「・夫れ真言密宗安心の至要を示さば、大日経王には、実の如く
自心を知なりと説給ひ、高祖大師は、真如外に非ず身を棄てゝ
何か求めんと述給へり、されば朝夕に妄念妄執にほだされ、貪
瞋邪見にまつはるゝ有漏雑染の我等が胸中に五智四身の徳、一
も闕ることなく、本来円満して備れりと達悟する是を凡聖不二
の宗要とす。
但下根劣慧の者は、偏に此旨を信じて疑はず、深
く大日如来の普門の誓願にすがり奉りて、一真言に往生の信を
決し、木樵水くむ其間も、唯光明真言を唱ふれば、如来の本誓
空しからざるが故に無始已来造り累ねし、煩悩罪障の黒暗も、五
智丹満の大光明に照されて、知らず識らず消滅し、娑婆の因縁
未だ尽ざる内に、往生浄刹決定せりと露ばかりも疑はざる、是
を平生往生の真言行者と申すべきなり。
つらつら真言密教の大意を案ずるに、生仏自他の差別なく本
初不生の心地に居し共に三平等の観に住して、深く凡聖不二の
旨を信ずるを以て、総じて安心の宗要とす、是故に高祖大師は『
医眼の視る所、百毒変て薬となり、仏慧の照らす所、衆生即ち
仏なり』と仰せられたり、是れ則ち諸法平等にして、本より生仏
一味解脱の床に住すれども、我等衆生は悟らざるが故に隔歴妄
執の我見に蔽はれて、長夜に苦を受く、此衆生をして、悉く覚
悟せしめんが為に、仏みづから真言密教を説き、群機に普応し
給ふなり、是故に此教に依る機は勝慧劣慧斉しく其益を蒙らず
と云ふことなし、是を以て興教大師は浅観但信は真に浄土に遊
び、深修円智は現に仏道を証すと述べ給へり。
是れ勝慧は直に不二の深理に契ひ、劣慧は順次に往生を成ずるの意なり、
されば下根劣慧の衆生と雖、浄土に往生せば、再び六道の苦界に輪
廻することなく、常に諸仏菩薩に教化を受け、終に生仏同体の
悟を開き、真言秘教の理に応ぜんこと、露も疑あるべからず、
依て此度といふ此度を六道輪廻の終とし、密教値遇の縁に依り、
浄土に往生することの貴さを歓び、怠りなく真言念誦の相続を
励ますべきなり。
抑大日如来と申奉るは、十方諸仏の本地、三世種覚の尊主、
四十二地の所帰、二十五有の能度の尊にましますが故に、頓漸
の法門を施設し、利鈍の万機を摂取し給ひて一も漏し給ふこと
なし、凡そ仏陀神明数多ましますと雖、一仏一尊として、大日
如来の差別智身に非ざる無し、是故に大日如来を帰命し奉る時
は諸仏諸菩薩を帰命し奉るに異ることなし、又白浄信心を決定
して、真言を唱へ、往生成仏を欣ふ時は、一切の神明までも、
皆其本懐なりと思召し、真言念誦の者を守護し給ふなり、何と
なれば仏菩薩の大悲、一切衆生をして終に仏法に勧め入れしめ
んが為に、方便して仮に迹を垂れ給ふ所の神明なれば、皆悉く
大日如来を帰命する中にこもれる故なり。
依て大日如来の御誓願の中には弥陀如来の四十八願も
薬師如来の十二上願も其他あらゆる諸仏諸菩薩の誓願本誓一として漏ることなし、
是故に興教大師は一切の仏菩薩の誓願本誓は此の大日の誓願に非ること
なし、故に又能く、彼の諸願を超ゆと述べ給へり、されば大日
如来の真実本願大潅頂の光明真言を唱ふる時は自一切の仏菩薩
の本誓に契ふが故に、道俗男女諸共に悉く密厳浄土へ往生せら
