第一異生羝羊心(いしょうていようしん)
異生羝羊心とは何ぞ。凡夫狂醉して善惡を辨えず。愚童癡暗にして因果を信ぜざるの名也。凡夫種種の業を作って種種の果を感ず。身相萬種にして生ず。故に異生と名ずく。愚癡無智なることかの羝羊の劣弱なるに均し。故に以って之に喩う。
夫れ生は吾が好むに非ず。死は亦た人の惡むなり。然れども猶お生れゆき生れゆいて六趣に輪轉し、死に去り死に去って三途に沈淪す。我を生める父母も生の由來を知らず。生を受くる我身もまた死之所去を悟らず。過去を顧みれば冥冥として其の首を見ず。未來に臨めば漠漠として其の尾を尋ねず。
三辰頂に戴けども暗きこと狗の眼に同じく(日月星を頭上にいただいていても犬のごとくに生死の理に暗い)。五嶽足を載すれども迷えること羊の目に似たり(泰山嵩山衡山華山恒山の五嶽に足をのせていても前が見えないことは羊のようなものだ)。日夕に營營として衣食之獄に繋がれ。遠近を趁り逐て名利之坑に墜つ。加以(しかのみならず)磁石鋼を吸えば則ち剛柔馳せ逐(したが)い(男女は磁石にすいつけられるように引き合い)。方諸水を招けば則ち父子相親む(水晶が水をまねくように父子相親しむ)。父子の親親たる親の親たるを知らず(父子の親しみが本当はいかなるものかを知らない)。夫婦の相い愛する愛の愛たるを覚らず(夫婦の相愛するその愛の愛たるゆえんを知らない)。
流水相い續き飛焔相い助く(これらの愛のはかないことは流水が流れ去り炎が燃えうせるようなものである)。徒に妄想之繩に縛せられ、空しく無明之酒に醉えり。既に夢中之
遇えるがごとく、還って逆旅之逢に似たり(夢で佳人に逢い、宿屋で旅人にあうようなものである)。
一二道より展生し、萬物三に因って森羅たり。自在能く生し、梵天の所作なりというがごときにいたっては未だ生人之本を知らず、誰か死者の起りを談ぜん。(老子のいうように虚空の大道より混沌の一気を生じ、それが陰陽の二気となり、さらに天地人の三才と化し、あらゆるものが生じたと説くもの、あるいはまた自在天または梵天がすべてを生じたとする説がある。しかしこれらはいずれも本源をしっていない。このなかの誰が死の帰するところを語りえようか。)
遂にすなわち豺狼狻虎(さいろうさんこ・・・狼・獅子・虎)は毛物を咀嚼し、鯨鯢摩竭(げいげいまかつ・・鯨や摩竭魚)は鱗族を呑歠(どんせつ)す。金翅は龍を食み、羅刹は人を喫う。人畜相い呑み強弱相い噉う。況や復た弓箭野を亙れば猪鹿の戸(とぼそ・・・棲家)種を絶ち、網罭(もういき・・網)澤を篭むれば魚鼈の郷族を滅す。鷹隼飛べば鷩鵠(べっこく・・雉や鶴)流涙し、敖犬(ごうけん)走れば狐兎斷腸す。禽獸は盡くれども心未だ飽かず。厨屋に滿てども舌には厭はず。強竊の二盜は珍財に迷て戮(りく)を受け。和強兩姧は娥眉に惑て身を殺す。四種の口業は舌に任せて斧を作り(舌にまかせて妄語悪口綺語両舌の四種の罪を犯し)、三箇の意過は心に縱にして自ら毒す(心には貪瞋痴の三毒の煩悩をほしいままにして自らを毒している)。無慚無愧にして八萬の罪盡く作り、自作教他をして塵沙の過常に爲す。都て一一の罪業、三惡の苦を招き、一一の善根四徳の樂に登ることを覺知せず。
有が云く、人は死して氣に歸る、更に生を受けずと。此のごときの類をば斷見と名ずく。有が云、人は常に人爲り、畜は常に畜たり、貴賎常に定まり、貧富恒に分つ。此の如くの
類を常見と名ずく。或は牛狗の戒を持ち、((牛や犬のように苦労することが生天の道と思うこと)。或は恒河に投死す、此の如きの類を邪見という。邪見外道其數無量なり。出要を知らず。妄見を祖とし習えり。是の如き等の類は皆な悉く羝羊の心なり。
頌に曰く
凡夫善惡に盲いて、 因果有ることを信ぜず
但し眼前の利を見る、 何ぞ地獄の火を知らん
羞ずることなくして十惡を造り、 空しく神我有りと論ず
執着して三界を愛す。 誰か煩惱の鎖をまぬかれん。
問う。何の経によってか此義を建立す。
答う。大日經なり。彼の經に何んが説く。經云。「祕密主。無始生死の愚童凡夫は。我名と我有とに執著して無量の我分を分別す。祕密主。若し彼れ我の自性を觀ぜざれば則ち我我所生ず。餘は復た時と地等の變化と瑜伽の我と、建立の淨と不建立の無淨と乃至聲と非聲とありと計す。祕密主。如是等我分。自昔よりこのかた分別と相應して順理の解脱を希求す。祕密主。愚童凡夫の類は猶し羝羊のごとし。龍猛の菩提心論に云く。「謂く、凡夫は名聞利養資生之具に執著して、務に安身をもってし、恣に三毒五欲を行ず。眞言行人誠に厭患すべし。誠に棄捨すべし。」と
