、何処までも超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的と云うことにあるのである。八紘為宇の世界的世界形成の原理は内に於て君臣一体、万民翼賛の原理である。我国体を家族的国家と云っても、単に家族主義的と考えてはならない。何処までも内なるものが外であり、外なるものが内であるのが、国体の精華であろう。義乃君臣、情兼父子である。
我国の国体の精華が右の如くなるを以て、世界的世界形成主義とは、我国家の主体性を失うことではない。これこそ己を空うして他を包む我国特有の主体的原理である。之によって立つことは、何処までも我国体の精華を世界に発揮することである。今日の世界史的課題の解決が我国体の原理から与えられると云ってよい。英米が之に服従すべきであるのみならず、枢軸国も之に傚うに至るであろう。」