福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

成實論 (訶梨跋摩造 鳩摩羅什譯 ) 三業品第百

2022-10-01 | 諸経

成實論 (訶梨跋摩造 鳩摩羅什譯 ) 三業品第百

問曰。經中に三業を説く。善・不善・無記業なり。何等是善

業なるや。

答曰。何れの業を以ても能く他に好事をあたふるに随って是の業を善と名く。

是の善業は布施持戒慈等の法より生ず。洗浴等には非ず。

問曰。何を名けて好と為すや。

答曰。他をして樂を得せしむ。是を名けて好と為す。亦た名けて善と為す。亦た名けて福と爲す。

問曰。若し他をして樂を得せしむるを名けて福と為さば、他をして苦を得しむるは應當に罪あるべし。良醫の針灸の他をして苦を生ぜしむるは是れ應に罪を得るや。

答曰。良醫の針灸は樂をあたえんが為の故に罪を得ざる也。

問曰。若し樂をあたふる為に便ち福を得るといはば、他妻を淫して其をして樂を生ぜしむるがごときは亦た應に福を得るや。

答曰。婬欲は決定不善と名く。若し人他をして不善法を行ぜしむれば是れ則ち苦と為す、樂には非ざる也。樂は今樂・後樂に名く。現在の少樂、此の因縁を以て後に大苦を得るには非ず。

問曰。有人、飮食の因縁をもて他人の樂を生ずるに、或は飮食不消にして人をして死に到らしむ、是の施食の人は應に罪をうべきや福を得べきや。

答曰。是人好心に施食して惡心なし。故に但だ福徳を得、罪を得ざる也。

問曰。他妻を淫する者も亦復た如是なり。但だ樂を為す故に亦た應に罪を得、福を得るや。

答曰。此事先に答ふ。謂く、婬欲は是れ決定不善にして大苦を生ずる故なり。又飮食を布施する中には福徳の分あり。所以者何。飮食を得る者、必ずしも盡く死せず。衆生は皆貪染心を以ての故に受く。婬欲は全く福因にあらず。云何んぞ福を得んや。

問曰。有人、殺生を以ての故に多人を利益す。人、賊を破すれば則ち國に患なし。若し毒獸を殺して則ち人民を利するが如し。是等は殺生を以て福を得べきや。或は有る人、劫盜の因縁を以て父母を供養し、婬欲の因縁を以て好兒息を生じ、妄語の因縁を以て或は寿命を與あたへ、惡口等を以て他をして利を得せしむ、是皆な十惡の所攝なり、云何が此を以て而も福を得る乎。

答曰。是の人、福を得、罪を得。利他の故の為に福を得、損他を以ての故に罪を得る。

問曰。是の醫、亦た初めは他に苦を與へ、後に樂を得せしむ。何故に罪を得ずしてただ福を得るや。

 

答曰。是の醫は善心を以て針灸し惡意あることなし。若し業を善惡の為の故に起せば則ち罪福並びて得るなり。

問曰。殺等は皆な是れ福を得る、所以は何ん。殺の因縁を以て所欲の事を得、王の為に賊を殺さば富貴を得るが如し。福の因縁を以て所欲に随ふことを得、云何んぞ殺生を名けて福となさざる。又た人能く殺すときんば名聞を得る。名聞は是れ人の樂ふ所なり。人の樂ふ所は是れ福徳の果なり。又た殺を以ての故に喜樂を得、喜樂も亦た是れ福徳の果報なり。

又た經書に説く、若し陣に逆むこうて死すれば天上に生まれることを得る。偈に若し人、戰陣に死すれば天女諍ひて夫と爲すと説くが如し。又説く。善にして富貴なる人と雖も賊の為に逕ただちに前すすんで能く殺せば則ち罪無し、殺さざれば則ち罪を得る。又