るゝこと疑なき者なりと諦信法定致すべきなり。(真言宗安心)」
自心を知なりと説給ひ、高祖大師は、真如外に非ず身を棄てゝ
何か求めんと述給へり、されば朝夕に妄念妄執にほだされ、貪
瞋邪見にまつはるゝ有漏雑染の我等が胸中に五智四身の徳、一
も闕ることなく、本来円満して備れりと達悟する是を凡聖不二
の宗要とす。
但下根劣慧の者は、偏に此旨を信じて疑はず、深
く大日如来の普門の誓願にすがり奉りて、一真言に往生の信を
決し、木樵水くむ其間も、唯光明真言を唱ふれば、如来の本誓
空しからざるが故に無始已来造り累ねし、煩悩罪障の黒暗も、五
智丹満の大光明に照されて、知らず識らず消滅し、娑婆の因縁
未だ尽ざる内に、往生浄刹決定せりと露ばかりも疑はざる、是
を平生往生の真言行者と申すべきなり。
つらつら真言密教の大意を案ずるに、生仏自他の差別なく本
初不生の心地に居し共に三平等の観に住して、深く凡聖不二の
旨を信ずるを以て、総じて安心の宗要とす、是故に高祖大師は『
医眼の視る所、百毒変て薬となり、仏慧の照らす所、衆生即ち
仏なり』と仰せられたり、是れ則ち諸法平等にして、本より生仏
一味解脱の床に住すれども、我等衆生は悟らざるが故に隔歴妄
執の我見に蔽はれて、長夜に苦を受く、此衆生をして、悉く覚
悟せしめんが為に、仏みづから真言密教を説き、群機に普応し
給ふなり、是故に此教に依る機は勝慧劣慧斉しく其益を蒙らず
と云ふことなし、是を以て興教大師は浅観但信は真に浄土に遊
び、深修円智は現に仏道を証すと述べ給へり。
是れ勝慧は直に不二の深理に契ひ、劣慧は順次に往生を成ずるの意なり、
されば下根劣慧の衆生と雖、浄土に往生せば、再び六道の苦界に輪
廻することなく、常に諸仏菩薩に教化を受け、終に生仏同体の
悟を開き、真言秘教の理に応ぜんこと、露も疑あるべからず、
依て此度といふ此度を六道輪廻の終とし、密教値遇の縁に依り、
浄土に往生することの貴さを歓び、怠りなく真言念誦の相続を
励ますべきなり。
抑大日如来と申奉るは、十方諸仏の本地、三世種覚の尊主、
四十二地の所帰、二十五有の能度の尊にましますが故に、頓漸
の法門を施設し、利鈍の万機を摂取し給ひて一も漏し給ふこと
なし、凡そ仏陀神明数多ましますと雖、一仏一尊として、大日
如来の差別智身に非ざる無し、是故に大日如来を帰命し奉る時
は諸仏諸菩薩を帰命し奉るに異ることなし、又白浄信心を決定
して、真言を唱へ、往生成仏を欣ふ時は、一切の神明までも、
皆其本懐なりと思召し、真言念誦の者を守護し給ふなり、何と
なれば仏菩薩の大悲、一切衆生をして終に仏法に勧め入れしめ
んが為に、方便して仮に迹を垂れ給ふ所の神明なれば、皆悉く
大日如来を帰命する中にこもれる故なり。
依て大日如来の御誓願の中には弥陀如来の四十八願も
薬師如来の十二上願も其他あらゆる諸仏諸菩薩の誓願本誓一として漏ることなし、
是故に興教大師は一切の仏菩薩の誓願本誓は此の大日の誓願に非ること
なし、故に又能く、彼の諸願を超ゆと述べ給へり、されば大日
如来の真実本願大潅頂の光明真言を唱ふる時は自一切の仏菩薩
の本誓に契ふが故に、道俗男女諸共に悉く密厳浄土へ往生せら
るゝこと疑なき者なりと諦信法定致すべきなり。(真言宗安心)」