現在の浅間神社の始まりです。神仏一体の明神様であったことが大切です。
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三代実録 / 貞観七年(865)十二月九日丙辰条
「九日丙辰 勅 甲斐国八代郡に浅間明神祠を立て 官社に列す。 即ち祝禰宜を置き 随時祭を致す。 是より先 彼国司言 『往年八代郡は、暴風大雨 雷電地震 雲霧杳冥し 山野弁わかち難し 駿河国富士大山西峯には 急に熾火有り巖谷焼砕す。 今年八代郡擬大領無位伴直真貞の託宣に云く、 〔我は浅間明神なり。 此国に斎き祭られることを得んと欲するに 頃年、国吏の為に凶咎と為り、 百姓を病死さす。 然れども未だ曾って覚悟せず。 仍って此の怪を成す。 須く早く神社を定め 兼て祝禰宜を任じ よろしく潔斎奉祭すべし〕と』。 真貞之身は 或は伸びて八尺ばかり、 或は屈して二尺ばかり、 体を変えて長短し 件等の詞を吐く。 国司、之を求めて卜筮するに 告げる所は託宣に同じ。 是において明神の願により 真貞を以て祝と為し 同郡人伴秋吉を禰宜と為す 郡家以南に神宮を作建し且つ鎮謝せしむ。 然りと雖も異火之変は 今にいたって止まず。 使者を遣はし検察するに 海を埋ること千町ばかりなり。 仰ぎて之を見るに 正中最頂に社宮を飾造し垣は四隅にあり、 丹青石を以て 其四面に立て、石高は一丈八尺許、 広さは三尺、 厚は一尺余、 立石之門の 相去ること一尺、 中に一重の高閣有り 石を以て搆営し 彩色美麗 勝言すべからず 望み請ふは 斎き祭り兼ねて官社に預るべしと。之に従へ。」
貞観六年(864年)には富士山が噴火(貞観大噴火)がおこっています。