世法經に説く、四品の人あり、婆羅門・刹利・毘舍・首陀羅、是れ四品の人なり。各の自ら法ありと。婆羅門に六法あり。刹利に四法あり。毘舍に三法あり。首陀羅に一法あり。

六法とは一には自ら天祠を作る。二には天祠の師となる。三には自ら違馱を讀む。四には亦た他人に教ゆ。五には布施。六には受施。

四法とは一には自ら天祠を作り師とならず。二には他に依って違馱を受くるも他を教へず。

三には布施して施を受けず。四には人民を守護す。

三法とは、天祠を作り師とならず。自ら違馱を読みて他を教ず。自ら布施し施を受けず。

一法とは、謂ゆる上三品の人に供給す。

若し刹利、人民を守護するがための故に他命を奪ふは福ありて罪なし。違馱經に説く、殺生は福を得る。所謂、違馱の語を以て羊を呪殺せば羊は死して生天す。違馱經は是れ世間の信ずる所なり。又、説く、若し實に死すべき者を之を殺さば則ち無罪、五通仙の能く呪して

人を殺すが如し。神仙有罪といふべからず。罪人ならば云何んが能く此の事を成ぜん。故に知る、殺生して福を得ると。又、或は心力あって能く奪命せば福を得、施命せば罪を得、若

し人、善心を以て殺生し得樂せしめんと欲せば云何んが罪有んや。屠兒等の牛羊を畜養するは施すと雖も而も罪なるが如し。如是に盜等の事の中にも亦福徳あらん。

答曰。汝は殺生して所欲を得るが故に福徳と名くと言はば、是の事然らず。所以は何ん。福徳に由るが故に所欲に随ふことを得、是の所欲の事は殺生に縁って得、然る所以は、先世に於いて不淨の福を造るを以ての故なり。經中に劫奪殺害して財を得、施に用ひて他をして悲泣せしむ、及び不淨の施、如是等の施を名けて曰く不淨と説くが如し。要らず惡縁に由りて而も報を受くることを得。又た此の人、先世に福有あり。亦た殺生の業縁あり。是の故に今身に殺に由りて報を受く。亦た衆生の財命を償つぐなふべきもの有り。故に殺害に由りて所欲に随ふことを得。又一切衆生、皆殺生を以て富貴を得るに非ず。世間に是の人は薄福多作にして獲ることなしと言うが如し。名聞喜樂も亦た如是なり。皆福徳の因縁を以ての故に名聞身力及び樂を得。但だ是れ福不淨なるが故に殺に由りて得るなり。

問曰。師子虎狼等の所得の身力は皆な罪より生ず。夜叉羅刹等の身力樂を得るも亦た罪より生ずるや。

答曰。是事先答。亦た不淨の福に由るが故に罪の縁を以て得るなり。汝、經書中に、若し陣に逆むこふて死すれば天上に生ずることを得ると説くと言はば、是の事然らず。所以は

何ん。是の經、此の邪語を以て愚人を誘導し其をして勇あらしめんとなり。何を以て之を知るや。要ず福に由りて福を生じ、罪に由りて罪を生ず、是の中にすべて福の因なし。何に由ってか福を得んや。汝、四品の衆生は各の自ら法あり。刹利は人を護るが為の故に殺すは無罪と言はば、此れ家法の如し。屠兒等の世世家法として常に應に殺生し亦た罪を免れざるが如く、刹利も亦た爾なり。是れ王法なりと雖も亦た故に罪を得る。若し刹利、王法を以ての故に殺生が無罪ならば、則ち屠獵等も亦た應に無罪なるべし。但だ刹利は憐愍心を以て民の爲に患を除く、此に由りて福を得る。若し他命を奪はば此れ則ち罪有り。人の他財を劫奪して以って父母を養はば、是の人則ち罪と福と並びて得るが如し。

問曰。是人劫盜して以って父母を養はば、應に罪を得べからず。世法經に説くが如し。若し食に乏しきこと七日ならば首陀羅によって奪取するに罪無し。若し命を斷ぜんと欲せば婆羅門に依りて取ることを得る。是の人、惡業を以て活命すと雖も名ずけて破戒の人と為さず。急難を以ての故に、猶ほ虚空を塵垢は汚さざるが如し。是の人も亦た爾なり。罪の染せざるところなり。

