今朝、行中にここ数日間嵐のように荒れて波立っていた心がスーッと晴れて丁度今日の空のようになっているのを感じました。これまで数日間荒れ狂っていた自分の心が特段の理由もなく晴れたのです。心は不思議です。改めて心の不思議さ深さを感じました。
心の構造はいろいろ分析されています。キリスト教は魂と霊に分けて捉え(テサロニケの信徒への手紙5章 23節 では「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように」とあります。)ユングは心の構造を「意識」 「個人的無意識」 「集合的無意識(普遍的無意識)」として考えました。
唯識ではすべては心から生じるとして心を前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)意識・末那識・阿頼耶識に分けます。さらに最終的には心にも実体はないとします。密教では弁顕密二教論で御大師さまは釈摩訶衍論を引用され、前五識(眼・耳・鼻・舌・身識)・意識・末那識・阿梨耶識・多一識心・一一識心の十種の心があるとされています。「心量に十種あり。云何んが十とする。一には眼識心、二には耳識心、三には鼻識心、四には舌識心、五には身識心、六には意識心、七には末那識心、八には阿梨耶識心、九には多一識心、十には一一識心なり。かくのごとくの十が中に初めの九種の心は真理を縁ぜず。後の一種の心は真理を縁じて而も境界とすることを得。・・弁顕密二教論(上」」とされています。ここで第八阿梨耶識心はほぼ唯識の「阿頼耶識」と同じ意味ですが密教辞典では「真如が無用の薫習を受けて有を展開する位をいう」とされています。「阿頼耶識」の場合は真如も入っていることがあるのに対して「阿梨耶識」ではいってないということでしょうか。
そしてここからが大切なのですが第九の「多一識心」は現実界の差別に満ちた相と真如の世界の一体平等の世界とが相互に入り混じって一つとなった心ということです。更に第十一一識心こそ「摩訶衍」(大乗)と称している衆生心そのものとされています。心の一番底は大乗のエッセンスたる衆生心であるとされるのです(那須政隆「弁顕密二教論の解説」)。ユングの集団的無意識の更に更に深いものとでもいえましょうか。
我々は一人一人がこういう深い深い心を持っておりしかもそれが一番奥底の底では「衆生心」として 仏様と一つであったのです。大日経のエッセンスも「如実知自心」であるといいます。自分の心の奥底の底は衆生の心であり仏様であるということを覚れということです。
いつまでも愚かな考えに囚われて怒りの地獄に入っていたのは自分の心にも申し訳ないことでした。
心の構造はいろいろ分析されています。キリスト教は魂と霊に分けて捉え(テサロニケの信徒への手紙5章 23節 では「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように」とあります。)ユングは心の構造を「意識」 「個人的無意識」 「集合的無意識(普遍的無意識)」として考えました。
唯識ではすべては心から生じるとして心を前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)意識・末那識・阿頼耶識に分けます。さらに最終的には心にも実体はないとします。密教では弁顕密二教論で御大師さまは釈摩訶衍論を引用され、前五識(眼・耳・鼻・舌・身識)・意識・末那識・阿梨耶識・多一識心・一一識心の十種の心があるとされています。「心量に十種あり。云何んが十とする。一には眼識心、二には耳識心、三には鼻識心、四には舌識心、五には身識心、六には意識心、七には末那識心、八には阿梨耶識心、九には多一識心、十には一一識心なり。かくのごとくの十が中に初めの九種の心は真理を縁ぜず。後の一種の心は真理を縁じて而も境界とすることを得。・・弁顕密二教論(上」」とされています。ここで第八阿梨耶識心はほぼ唯識の「阿頼耶識」と同じ意味ですが密教辞典では「真如が無用の薫習を受けて有を展開する位をいう」とされています。「阿頼耶識」の場合は真如も入っていることがあるのに対して「阿梨耶識」ではいってないということでしょうか。
そしてここからが大切なのですが第九の「多一識心」は現実界の差別に満ちた相と真如の世界の一体平等の世界とが相互に入り混じって一つとなった心ということです。更に第十一一識心こそ「摩訶衍」(大乗)と称している衆生心そのものとされています。心の一番底は大乗のエッセンスたる衆生心であるとされるのです(那須政隆「弁顕密二教論の解説」)。ユングの集団的無意識の更に更に深いものとでもいえましょうか。
我々は一人一人がこういう深い深い心を持っておりしかもそれが一番奥底の底では「衆生心」として 仏様と一つであったのです。大日経のエッセンスも「如実知自心」であるといいます。自分の心の奥底の底は衆生の心であり仏様であるということを覚れということです。
いつまでも愚かな考えに囚われて怒りの地獄に入っていたのは自分の心にも申し訳ないことでした。