福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

真言宗義章・第二、真言教主章

2022-01-24 | 諸経

第二、真言教主章

(真言宗の教主は大日如来である。大日経には「毘盧遮那の一切の身業、一切の語業、一切の意業は一切処・一切時に有情に対して真言の法を宣説したまえり」とある。)

真言密教の根本教主とは、自性本地法身摩訶毘盧遮那如来なり。摩訶毘盧遮那といふは梵語にして光明遍照の義なり。此には訳して大日如来と名つ゛け奉るなり。此の如来の色相荘厳第一微妙なること遥かに三界を超えて他に比すべきものなし。通身はこれ浄月の光の如く、五佛の宝冠を戴き、絹殻の天衣を纏ひ千葉の大白蓮華王に坐し、一一の毛孔より無量の光炎を放ちて遍く法界を照らし給ふ。凡そ一切衆生この光明に触るるものは無始以来の無明煩悩一時に消滅して苦を離れ楽を得ずといふことなし。この如来は常に秘密法界心殿に在して、自受法楽の故に微塵数の自眷属と共に自証の三密を説かせたまふ。これすなわち極微甚深性海果分(覚りの境地)の法門にして是を真言密教両部の秘蔵といふなり。金剛頂経にはく「金剛遍照如来、五智所成の四種法身をもって本有金剛界金剛心殿も中において自性所成の眷属乃至微細法身秘密心地の十地を超過せる身語心の金剛と興なり」(金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経の最初に「かくのごとく我聞、一時薄伽梵金剛界遍照如來、五智所成の四種法身を以て本有金剛界自在大三昧耶自覺本初大菩提心普賢滿月不壞金剛光明心殿の中において自性所成の眷屬金剛手等の十六大菩薩及び四攝行の天女使金剛内外八供養金剛天女使とともなりき。各各、本誓加持を以て自ら金剛月輪に住して、本三摩地の幖幟を持せり。皆な以って微細法身祕密心地、十地を越過せる身語心の金剛なり。各の五智光明峯の杵より五億倶胝微細金剛を出現して、虚空法界に遍滿せり。諸地の菩薩すら能く見ることあることなし。倶に覺知せず、熾然光明自在威力あり。常に三世において不壞の化身をもって有情を利樂し、暫くも息すむことなし。・・」とあり)大日経にいわく「一時薄伽梵、如来加持広大法界宮に住したまふ。一切の持金剛者皆悉く集会せり。乃至三時を越えて如来の日、加持の故に身語意平等句の法門なり」(大毘盧遮那神変加持経第一入真言門住心品の最初に「如是我聞。一時薄伽梵、如來加持廣大金剛法界宮に住し給う。一切持金剛者皆悉集會せり。如來の信解遊戲神變の生ずる大樓閣寶王は高くして中邊なし。諸の大妙寶をもって種種に間飾せり。菩薩の身をもって師子座となし、其の金剛を名けて、虚空無垢執金剛・虚空遊歩執金剛・虚空生執金剛・被雜色衣執金剛・善行歩執金剛・住一切法平等執金剛・哀愍無量衆生界執金剛・那羅延力執金剛・大那羅延力執金剛・妙執金剛・勝迅執金剛・無垢執金剛・刃迅執金剛・如來甲執金剛・如來句生執金剛・住無戲論執金剛・如來十力生執金剛・無垢眼執金剛・金剛手祕密主といふ。是のごときを上首として十佛刹微塵數等の持金剛衆と倶なり、及び普賢菩薩・慈氏菩薩・妙吉祥菩薩・除一切蓋障菩薩等の諸大菩薩前後に圍繞而て法を演説したまふ。所謂る三時を越えたる如來の日加持の故に、身語意平等句の法門なり。」とあり)凡そこのごとき境界は若し如来の加持力を離れぬれば十地の菩薩(十地は、菩薩が修行して得られる菩薩五十二位の中、下位から数えて第41番目から第50番目の位。上から法雲・善想・不動・遠行・現前・難勝・焔光・発光・離垢・歓喜の10位がある)も尚ほ其の境界に非ず。二乗凡夫誰かよく思議することを得んや。その時に法身如来、往昔、大悲願の故に自在神力加持三昧に住して広く十方世界に他受用・変化・等流の無量無辺の三種の法身(他受用身は大日如来が自らの悟りを享受するすがた。変化身は菩薩・二乗・凡夫のために変幻する大日如来の姿。等流身は、人、天、畜生、などの救済の為にそれぞれに応じた姿をとって顕れる大日如来の姿。)を現じて種々の性欲に応じて種々の法門を説きて、一切如来を利益したまふ。