答曰。即ち梵志法中に説く、若し劫奪する時、財主來りて護らば、梵志爾時應當に籌量すべし。若し財主の功徳をして如からざらしめば則ち應に之を殺すべし。所以は何ん。我は是れ勝人、能く種種の悔法を以て此罪を除滅すべし。若し功徳與に等しければ自ら殺すも、他を殺すも其の罪亦た等し。此罪重うして除滅し難きが故に。若し財主の徳、勝れば應に自ら身を捨つべし。此の中に罪の除くべき有るを以ての故に、如是に分別して劫奪すと、殺の中にも亦た應に如是なるべし。また言く、惡業を以て活命すと。是の中に惡業あるが故に云何んぞ福と名けんやと。汝、若し人逕ただちに前すすんで殺すは則ち罪なし、殺さざれば罪を得といふ、是の言已に壞しぬ。所以は何ん。若し前人、徳勝れば自ら身を捨つべし、若し罪なしと言はば何が故に爾しかる耶。汝、違馱經に殺生得福と説くと言ふ。是の語は先に答ふ。謂ゆる殺に福なし。汝、人實に應に死すべくんば殺して罪無しと言はば、則ち怨賊を殺すも亦た應に罪なかるべし。また一切衆生皆是れ罪人なり、作業を起し陰身を受くるを以ての故に。然れば則ち殺生無罪とは是の事不可なり。

問曰。若し衆生先世に自ら殺の縁を造りて今殺すに何故に罪を得るや。劫盜等の業も亦た皆な如是なり。

答曰。若し爾らば則ち罪福なし。所以は何いかん。是人、前世に殺縁を造る故に之を殺すに罪無し。此の殺生を離るも亦た福徳なし、と。如是ならば若し他人に施すも亦た應に

福無かるべし。受者先世に自ら施業を行じ、今自ら報を得るを以てなり。而も實に不可なり。罪福無きが故に。當に知るべし衆生自ら殺業を造ると雖も殺は亦た皆な罪を得、貪恚癡の諸煩惱を起こすを以ての故に。此の諸煩惱を名て邪顛倒となす。邪倒の心を生ずるは尚ほ應に罪を得べし。況んや故に身口業を起こすべきを乎。故に生死をして無窮ならしむ。若し爾らずんば則ち諸神仙は貪恚等の諸煩惱を起こす時、應に便ち神通を失すべからず。若し此れ罪に非ずんば復た何法と相違するが故に福徳と名くや。當に知るべし、衆生復た先世に自ら殺縁を造ると雖も殺は亦た應に罪あり。罪人は能く成す所なしと言ふと雖も、是の事然らず。栴陀羅等も亦た能く呪術を以て人を殺す。仙人亦た爾なり。惡心を以ての故に語に随て能く

成す。又此人福力の故に能く成す。奪命を以ての故に罪を得。汝或は心力あれば奪命に従て福を生じ施命によりて罪を得ると言ふ。是事然らず。所以者何。要かならず心力及び福の因縁に由るが故に能く福を得る。但し心に由るに非ず。若し善心以て師妻を婬し、婆羅門を殺ば福を得べき耶。安息等の邊地の人、福徳心を以て母姊等を婬するに復た福有ん耶。故に知りぬ、福の因縁に従って福徳の生ずること有り。但し心に非ざる也。劫盜等も亦た如是なり。故に知んぬ、殺等は皆な是れ不善なりと。此の殺等は利他の為に非ず故に名て不善となす。現世において少時樂を得ると雖も後に大苦を受く。他を損する故に不善相と名く。又現見するに多く衆生ありて殺等の法を行じ、亦た多く三塗及び人道中に在りて諸苦惱を受く、當に知るべし苦惱は是れ殺等の果なりと。果は因に似るが故に、又た三惡道中には罪苦

尤っも劇はげし。故に知んぬ、殺等の因縁を以て此の中に生ず。

問曰。天人中も亦た如是なり。諸天も亦た常に阿修羅と戰ひ共に相ひ殺害す。人中も亦た坑埳綱毒を以て衆生を殺害す。

答曰。人天中に殺等の法を離るらるあり。三惡道には無し。當に知れ、此中に罪苦尤も甚だし。又人殺等の因縁を以て則ち壽等の利樂を失す。上古の時、人、無量の壽命あり。光は身より出て明かなること日月の如く、飛行自在にして地は皆な自然に隨意の物と自然粳米を生ず。皆な殺等の罪を以ての故に如是の事を失ふ。後に轉うたた更に失し、十歳の人の時に至れば、酥油石蜜稻粟麥等の一切皆無し。故に知ぬ、殺等は是れ不善業なりと。又た若し殺等を離るれば還って利樂を得、壽命増長す。壽年八萬歳の如き諸欲意に隨ふ。故に知ぬ、殺を不善と名く。又今、欝單曰に自然の粳米長ず。樹より生ずるあり。皆な殺等を離れる故に。要を取りて之を言はば、衆生の所有の一切の樂具は皆な殺等を離るるに依りて生ず。故に知ぬ殺等は是れ不善業也。又殺等の法は善人の捨つる所なり。若し諸佛菩薩縁覺聲聞及び餘の功徳人、皆な悉く捨離す、故に知ぬ不善なり。

