続日本後記・嘉祥二年849四月辛亥二十八日
「領客使等、渤海國使王文矩等入京。勅使左近衛少将従五位下良岑朝臣宗貞を遣りて慰労す。」
・天皇は仁明天皇。
・渤海使は、727年秋から919年までの間に34回の使節来日が記録に残っている。日本側では朝貢に来ているとして接待している。源氏物語等にも度々登場し日本文化にも多大な影響を与えているようです。
・王文矩は著名な文化人であったらしく、三度も来朝している。その都度嵯峨天皇と蹴鞠をしたり、『三代実録』 では王文矩が時康親王(後の光孝天皇)の相を見て、「至貴の相あり、それ天位に登りたまふこと必ずなりと云々」 と予言した、 と伝えている。
・(以下ウキぺデアによります)良岑 宗貞は大納言・良岑安世の八男。官位は従五位上・左近衛少将。花山僧正とも号す。六歌仙および三十六歌仙の一人。仁明天皇の蔵人から、承和12年(845年)従五位下・左兵衛佐、承和13年(846年)左近衛少将兼備前介を経て、嘉祥2年(849年)に蔵人頭。嘉祥3年(850年)3月に寵遇を受けた仁明天皇の崩御により出家し「遍昭」となる。
円仁・円珍に師事。花山の元慶寺を建立し、貞観11年(869年)紫野の雲林院の別当を兼ねた。仁和元年(885年)に僧正となり、花山僧正と呼ばれる。同年12月18日に内裏の仁寿殿において、光孝天皇主催による遍昭の70歳の賀が行われていることから、光孝天皇との和歌における師弟関係が推定されている。
・高野雑筆集(弘法大師全集)には渤海使.王孝廉に対する大師の書状があります。
弘仁六年(815,大師42歳)一月十九日の時です。王孝廉は弘仁五年渤海大使として副使高景秀らとともに渤海の前王元瑜(定王)の死と新王言義(僖王)の即位を奏上する名目で来日,方物(貢献物)を献じ、弘仁六年従三位を授けられています。学才豊かで《文華秀麗集》に漢詩(「海国来朝、遠き方よりし、百年一酔天裳に謁ゆ。日宮座外、何の見る攸ぞ。五色の雲飛び万歳に光る。」)を残しています。大師とも親交があったとされます。
弘仁六年帰国途中越前に漂着、病死しています。
大師の書状です。
「渤海国大使王孝廉宛
信満(大師の弟子)至る。辱かなくも一封の書状及び一章の新詩を枉まげらる。これを誦し口手倦まず。面はしなわち胡越なれども心は傾蓋なり(身は離れていても心は通じている)。一度は喜び、一度は懼る。喩とすることを知らず。
孟春(早春)余りに寒し。伏して惟んめれば大使動止万福なりや。伏して承る、国家の寵遇恒品に百倍すと。慶賀殊に深し。このごろ消息を取らんと欲するに信満遅く来るに依って交参すること能わず。悚悵(しょうちょう、失意)何ぞ言わん。未だ審し。早晩発帰すべきや。また先に諮申するところの王好(渤海国大使王孝廉 )等の官品具に録示せらるる。幸甚幸甚。謹んで信満を遣し上り、状を奉る。不宣。謹んで状す。
正月十九日 西岳(高雄山)沙門空海状して上る。
渤海の王大使 閣下」
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