仏様は常に説法されています。 昔、知床五湖を見たときどうしてこういう美しい景色があるのかと思いました。日本アルプスの白銀の山々、満山の桜、光が透き通る若葉、朝露にぬれた蓮、遍路道でいえば66番雲辺寺山道の朝日に照らされた木々、群青の横波スカイライン、84番屋島寺でみた瀬戸内海の黄金の入り日、21年の求聞持行で21番太龍寺の巨岩に座って見上げた満天の星空、これらに触れたとき、存在の根底がゆすぶられる心地がするのは私だけではないと思います。
エマソンの先の言葉を再度引用すれば「それは山の大気のようである。それは世界に薫香を満たす力である。それは空と丘とを崇高なものとする。それは星辰の沈黙の歌である。それは人間の至福である。それは人間を無限にする。」という世界です。詩人長田弘も『奇跡―ミラクル―』の中で〈ただにここに在るだけで、じぶんのすべてを、損なうことなく、誇ることなく、みずからみごとに生きられるということの、なんという、花の木たちの奇跡。きみはまず風景を慈しめよ。すべては、それからだ。〉と詠っています。
二宮尊徳翁は「色もなく香もなくつねに天地(あめつち)は書かざる経をくりかえしつつ」と詠み、宋の詩人蘇東坡は「無情説法」(自然が説法しているか)という公案に「渓声すなわちこれ広長舌 山色あに清浄身にあらんや 夜来八万四千の偈 他日如何が人に挙似せん」と応じました。道元禅師も正法眼蔵 山水經
で「而今の山水は、古佛の道現成なり。ともに法位に住して、究盡の功を成ぜり。」といっておられます。
お大師様は「遊山慕仙詩」で「乾坤は経籍の箱なり」と喝破されました。山や川などの自然をはじめ宇宙のあらゆる現象がつねに絶え間なく大説法しているということでしょう。エマソンは「世界は同じ一つの魂からできているのだ」といいしましたが、まさにこの世は曼荼羅で密教の言葉で言えば仏と仏の間の自受法楽の世界が広がっているのです。
しかし無始以来十重二十重に張り付いた煩悩と業にまみれて生きているわれわれには仏様の説法の声は聞こえません。宇宙の美しさにも素直に感動できません。かえってあまりに美しいものを見ると不安になったりします。(これが嵩じるとチベットの「死者の書」にいうように死んだとき死者を導く強い光があらわれても俗人はその光を避けて暗いところに逃げ、恐ろしい迷いの世界に入ってしまうということにもなります。凡夫は仏様から投げかけられている刹那の微妙な救いの糸を自ら避けるので結縁できないままとめどなく生死流転を繰り返すわけです。 )
四国遍路はまさに仏様の説法に気付かされる場であり、この世は曼荼羅で神仏から衆生済度の蜘蛛の糸がたらされていることに思い至る場であるとともに、自分も有り難いその仏縁をいただいている身だと実感できる場です。それを実証する不思議な霊験談は数限りなくあります。後に述べます。
私は、東京は何かおかしいとバブルのころから違和感を感じてきました。お大師様の十住心論でいえば異生羝羊心 レベル(ヤギやヒツジ並みの欲望と争いしか知らぬ心)の指導者層の愚劣な価値観により作られる政策や商品や報道が東京から全国一斉に撒き散らちらされ、それが自己中毒に浸る無数の愚かな日本人を造りだし、それによりこれまた無数の犠牲者を作ってきたのが近代日本の歴史です。廃仏毀釈や神社合祀・鎮守の森破壊、大正デカダンスや昭和モダンの退廃ぶり、太平洋戦争突入と敗戦後の価値観の混乱、最近では沖縄問題、環境破壊、無数の冤罪事件と魔女狩り報道、市場原理主義・拝金主義による経済・雇用破壊と年3万人の自殺者の輩出、拉致被害者問題、東日本大震災・原発事故に対する政官の無責任と被災者放置、領土問題等の日本の将来を決する問題からの逃避と無関心、すべて同根です。
たまたま見つけた伊能秀記という歌人の「超高層群」という歌集には「ひねもすを降りつぐ雪の夕荒び高層群は銀ねずの廃墟」という歌がありました。金権主義の極致の東京の高層ビル群はすでに設計段階から廃墟です。神社仏閣はそういう高層ビル群の足元に数百分の一の規模で踏みつけられています。これらは宇宙法界の象徴であり、衆生の本当の姿の象徴であり神仏の集まっておられるところでもあり、日本の本当の基盤でありますがそういう処が無味乾燥な超高層ビルに圧倒されている今の姿はまさに日本人の心が荒廃の極致にある現状を余すところなく表しています。