問曰。是殺生等を善人も亦た聽ゆるす。違馱經中に天祠の為の故に聽ゆるして羊を殺さしむ。答曰。此れ善人に非ず。善人とは常に利他を求め、慈悲心を修し怨親同等なり。如是の人は

豈に當に殺生を聽ゆるすべきや。是の人、貪恚濁心の故に此經を造り、天上に生まれることを求め他衆生を呪ひ福力を以ての故に能く是事を成ず。又た此の殺等は解脱を得る者の為さざる所なり。故に知ぬ、不善なりと。

問曰。解脱を得る者は亦た餘事を作さず。謂はゆる過中食等も是の事亦不善なるべきや。

答曰。是れ罪の因縁なるが故に善人も亦た捨つ。若し法の過無きは捨つべからず。過中食等を離るれば能く梵行を害す、是の故に亦た捨つ。法の體性不善なるを以ての故に捨つる有り。

殺盜等の如し。法の不善の因縁と為るを以ての故に亦た捨つ。飮酒過中食等の如し。故に知りぬ殺生は體性不善なり。又殺生は多く人憎惡すること師子虎狼及諸怨賊旃陀羅等の如し。若し此の法の因縁を以て人の憎惡する所となれば豈に不善に非ざらんや。又若し殺さざる者は多人の愛する所となるは、慈悲を行ずる諸賢聖の人に愛せらるるが如し。故に知んぬ、殺を不善となす。

問曰。殺生の者は勇健を以ての故に人の為に愛せらる、人の王の為に諸怨賊を殺さば則ち王の愛する所となるが如し。

答曰。因縁を以ての故なり。深く愛するに非ざる也。説の如くんば若し人惡業を以て主の心をして歡喜せしむれば、主若し厭心を生ずれば反って還た此の人を疑ふ。若し惡事を以て疑を生ずれば云何ぞ愛と名けんや。又た不善を行ずる者は尚ほ自ら愛せず、況んや他人をや。故に知りぬ殺生は是れ不善法なりと。又た殺等の法は是れ打害繋縛等諸苦惱の因なり。故に知りぬ、不善なりと。

問曰。不殺等の法も亦た苦因あり。王の人に勅して怨賊を殺さしむに若し不殺の者は王必ず

之を害するが如し。

答曰。若し殺さざるを以て便ち害せらるとは、諸の殺さざる者は皆な當應に死するや。是人は自ら王の教に違ふを以ての故也。若し此人深心に殺さずと知れば則ち害を加ず、反って供養すべし。故に知りぬ殺等は是れ苦の因縁なり、不殺等には非ず。又殺等を行ずる者は死する時、悔を生ず。故に知りぬ不善なりと。又殺等を行ずる故に人の信ぜざる所なり。同類中において尚ほ相信ぜず。何況んや善人をや。殺等を行ずる者は尚ほ同類の譏るところ也。況んや餘人をや。殺等を行ずる者は善人は捨て遠ざくること旃陀羅屠獵師等の如し。殺等を行ずる者は樂人と名けず。屠獵者の終に此の業を以て而も尊貴を得ざるが如し。又善人功を為すに殺等を捨離す。若不善にあらずんば何故ぞ功を為すに勤て捨離するを求ん。又現見するに殺等には不愛の果あり。當に知るべし、來世も亦た苦報を得んことを。又た若し殺等は不善に非ずといはば、更に何の法ありて不善と名くや。

問曰。若し殺等の法、是れ不善ならば則ち好身無けん。所以は何ん。殺生せざる時あることなし。若しは來、若しは去、擧足下足時に恒常に細微の衆生を傷殺す。亦常に我相を以て他物を取り、亦た自想に随って妄語を為す。是故に終に好身なし。

