正法眼蔵弁道話・・もし人が、一時なりとも、身口心の三業に佛の印を押して、座って三昧になるとき、宇宙がみな佛様のお姿となり、宇宙全てがことごとくさとりの姿となる。それゆゑに、佛・如來はおよろこびになり、覚りの莊嚴さを赫赫としめすことになる。および宇宙全てと、火途・血途・刀途という地獄餓鬼畜生の世界にいる者共や 地獄・畜生・餓鬼・修羅・人・六、天に入る者共はみなともに一時に身心は明るく淨よくなり、覚りを證し、本來の面目を現わすとき、萬物みな佛身であることをみせて、すみやかに迷いや覚りを超越し、覺りの樹のうえに端坐し、一時に比べもののない大法輪を轉じ、最も深い般若の智慧を開演する。・・・このときには、周りの土地草木、牆壁瓦礫という自然もみな佛さまの働きをなすことになり、その自然がおこすところの風や水の利益にあづかるものは、みな甚妙不可思議の佛の作用に助けられて、さとりをあらはすことになる。この水火に代表される自然の恵みを受ける生きとし生けるものは、みな本来の佛の導きを周旋するゆゑに、自然と共に住んで同語するもの、またことごとくあひたがひに無窮の佛が心身にそなはり、それが無限に伝わっていって、無盡、無間斷、不可思議、不可稱量の佛法を、宇宙の果てまで流通することになるのである。
(もし人、一時なりといふとも、三業に佛印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな佛印となり、盡空ことごとくさとりとなる。ゆゑに、佛如來をしては本地の法樂をまし、覺道の莊嚴をあらたにす。および十方法界、三途六道の群類、みなともに一時に身心明淨にして、大解地を證し、本來面目現ずるとき、法みな正覺を證會し、萬物ともに佛身を使用して、すみやかに證會の邊際を一超して、覺樹王に端坐し、一時に無等等の大法輪を轉じ、究竟無爲の深般若を開演す。
これらの等正覺、さらにかへりてしたしくあひ冥資するみちかよふがゆゑに、この坐禪人、確爾として身心落し、從來雜穢の知見思量を截斷して、天眞の佛法に證會し、あまねく微塵際そこばくの佛如來の道場ごとに佛事を助發し、ひろく佛向上の機にかうぶらしめて、よく佛向上の法を激揚す。このとき、十方法界の土地草木、牆壁瓦礫みな佛事をなすをもて、そのおこすところの風水の利にあづかるともがら、みな甚妙不可思議の佛化に冥資せられて、ちかきさとりをあらはす。この水火を受用するたぐひ、みな本證の佛化を周旋するゆゑに、これらのたぐひと共住して同語するもの、またことごとくあひたがひに無窮の佛そなはり、展轉廣作して、無盡、無間斷、不可思議、不可稱量の佛法を、遍法界の内外に流通するものなり。しかあれども、このもろもろの當人の知覺に昏ぜざらしむることは、靜中の無造作にして直證なるをもてなり。もし、凡流のおもひのごとく、修證を兩段にあらせば、おのおのあひ覺知すべきなり。もし覺知にまじはるは證則にあらず、證則には迷およばざるがゆゑに。)
(もし人、一時なりといふとも、三業に佛印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな佛印となり、盡空ことごとくさとりとなる。ゆゑに、佛如來をしては本地の法樂をまし、覺道の莊嚴をあらたにす。および十方法界、三途六道の群類、みなともに一時に身心明淨にして、大解地を證し、本來面目現ずるとき、法みな正覺を證會し、萬物ともに佛身を使用して、すみやかに證會の邊際を一超して、覺樹王に端坐し、一時に無等等の大法輪を轉じ、究竟無爲の深般若を開演す。
これらの等正覺、さらにかへりてしたしくあひ冥資するみちかよふがゆゑに、この坐禪人、確爾として身心落し、從來雜穢の知見思量を截斷して、天眞の佛法に證會し、あまねく微塵際そこばくの佛如來の道場ごとに佛事を助發し、ひろく佛向上の機にかうぶらしめて、よく佛向上の法を激揚す。このとき、十方法界の土地草木、牆壁瓦礫みな佛事をなすをもて、そのおこすところの風水の利にあづかるともがら、みな甚妙不可思議の佛化に冥資せられて、ちかきさとりをあらはす。この水火を受用するたぐひ、みな本證の佛化を周旋するゆゑに、これらのたぐひと共住して同語するもの、またことごとくあひたがひに無窮の佛そなはり、展轉廣作して、無盡、無間斷、不可思議、不可稱量の佛法を、遍法界の内外に流通するものなり。しかあれども、このもろもろの當人の知覺に昏ぜざらしむることは、靜中の無造作にして直證なるをもてなり。もし、凡流のおもひのごとく、修證を兩段にあらせば、おのおのあひ覺知すべきなり。もし覺知にまじはるは證則にあらず、證則には迷およばざるがゆゑに。)