福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

中論第五章

2013-11-05 | 諸経
「虚空というものは、実体というものがない。
即ち、空なるものは、認識の対象にならない。
感覚的に捉えた空間と、観念的に捕えた空間が、
互いに重なり合いながら、現実の空間が存在する。

意味を持たぬものを、認識し得るだろうか。
意味を持たないものは、認識し得ないものだ。
目の前で進むものが、何の意味も持たない場合、
意味と呼ばれるものは、何処にも存在していない。

意味が隠されたもの、意味が現われたもの。
どちらの中においても、意味そのものはない。
即ち、意味が隠れたものと、意味が現れたもの、
両者の差異の中に、意味が生じているだけである。

意味を認識するとき、意味が存在している。
意味が存在するときは、意味を認識している。
意味が存在しないときは、意味を認識できない。
意味を認識できないときは、意味も存在できない。

認識を行うことで、意味が与えられている。
ということは、意味そのものは認識できない。
意味を認識しても、意味そのものではないから、
意味が存在するのか、確認することさえ出来ない。

意味が存在しているか、確認が出来ないで、
意味が存在しないという、主張が出来ようか。
存在しているか、存在していないか、の議論は、
それ自体が存在しているか、まさしく意味がない。

だからこそ、虚空、この空間というものは、
存在するのでもなく、存在しないのでもなく、
意味の内容でもないし、意味そのものでもない。
以上から、地、水、火、風、空は、独立している。

一切は空である、実体が無いからといって、
現実に見えている物を、否定すべきではない。
一様に否定してしまうのは、愚かな行為である。
一切のものは、恵み深いものとして見とめられる。」


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