答曰。故作は則ち罪なり。不故には非ざる也。經中に説く、實に衆生有り、中に於いて衆

生の想を生じ、殺さんと欲する心あり、殺し已れば殺罪を得。盜等も亦た爾なり。

問曰。人の毒を食ふに故と不故と倶に能く人を殺すが如し。火を蹈むに知と不知と倶に能く人を燒くが如し。刺等も亦た爾なり。當に知るべし、殺生には故と不故と倶に應に罪を得べし。

答曰。此喩然らず。毒は身を害するを以て故に死す。罪福は心に在り、何ぞ喩と為すことを得んや。又た火刺等、若し覺せずんば能く苦を生ずること能はず。是の故にこの喩は然らず。

若し識無くんば則ち痛を覺せず。識有らば則ち覺す。如是に若し故心無くば業は成ぜず。心有らば則ち成ず。此の喩應に爾るべし。故は則ち罪有り、不故は則ち無し。諸業は皆な心を以て差別するが故に上有り下有り。若し故心無くんば云何んが當に上下有りとせんや。醫

と非醫と倶に人の苦を生ず。心力を以ての故に罪福を差別するが如し。又兒が母の乳を捉ふるは則ち罪を得ず、染心無きを以ての故に、若し染心にして捉へば則便ち罪有。當に知れ、罪福は皆な心に由りて生ずと。又若し故心無きに而も罪有りいはば解脱を得る人も亦た不故にして而も衆生を悩ますことあり、是應に罪を得べしとならば則解脱あることなし。諸の罪人には解脱無きを以ての故に。又た若し不故にして而も罪福有らば則ち一業にして便ち

是れ善不善なるべし。人の福業を為す時、誤りて衆生を殺す、此の業を則ち名て亦罪亦福と名くるが如し、是事然らず。當に知るべし、不故は罪あり福あるべからず。又若し心無きに業有りと言はば云何んが此れ善、此れ不善、此れ無記と分別せん耶。皆な心を以ての故に

是の差別あり。三人倶に行きて塔を繞るが如し。一は佛の功徳を念ずるが為。二は盜竊の為。三は清涼の為。身業は是れ同しと雖も而も有善不善無記の差別あり。當に知るべし心に在ることを。業の定報・不定報あり。上中下あり。現報・生報・後報等あり。若し心に由らずして罪福を得ば云何んが當に如是の差別あるべきや。又若し心を離れて業あらば、則ち非衆生數にも亦た應に罪福あるべし。風の山に頽して衆生を惱害するが如き風に應に罪有んや。若し香花を吹き來りて塔寺に堕さば便ち應に福を得るや。是れ則ち不可なり。故に知りぬ心を離れて罪福無き也。外道の説く、斷食法を行じ灰土刺蕀等の上に臥し、淵に投じ火に赴き自ら高崖より墜る等、苦の因縁を以て而も福徳有りと。智者難じて言く、若し爾らば則ち地獄の衆生は常に燒炙せられ、餓鬼は飢渇し、飛蛾は火に投じ、魚鼇は水に處し、猪羊犬等は常に糞土に臥す。是等も亦た應に福を得べきや。

是の人答て言く、要ず故心を以て此の苦惱を受くれば則ち福徳あり、不故には福徳は非ざる也。地獄等は福心を以て燒等の苦を受けず。若し故心を以てせざるがゆえに福無しと言はば、亦た故心無きを以て是の故に罪無し。若し不故心を以て而も福有りといはば、地獄等の中も亦た應に福あるべし、如是の過あり。又た若し不故心にして而も罪福あらば則ち善人なし。所以は何ぞや。四威儀中に於いて常に衆生を殺す、此の事不可なり。當に知るべし、不故は則ち罪福なく、又た好き生處を得ることなし。常に罪の為の故に、而も實に梵王等の諸妙好身なるあり。故に知りぬ、不故には罪福業なし。又た汝等が法中に不淨食を食するに則ち皆な罪有り。若し深く思惟せば一切飮食は皆な是れ不淨食なり。不淨食は皆な應に罪を得べし。如是に酒等に觸るれば則ち婆羅門に非ず。若し見聞せずして淨心を以て食すれば便ち罪無しといはば當に知るべし、心を離るれば則ち罪福無き事を。又天祠中に於いて福心を以ての故に羊を殺し、羊をして天に生ぜしむ。福心を以て殺すが故に則ち福徳あり。若し爾らざれば一切の殺生は皆な福を得、罪を得べし。又婆羅門の言く、或は劫盜して罪なきあり、食に乏しきこと七日なれば首陀羅に依って取ることを得る。若し命斷ぜんと欲すれば婆羅門に依って之を取ることを得る。亦た好兒を生ぜんがための故に婬欲するに罪なきが如し。若し故心を以てせずんば則ち此等の差別あるべからず。故に知りぬ若し人、不故にして他人に