また、お遍路をしてみてつくづく日本は東京と地方、空虚な都市と純朴な村落、空しい指導者層と堅実な庶民層の二極に分かれてきたと思いました。地方や現場を知らない根無し草ともいうべき所謂「エリート」層に対し健全だが語らない、しかし足をしっかり地に着けて生きている庶民層が日本国の根っこを形成していることも遍路道で確認できました。
(安岡正篤は「地下百尺のところに埋まって大事をなす人材を養成する(昭和6年日本農士学校設立の序文)」といいました。いたずらに上京して浮ついた人生を求めるのではなく、地方に留まり地下に埋もれて大事をなす、そういう人材がこれからの日本に必要と喝破したのです。日本農士学校では午前は論語や座禅午後は農作業というカリキュラムを組み人材育成にあたりました。日本農士学校の在った埼玉県嵐山町菅谷には、故安岡正篤の遺徳を継承する「安岡正篤記念館」があり私も昔ここで寝泊まりし座禅、論語の素読をしました。)
遍路道では多くの若者やフランス、アメリカ、エストニアなどの外国人遍路にも会いました。外国人遍路が増えているようです。オランダの牧師さんまでいました。彼は教戒師で「囚人の深刻な相談に答えきれなくなり、神学校で学んだ四国霊場のことを思い出して、来た」と26番金剛頂寺で私に語りました。皆、本能的にこの現代文明の胡散臭さに辟易してきています。このままでは世界は破滅する、自分も救われない。世界も自分も同時に救うためにはどうすればよいのかと考えつつ歩いているのでしょう。バートランド・ラッセルは第二次大戦直後の1946年に「これからの世界で、もっとも必要な特性は、慈悲と寛容であって、さまざまな猛り狂った主義が提供してくれるような、なんらかの形態の狂信的信念なのではない。・・・われわれすべてが一つの家族であり、此の家族のどの部分の幸福も、他の部分の荒廃の上に築くことはできない、という知的で道徳的な覚醒がなければならない(人類の将来)」とのべています。
漠然とではありますが彼ら外人遍路も遍路路でこのことを体得しつつあるのではないかと思いました。
エマソンの先の言葉を再度引用すれば「それは山の大気のようである。それは世界に薫香を満たす力である。それは空と丘とを崇高なものとする。それは星辰の沈黙の歌である。それは人間の至福である。それは人間を無限にする。」という世界です。詩人長田弘も『奇跡―ミラクル―』の中で〈ただにここに在るだけで、じぶんのすべてを、損なうことなく、誇ることなく、みずからみごとに生きられるということの、なんという、花の木たちの奇跡。きみはまず風景を慈しめよ。すべては、それからだ。〉と詠っています。
二宮尊徳翁は「色もなく香もなくつねに天地(あめつち)は書かざる経をくりかえしつつ」と詠み、宋の詩人蘇東坡は「無情説法」(自然が説法しているか)という公案に「渓声すなわちこれ広長舌 山色あに清浄身にあらんや 夜来八万四千の偈 他日如何が人に挙似せん」と応じました。道元禅師も正法眼蔵 山水經
で「而今の山水は、古佛の道現成なり。ともに法位に住して、究盡の功を成ぜり。」といっておられます。
お大師様は「遊山慕仙詩」で「乾坤は経籍の箱なり」と喝破されました。山や川などの自然をはじめ宇宙のあらゆる現象がつねに絶え間なく大説法しているということでしょう。エマソンは「世界は同じ一つの魂からできているのだ」といいしましたが、まさにこの世は曼荼羅で密教の言葉で言えば仏と仏の間の自受法楽の世界が広がっているのです。
しかし無始以来十重二十重に張り付いた煩悩と業にまみれて生きているわれわれには仏様の説法の声は聞こえません。宇宙の美しさにも素直に感動できません。かえってあまりに美しいものを見ると不安になったりします。(これが嵩じるとチベットの「死者の書」にいうように死んだとき死者を導く強い光があらわれても俗人はその光を避けて暗いところに逃げ、恐ろしい迷いの世界に入ってしまうということにもなります。凡夫は仏様から投げかけられている刹那の微妙な救いの糸を自ら避けるので結縁できないままとめどなく生死流転を繰り返すわけです。 )