異生羝羊心とは何ぞ。凡夫狂醉して善惡を辨えず。愚童癡暗にして因果を信ぜざるの名也。凡夫種種の業を作って種種の果を感ず。身相萬種にして生ず。故に異生と名ずく。愚癡無智なることかの羝羊の劣弱なるに均し。故に以って之に喩う。
夫れ生は吾が好むに非ず。死は亦た人の惡むなり。然れども猶お生れゆき生れゆいて六趣に輪轉し、死に去り死に去って三途に沈淪す。我を生める父母も生の由來を知らず。生を受くる我身もまた死之所去を悟らず。過去を顧みれば冥冥として其の首を見ず。未來に臨めば漠漠として其の尾を尋ねず。
三辰頂に戴けども暗きこと狗の眼に同じく(日月星を頭上にいただいていても犬のごとくに生死の理に暗い)。五嶽足を載すれども迷えること羊の目に似たり(泰山嵩山衡山華山恒山の五嶽に足をのせていても前が見えないことは羊のようなものだ)。日夕に營營として衣食之獄に繋がれ。遠近を趁り逐て名利之坑に墜つ。加以(しかのみならず)磁石鋼を吸えば則ち剛柔馳せ逐(したが)い(男女は磁石にすいつけられるように引き合い)。方諸水を招けば則ち父子相親む(水晶が水をまねくように父子相親しむ)。父子の親親たる親の親たるを知らず(父子の親しみが本当はいかなるものかを知らない)。夫婦の相い愛する愛の愛たるを覚らず(夫婦の相愛するその愛の愛たるゆえんを知らない)。
流水相い續き飛焔相い助く(これらの愛のはかないことは流水が流れ去り炎が燃えうせるようなものである)。徒に妄想之繩に縛せられ、空しく無明之酒に醉えり。既に夢中之
遇えるがごとく、還って逆旅之逢に似たり(夢で佳人に逢い、宿屋で旅人にあうようなものである)。
一二道より展生し、萬物三に因って森羅たり。自在能く生し、梵天の所作なりというがごときにいたっては未だ生人之本を知らず、誰か死者の起りを談ぜん。(老子のいうように虚空の大道より混沌の一気を生じ、それが陰陽の二気となり、さらに天地人の三才と化し、あらゆるものが生じたと説くもの、あるいはまた自在天または梵天がすべてを生じたとする説がある。しかしこれらはいずれも本源をしっていない。このなかの誰が死の帰するところを語りえようか。)
遂にすなわち豺狼狻虎(さいろうさんこ・・・狼・獅子・虎)は毛物を咀嚼し、鯨鯢摩竭(げいげいまかつ・・鯨や摩竭魚)は鱗族を呑歠(どんせつ)す。金翅は龍を食み、羅刹は人を喫う。人畜相い呑み強弱相い噉う。況や復た弓箭野を亙れば猪鹿の戸(とぼそ・・・棲家)種を絶ち、網罭(もういき・・網)澤を篭むれば魚鼈の郷族を滅す。鷹隼飛べば鷩鵠(べっこく・・雉や鶴)流涙し、敖犬(ごうけん)走れば狐兎斷腸す。禽獸は盡くれども心未だ飽かず。厨屋に滿てども舌には厭はず。強竊の二盜は珍財に迷て戮(りく)を受け。和強兩姧は娥眉に惑て身を殺す。四種の口業は舌に任せて斧を作り(舌にまかせて妄語悪口綺語両舌の四種の罪を犯し)、三箇の意過は心に縱にして自ら毒す(心には貪瞋痴の三毒の煩悩をほしいままにして自らを毒している)。無慚無愧にして八萬の罪盡く作り、自作教他をして塵沙の過常に爲す。都て一一の罪業、三惡の苦を招き、一一の善根四徳の樂に登ることを覺知せず。
有が云く、人は死して氣に歸る、更に生を受けずと。此のごときの類をば斷見と名ずく。有が云、人は常に人爲り、畜は常に畜たり、貴賎常に定まり、貧富恒に分つ。此の如くの
類を常見と名ずく。或は牛狗の戒を持ち、((牛や犬のように苦労することが生天の道と思うこと)。或は恒河に投死す、此の如きの類を邪見という。邪見外道其數無量なり。出要を知らず。妄見を祖とし習えり。是の如き等の類は皆な悉く羝羊の心なり。
頌に曰く
凡夫善惡に盲いて、 因果有ることを信ぜず
但し眼前の利を見る、 何ぞ地獄の火を知らん
羞ずることなくして十惡を造り、 空しく神我有りと論ず
執着して三界を愛す。 誰か煩惱の鎖をまぬかれん。
問う。何の経によってか此義を建立す。
答う。大日經なり。彼の經に何んが説く。經云。「祕密主。無始生死の愚童凡夫は。我名と我有とに執著して無量の我分を分別す。祕密主。若し彼れ我の自性を觀ぜざれば則ち我我所生ず。餘は復た時と地等の變化と瑜伽の我と、建立の淨と不建立の無淨と乃至聲と非聲とありと計す。祕密主。如是等我分。自昔よりこのかた分別と相應して順理の解脱を希求す。祕密主。愚童凡夫の類は猶し羝羊のごとし。龍猛の菩提心論に云く。「謂く、凡夫は名聞利養資生之具に執著して、務に安身をもってし、恣に三毒五欲を行ず。眞言行人誠に厭患すべし。誠に棄捨すべし。」と