毒をあたへれば何に由ってか罪を得るや。若し故にして他に毒をあたえんに毒は反って病を消せば則ち應に福を得べし。人に食を施すに是の食消せずして人をして死せしめん者は是れ應に罪を得べきが如し。若し不故にして而も罪福有らば是の法は則ち亂れなん。又、世

間人、一切事中に皆な心に信ず。即ち一言にして能く喜怒を生じ、椎打する等の如き、亦た如是なり。故に知ぬ、諸業は皆な心に由るなり。又意業は最勝なり。後の品に當に説くべし。故に知りぬ、諸業は心にあり、又た若し智慧の人は五欲に處すと雖も而も罪を得ず、皆な是れ意力なり。所以は何ん。智者は色を見て妄想を起こさず、故に色に著するの過なし。聲等亦も爾なり。若し妄想を起こさざるに而も罪有りといはば、一切の見聞は盡く應に罪有るべし。然れば則ち意業は用なし。智者は智慧を以て首と為す。五欲を受くと雖も貪著を生ぜず。五欲在りと雖も心に厭ふを以ての故に而も能く不染なり。是れ意業力に非ず耶。是の故に不故にして而も罪福を得ることあることなし。

問曰。汝、善・不善の相は謂はゆる他を損益すと説く。是の事然らず。所以は何ん。若し人

自ら身を養はんとして福業を行ぜば、是の人自ら食するに亦た福徳あらん。又、塔寺は非衆生なれども灑掃せば亦た福を得る。又禮敬等は他において無益なり。但他の功徳を損ず、福あるべからず。又た但、發心するが故に福徳あるに非ず。衣食を以て他人を利益するに随って爾時に福を得。如是に慈悲を行ずる者は應に福あるべからず。又若し塔寺等の非衆生數は若しくは財物を奪ひ若しくは毀壞を加ふるに應に罪あるべからず。現前に惡口し他を罵しらずんば罪あるべからず。聞かざるを以ての故に何ぞ損減する所あらん。又他人に於いて但だ惡心を生じ身口を起こさずば復た何ぞ損する所あらん。此れ皆な罪を得るべからず。又た

或は自ら罵しり、或は自ら身を殺し、或は自ら邪行するも亦た或は罪を得る。是の

故に善不善の相は但だ他を損益するに由るに非ず。

答曰。汝自ら將に身を養はんとして福徳有りといはば、是の事然らず。若し自ら供養するに

福徳ありといはば則ち人、應に他を供養して實に福徳を求むる者あることなし。他人を供養するも又た自に随って己が為にするは其の福は轉た薄し。故に知りぬ、自ら爲すは福あるべからず。又た汝自ら食するを福業を行ずと為すと言はば、若し自ら身を養ひ他を饒益することを為すは是れ心邊より能く福徳を生ず。自ら養ふに依って而も福を得るに非ざる也。汝、塔寺は非衆生なれども灑掃せば亦た福を得ると言はば、是の人、佛の功徳を念ず、衆生中において尊なり。是の故に灑掃す。此の事、亦た衆生に由るが故に福を得る耳。

