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Q4、遍路など自分には遠い特別の世界です。ビジネスとは関係ないことです。悩みのある人がいけばよいのでしょう?
A、セネカは「人生の短さについて」で「いかに沢山のものが愚かな喜びや、飽くことの無い欲望や、こびへつらいの付き合いによってもちさられてしまったことか。・・・そのうちお分かりのことと思うが、あなたはまだ未熟のうちに亡くなることになるでしょう。」といっています。
また後で述べますがつい先ごろまで各分野の成功者は厚い信仰心をもっていました。
よく「自分は無神論者だ、自分に既成宗教から働きかけがないのはさぼっているからではないのか」という人がいます。何分の一かは当たっていますが、実はその人の福分がそれだけ薄いことも同時に自分で告白しているようなものなのです。
私自身も若い時、同じような気持ちになりましたが、今から思うと自分の心境があまりに低すぎてそういう縁に巡り合っても気付かないでいたのです。 子供を持つと自分の子供と同じくらいの年の子にしか電車のなかでも目がいかなくなる経験があると思います。他の年の離れた子は目に入りません。われわれの意識は大変狭隘なのです。
セネカではありませんがおろかな欲望やこびへつらいに注意がいっていると高い次元のことは意識できません。
W.・ジェイムスは「宗教的経験の諸相」で「宗教とは個々の人間が孤独の状態にあって、いかなるものであれ神的な存在と考えられるものと自分が関係していることを覚る場合だけに生ずる感情、行為、経験である。」といいました。
エマソン(Ralph Waldo Emerson)のヂヴィニチカレッジの卒業生のための演説もすばらしいものです。「品性はつねにあらわれでる。盗んで富むことはない。施して貧しくなることも無い。・・・ほんのわずかばかりうそが混じっても忽ち効果は失われる。しかし真理を語れば生あるものも生なきものもすべての事物が証人となり地下の草の根までも汝のために証言しようとゆるぎうごく。なぜならあらゆる事物は同一の霊魂より生じているからである。・・・この法則を感知すると心に一種の感情がめざめるがこれがいわゆる宗教的感情であってわれわれの至高の幸福をなすのである。・・・それは山の大気のようである。それは世界に薫香を満たす力である。それは空と丘とを崇高なものとする。それは星辰の沈黙の歌である。それは人間の至福である。それは人間を無限にする。」
哲学者九鬼周造の「偶然性の問題」には波多野精一「宗教哲学」の引用があります。
「人の力、人の働きすべて人間的なるものがいつしか終わりをつげて絶対的権威を以って臨む神秘的実在に我々がはたと行き当たるところがいずこかになければならぬ。啓示に際しては人はあらゆる抵抗もかひなきものとなり・・全人格を挙げて否応なしに思いがけもなき光り、眞(まこと)、福ひ、生(いのち)のうちに拉しさられる趣きがある」。
岸本英夫は「宗教とは、人間生活の究極的意味を明らかにし、人間問題の究極的解決に関わると人々によって信じられている営みを中心とした文化現象・・・」と書いています。
西田幾多郎「善の研究」には「宗教的欲求は人心の最深最大なる欲求である。我々は種々の肉体的欲求やまた精神的欲求をもっている。しかしそはみな自己の一部の欲求にすぎない、独り宗教は自己そのものの解決である。我々は知識においてまた意思において意識の統一を求め主客の合一を求める、しかしこはなお反面の統一にすぎない、宗教はこれらの統一の背後における最深の統一をもとめるのである、知意未分以前の統一をもとめるのである。われわれのすべての欲求は宗教的欲求より分化したもので、またその結果これに帰着するといってよい。・・・よには往々何故に宗教が必要であるかなど尋ねる人がある。しかしかくの如き問いは何故に生きる必要があるかというと同一である。宗教は己の生命を離れて存在するのではない、その要求は生命そのものの要求である。かかる問いを発するのは自己の生涯の真面目ならざるを示すものである。」
ベルグソン「道徳と宗教の二源泉」には「・・・こうした白熱状態を仮定すれば、沸騰している物質が一つの教説という鋳型に難なく流れ込み、あるいは凝固してその教説にさえなるであろう。それゆえ我われは、神秘主義が燃焼して人類の魂のなかに残したものをたくみに冷却してつくられた結晶が宗教だと考える。」とあります。