この中、他受用身は八万四千の相好を具し、変化身は三十二相を具し、等流身は菩薩形・縁覚形・声聞形乃至天竜八部衆等の種々の形相なり。この如くの大悲の業用、三世に亘りて常に間断あることなし。故に又、金剛頂経には「常に三世において不壊の化身をもって有情を利楽して時として暫くも息むことなし。」(金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経の最初に「かくのごとく我聞きき、一時薄伽梵金剛界遍照如來、五智所成の四種法身を以て本有金剛界自在大三昧耶自覺本初大菩提心普賢滿月不壞金剛光明心殿の中において自性所成の眷屬金剛手等の十六大菩薩及び四攝行の天女使金剛内外八供養金剛天女使とともなりき。各各、本誓加持を以て自ら金剛月輪に住して、本三摩地の幖幟を持せり。皆な以って微細法身祕密心地、十地を越過せる身語心の金剛なり。各の五智光明峯の杵より五億倶胝微細金剛を出現して、虚空法界に遍滿せり。諸地の菩薩すら能く見ることあることなし。倶に覺知せず、熾然光明自在威力あり。常に三世において不壞の化身をもって有情を利樂し、暫くも息すむことなし。・・」とあり)。大日経には「毘盧遮那の一切の身業、一切の語業、一切の意業、一切処・一切時に有情において真言道句の法を宣説したまへり」とあり(大毘盧遮那神変加持経第一入真言門住心品   「而毘盧遮那。一切身業一切語業一切意業。一切處一切時於有情界宣説眞言道句法」)。まさに知るべし、三世十方の諸佛菩薩は皆悉く大日如来の所現なり。これらの諸仏菩薩に各々大悲の誓願あり。普賢菩薩の十大願(禮敬諸佛。稱讚如來。廣修供養。懺悔業障。隨喜功德。請轉法輪。請佛住世。常隨佛學。恒順眾生。普皆迴向)、薬師如来の十二上願(光明普照・随意成弁・施無尽物・安立大乗・具戒清浄・諸根具足・除病安楽・転女得仏・安立正見・苦悩解脱・飽食安楽・美衣満足)、阿弥陀仏の四十八願、釈迦如来の五百大願等のごときなり。しかも実には悉くこれ大日如来の無尽大誓願の一徳ならざるはなし。この故に若し大日如来の本願に帰命するときは即ちこれ三世十方の諸仏菩薩の誓願に帰命するなり。覚鑁上人この義を釈して曰はく「一切の佛菩薩の誓願本誓、この大日の誓願にあらざるはなし。故に又、能く彼の誓願に超えたり」と。誠にこ れ我ら衆生の至心に帰命し奉るべき無上真実の所願にてましませり。たとえば草木の大地に依り、海に入るものの船により、病苦のものの医王に帰するが如し。故に又、大日経にいはく「我は一切の本初なり。号して世所依と名く。説法無等比、本寂にして上あることなし」と(大毘盧遮那神変加持経・轉字輪漫茶羅行品第八「毘盧遮那世尊。告執金剛祕密主言 我一切本初 號名世所依 説法無等比 本寂無有上」)。誠実の言音此の如し。誰か信ぜざるべけんや。これに加えて顕教の中においても、楞伽経および智度論等の中に、往々に法身如来の色相説法の勝れて微妙なる義を明らかに称歎し給へるに(入楞伽経「法佛是眞佛 餘者依彼化」。大智度論「復次佛有二種身。一者法性

身。二者父母生身。是法性身滿十方虚空無

量無邊。色像端正相好莊嚴。無量光明無量

音聲。聽法衆亦滿虚空。」)、顕教の人師等は釈尊内在の本旨を知らざるが故に法身といふは唯無色無形の空理の異名なるべしとのみ思ひ込みて種々に暗推をめぐらして文を会通し、法身如来無上最尊の徳を信解せざることこれひとえに顕網の執見の致すところなり。真言行者は決してこれ等の説に惑ふべからず。このゆえに疎主善無畏三蔵の判釈にいわく「常途の説法は或は法性といひ、或は法身といふ。寂静なること空のごとくにして動作する所なしといひ、すべてこの如くの力用を具足すると説かず。おもへらく、凡そ神変を起こすはみな是れ有為の心なり、三昧の力なりと。しかも法体是の如しといはず、これその未了なるなり、と。」(大毘盧遮那神変経疏第二十世出世護摩品二十七の余「・・然常途説法。或云法性或云法身。寂靜如空無所動作。都不説具足如是力用。以爲凡起神變。皆是有爲之心三昧之力。而不言法體。如是此其未了也」)

 

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