問曰。已に滅度したまへる佛を衆生と名けず。又た經中に佛は有に非ず、無に非ず、亦た有無に非ず、亦た非有に非ず、非無に非ずと説く。云何ぞ名けて衆生となす耶。

答曰。若し滅度を以て衆生と名けず。是の人、佛の未だ滅度したまはざる時を念じて供養を為す。是の故に福を得。人の父母を祭祠するに生存の時を念ずるが如し。若し爾らずんば父母を供養すと名けず。此事亦た爾なり。汝、禮敬等は他に於いて無益と言ふ。是事然らず。所以は何ん。禮敬等を以て種種に他を利し、他をして尊貴なる人の恭敬する所となる。是を利益と名く。亦た他人をして恭敬することを隨學せしむるに亦た福徳を得る。又た他を禮敬する時は自ら憍慢を破し、不善分を破するを以ての故に利益する所多し。亦た他の功徳を顯すを以て禮敬等に如是の利あり。又、汝、禮敬等に他の功徳を損すると言はば是の事然らず。好心を以て禮敬せば、外道の他を損ぜんが為の故に禮敬を行ずるが如くにあらざるなり。又布施、若し他、消ぜざれば亦た他の功徳を損ずるが如し。然れば則ち布施も亦た福あるべからず。故に禮敬等は深く思惟して益あれば則ち行ずべし。經に説く如し。一比丘あり、浴室中に於いて手を以て他身を摩す、佛、諸比丘に語りたまはく、此の供養者は是れ阿羅漢なり。供養を受くる者は是れ破戒の人なり。汝等當に學すべし。師子を以て狐等を供養すること無きと。汝、但だ心を發するが故に福を得るに非ずと言はば、心は是れ一切功徳之本なり。若しは人、他を利し、己を利し、今利し、當に利す、皆善心を以て本と為す。若し人、他を損じ、己を損じ、今を損じ、當に損ず、皆な不善心を以て本と為す。又、慈を行ずる者は慈心の果報を以て一切を饒益す。所謂、風雨隨時、日月星宿不失常度、大海不溢、大火不燒、大風不壞、此れ皆な慈の果報力なり。經中に、若し一切世間、皆慈心を行ずれば、則ち所欲自然なりと説くが如し。汝、塔寺を劫奪するに罪あるべからずと言はば是の人は衆生の心を以て之を劫奪す、是の何れの塔に随って之を劫奪することを為す、是の因縁を以ての故に若しは能く損を為し、若しは能く損を為すさず。皆な主の為の故に罪を得る。若し汝、心に

佛に於いては惱を生ること能わず故に罪無しと言はば、惡口等を以て阿羅漢に加ふるに苦を生ずること能ず、亦た應に罪なかるべし。汝、現前に罵らざるは應に罪無なかるべしと言はば、是の事然らず。是の人は惡心を以て彼に加ふ。惡心を以ての故に彼聞かずと雖も若し聞かば必ず當に苦を生ずべし。是の故に罪を得。汝、若し惡心を生ずるも身口を起こさざれば罪を得ることなしと言はば、是れ亦然らず。是の濁惡の心は他を惱まさんが故に生ず。若し他が覺知せば必ず苦惱を生ずること賊の來りて人の物を奪ふが如し。覺知せずと雖も亦た人を惱すが為の故に。汝、自ら殺し、自ら罵りて亦た罪を得と言はば是の事然らず。若し自ら身を苦しむれば而も罪を得と言はば則ち人の好處に生ずることあることなし。所以者何。人は四威儀中に於いて常に其身を苦しむ。然れば則ち一切衆生は常に罪を得て他人を悩ます如くなるべし。是故に好處に生ずることを得ることあるなし、此事然らず。當に知るべし、自身によって罪福有らざる也。道の因縁の為の故に毘尼中に此の戒を結す。若し人、惡心にして自殺せば煩惱を以ての故に罪を得る。無記業とは、若し業善不善に非ず。他の衆生において益なく損なし。是を無記と名く。

問曰。何故ぞ無記と名く。

答曰。是此の業の名字なり。若し業の善に非ず、不善に非る者を名けて無記といふ。又た善不善の業は皆な能く報を得が、此の業は報を生ずること能ざる故に無記と名く。所以者何。善不善の業は堅強なり。是の業力は劣弱なり。譬へば敗種の芽を生ずるあたはざるが如し。又報に二種あり。善に愛報を得、不善に不愛報を得、無記は無報なり。

問曰。此の中に有りて非愛非憎を取る、是れ無記の報なるに何の咎有るや。

答曰。佛、報を説きたまふに二種あり。邪身行は不愛報を得、正身行は愛報を得る。中に有りと説かず。福徳の果報は愛念如意を得、罪は則ち此と相違す。又苦樂は是れ罪福の報なり。不苦不樂は亦た是れ善行の果報なり。故に知んぬ無記に報無きことを。(以上三業品)

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