A、セネカは「人生の短さについて」で「いかに沢山のものが愚かな喜びや、飽くことの無い欲望や、こびへつらいの付き合いによってもちさられてしまったことか。・・・そのうちお分かりのことと思うが、あなたはまだ未熟のうちに亡くなることになるでしょう。」といっています。
また後で述べますがつい先ごろまで各分野の成功者は厚い信仰心をもっていました。
よく「自分は無神論者だ、自分に既成宗教から働きかけがないのはさぼっているからではないのか」という人がいます。何分の一かは当たっていますが、実はその人の福分がそれだけ薄いことも同時に自分で告白しているようなものなのです。
私自身も若い時、同じような気持ちになりましたが、今から思うと自分の心境があまりに低すぎてそういう縁に巡り合っても気付かないでいたのです。 子供を持つと自分の子供と同じくらいの年の子にしか電車のなかでも目がいかなくなる経験があると思います。他の年の離れた子は目に入りません。われわれの意識は大変狭隘なのです。
セネカではありませんがおろかな欲望やこびへつらいに注意がいっていると高い次元のことは意識できません。
W.・ジェイムスは「宗教的経験の諸相」で「宗教とは個々の人間が孤独の状態にあって、いかなるものであれ神的な存在と考えられるものと自分が関係していることを覚る場合だけに生ずる感情、行為、経験である。」といいました。
エマソン(Ralph Waldo Emerson)のヂヴィニチカレッジの卒業生のための演説もすばらしいものです。「品性はつねにあらわれでる。盗んで富むことはない。施して貧しくなることも無い。・・・ほんのわずかばかりうそが混じっても忽ち効果は失われる。しかし真理を語れば生あるものも生なきものもすべての事物が証人となり地下の草の根までも汝のために証言しようとゆるぎうごく。なぜならあらゆる事物は同一の霊魂より生じているからである。・・・この法則を感知すると心に一種の感情がめざめるがこれがいわゆる宗教的感情であってわれわれの至高の幸福をなすのである。・・・それは山の大気のようである。それは世界に薫香を満たす力である。それは空と丘とを崇高なものとする。それは星辰の沈黙の歌である。それは人間の至福である。それは人間を無限にする。」
哲学者九鬼周造の「偶然性の問題」には波多野精一「宗教哲学」の引用があります。
「人の力、人の働きすべて人間的なるものがいつしか終わりをつげて絶対的権威を以って臨む神秘的実在に我々がはたと行き当たるところがいずこかになければならぬ。啓示に際しては人はあらゆる抵抗もかひなきものとなり・・全人格を挙げて否応なしに思いがけもなき光り、眞(まこと)、福ひ、生(いのち)のうちに拉しさられる趣きがある」。
岸本英夫は「宗教とは、人間生活の究極的意味を明らかにし、人間問題の究極的解決に関わると人々によって信じられている営みを中心とした文化現象・・・」と書いています。
西田幾多郎「善の研究」には「宗教的欲求は人心の最深最大なる欲求である。我々は種々の肉体的欲求やまた精神的欲求をもっている。しかしそはみな自己の一部の欲求にすぎない、独り宗教は自己そのものの解決である。我々は知識においてまた意思において意識の統一を求め主客の合一を求める、しかしこはなお反面の統一にすぎない、宗教はこれらの統一の背後における最深の統一をもとめるのである、知意未分以前の統一をもとめるのである。われわれのすべての欲求は宗教的欲求より分化したもので、またその結果これに帰着するといってよい。・・・よには往々何故に宗教が必要であるかなど尋ねる人がある。しかしかくの如き問いは何故に生きる必要があるかというと同一である。宗教は己の生命を離れて存在するのではない、その要求は生命そのものの要求である。かかる問いを発するのは自己の生涯の真面目ならざるを示すものである。」
ベルグソン「道徳と宗教の二源泉」には「・・・こうした白熱状態を仮定すれば、沸騰している物質が一つの教説という鋳型に難なく流れ込み、あるいは凝固してその教説にさえなるであろう。それゆえ我われは、神秘主義が燃焼して人類の魂のなかに残したものをたくみに冷却してつくられた結晶が宗教だと考える。」とあります。