観音經功徳鈔 天台沙門 慧心(源信)・・25/27
九、感応の事。感応同時なるゆへに海潮音といふなり。中道の音の勝彼世間音と云なり。是即ち凢夫二乗をえらぶなり。凢夫有聲二乗は但空の音なり。有無をきらふ意を勝彼世間音といふなり。故に非有非無の中道の音なり。さて 「念々勿生疑」の事、周琳の註にいはく、念とは繫念相続のいはれなりといへり。是即ち上件のごとく観音を念ずれば諸難を免るるといふ説をきひてこれもうたがはずして涯分相続して信ずべしといふことなり。此の如く能く信じ奉れば苦悩の老死に於いて能く衆生の依怙を作し玉ふなり。之に付いて観音を念ずる人決業を轉ずるやと云う沙汰有ることなり。先ず決定業と云は涅槃経に、愚者の作る罪は決業、智者の作る罪は不定業と説くなり。又龍樹の論には二季の彼岸に作る罪は定業と説くなり。又俱舎には加行(事前行動)根本(業罪が成立した瞬間)後起(罪を犯した後の行為)の三つ具足したるを定業といひ、後起なきを不定業といふなり云々。仍って悪業に依り地獄に墜つべき事決定したる人も深く観音を念じ奉れば之を轉ずべきと見へたり。ただし転不転は信心の厚薄に依るべし。されば妙楽大師の釋に云く、若し其の機感厚きは、定業も亦能く転ず、
若し過現の縁あさければ苦も亦徴なし(法華文句記 ・湛然「問。何以同念有脱不脱。答同念是顯機得脱有冥顯。由過現縁差受益有等級。若其機感厚定業亦能轉。若過現縁淺微苦亦無徴」)。又観音に縁深き者は決定を轉ずべし、又縁の浅き者は之を轉ずべからずとの玉へり。さて何として縁の浅深を知るぞといふに若し帰命の心を発せば宿縁の厚なり。若し聞ても専念せざれば當に知るべし宿縁浅きと釋し、深く観音を念じ奉る者は縁の深き故なり。さて聞ても念じざる者は前世の結縁浅き故なり。菩薩の慈悲も加すべきに加する道理あれば過去に宿縁無き者は之を信ぜず。又決定業を轉ずることも之無きなり。
「具一切功徳慈眼視衆生福聚海無量是故應頂礼」「具一切功徳」とは観音千万億の佛に仕へて無邊に大願を成就し、万善万行諸波羅蜜の功徳を悉く具足し万徳円満し玉ふ故に、「具一切功徳」と説き玉ふなり。さて慈眼と云は五眼三智且べきと雖も別に法眼道種智を以て觀機三昧の内証より無辺の衆生を視て利益し玉ふを慈眼視衆生と説くなり。さて「福聚海無量」とは大海には不思議有る也。其の中に不増不減の徳あり。衆水皆流入るも大海は水の増す事もなく又波燋石有りて常に水を吸て減る事も之無し。其の如く観音の慈悲は無邊の衆生を餘さず漏さず普く利益し玉ふ大海に譬ふる也。此の文に付いて桓武誕生の靈瑞とて口決之あり。其れとは、桓武天皇ご誕生の時、此の「慈眼視衆生」の五字を左の手に把りて生れ玉へり。「視」の字をば小指にて押へ、乃至「生」の字をば大指にて押へ玉へり。さて「福聚海無量」の五字をば右の手の中に把って生れ玉ふなり。此の王子後には伝教大師の檀那と成りて我が山を開基し玉ふなり。是観音の慈眼視衆生の利益なり。
此の品に於いて二句の偈と云ことあり。周の穆王は八疋の駒に乗りて四方を遊行し玉ふとき、知らず測らず霊山へ至り玉へり。釈尊御説法の折節なり。其時は普門品を説き畢んとし玉ふなり。而に佛鑒機して大唐の王に梵語を以て説くは聞き知るべからずと思召して漢語を以てとききかしめ玉ふなり。是を即阿難尊者の多羅葉に書き付けて穆王に奉じ玉へり。穆王之を受けて髪中に納めて即本国に帰り、此の文を以て治國利民の方法とし後帝王一人のみ代々相伝し玉ふなり。