四国遍路はまさに仏様の説法に気付かされる場であり、この世は曼荼羅で神仏から衆生済度の蜘蛛の糸がたらされていることに思い至る場であるとともに、自分も有り難いその仏縁をいただいている身だと実感できる場です。それを実証する不思議な霊験談は数限りなくあります。後に述べます。
私は、東京は何かおかしいとバブルのころから違和感を感じてきました。お大師様の十住心論でいえば異生羝羊心 レベル(ヤギやヒツジ並みの欲望と争いしか知らぬ心)の指導者層の愚劣な価値観により作られる政策や商品や報道が東京から全国一斉に撒き散らちらされ、それが自己中毒に浸る無数の愚かな日本人を造りだし、それによりこれまた無数の犠牲者を作ってきたのが近代日本の歴史です。廃仏毀釈や神社合祀・鎮守の森破壊、大正デカダンスや昭和モダンの退廃ぶり、太平洋戦争突入と敗戦後の価値観の混乱、最近では沖縄問題、環境破壊、無数の冤罪事件と魔女狩り報道、市場原理主義・拝金主義による経済・雇用破壊と年3万人の自殺者の輩出、拉致被害者問題、東日本大震災・原発事故に対する政官の無責任と被災者放置、領土問題等の日本の将来を決する問題からの逃避と無関心、すべて同根です。
たまたま見つけた伊能秀記という歌人の「超高層群」という歌集には「ひねもすを降りつぐ雪の夕荒び高層群は銀ねずの廃墟」という歌がありました。金権主義の極致の東京の高層ビル群はすでに設計段階から廃墟です。神社仏閣はそういう高層ビル群の足元に数百分の一の規模で踏みつけられています。これらは宇宙法界の象徴であり、衆生の本当の姿の象徴であり神仏の集まっておられるところでもあり、日本の本当の基盤でありますがそういう処が無味乾燥な超高層ビルに圧倒されている今の姿はまさに日本人の心が荒廃の極致にある現状を余すところなく表しています。
また、お遍路をしてみてつくづく日本は東京と地方、空虚な都市と純朴な村落、空しい指導者層と堅実な庶民層の二極に分かれてきたと思いました。地方や現場を知らない根無し草ともいうべき所謂「エリート」層に対し健全だが語らない、しかし足をしっかり地に着けて生きている庶民層が日本国の根っこを形成していることも遍路道で確認できました。
(安岡正篤は「地下百尺のところに埋まって大事をなす人材を養成する(昭和6年日本農士学校設立の序文)」といいました。いたずらに上京して浮ついた人生を求めるのではなく、地方に留まり地下に埋もれて大事をなす、そういう人材がこれからの日本に必要と喝破したのです。日本農士学校では午前は論語や座禅午後は農作業というカリキュラムを組み人材育成にあたりました。日本農士学校の在った埼玉県嵐山町菅谷には、故安岡正篤の遺徳を継承する「安岡正篤記念館」があり私も昔ここで寝泊まりし座禅、論語の素読をしました。)
遍路道では多くの若者やフランス、アメリカ、エストニアなどの外国人遍路にも会いました。外国人遍路が増えているようです。オランダの牧師さんまでいました。彼は教戒師で「囚人の深刻な相談に答えきれなくなり、神学校で学んだ四国霊場のことを思い出して、来た」と26番金剛頂寺で私に語りました。皆、本能的にこの現代文明の胡散臭さに辟易してきています。このままでは世界は破滅する、自分も救われない。世界も自分も同時に救うためにはどうすればよいのかと考えつつ歩いているのでしょう。バートランド・ラッセルは第二次大戦直後の1946年に「これからの世界で、もっとも必要な特性は、慈悲と寛容であって、さまざまな猛り狂った主義が提供してくれるような、なんらかの形態の狂信的信念なのではない。・・・われわれすべてが一つの家族であり、此の家族のどの部分の幸福も、他の部分の荒廃の上に築くことはできない、という知的で道徳的な覚醒がなければならない(人類の将来)」とのべています。
漠然とではありますが彼ら外人遍路も遍路路でこのことを体得しつつあるのではないかと思いました。