先ほどオウムの犯罪者が処刑されたとのニュースがありました。
オウム事件をきっかけにセクトとはなにか?が問われてきました。
国民議会「フランスにおけるセクト(カルト)教団」 セクト調査委員会報告書(1995年)のセクトの基準には
「・精神的不安定化 ・経済的要求に関する抑制の欠如 ・出身環境との断絶への誘導 ・身体的完全性に対する侵害 ・子供の取り込み ・反社会的傾向を帯びた言辞 ・公の秩序に対する揺さぶり ・裁判沙汰の多さ ・伝統的経済制度の悪用の可能性 ・公権力への浸透の試み」とあります。
オウムなど此のすべての基準に当て嵌まるのですがこういう基準があるにもかかわらず、オウムになぜ何千人もの信者が集まったのか?また今でも後継団体に2千人近くの信者が残っているのか?
オウム事件の時、おおくのマスコミは既成宗教の怠慢を批判しました。それは当たってもいますが間違ってもいます、数点整理しておきます。
1、 そもそもオウムは宗教などではない単なる極悪粗暴犯罪集団なので既成教団が特に宗教として批判する土俵などに上げてない。しかし社会現象の一部として世の不幸を増産する仕掛けを批判しないのはおかしいというのであればそれは該当する。
2、 オウムのようなカルト教団に惹かれる迷える子羊が多いということは、それだけ既成宗教の教師が怠慢であるからということは言えます。オウムの幹部が言っていたという「既成宗教は単なる景色にしか過ぎなかった」という言葉は既成教団に対しおおいに反省を促します。ただこういう子供たちの親もマスコミも学校も正当な宗教意識を子供たちにいままで植え付けてきてないことも確かです。幼い頃より家の仏壇神棚に手を合わせ、近くの神社仏閣におまいりし、食事の前後に合掌し、道端のゴミを拾うなどの習慣を植え付けているだけでこういう犯罪カルト集団に入ることはなかったはずです。国や自治体・企業までも過度の既成宗教アレルギーをおこし日本人の宗教歳時記となっていた幼児からの神社仏閣参拝の習慣まで否定してきたつけともいえましょう。
3、 既成宗教の宗教者にも世に隠れた清僧はいます。わたしの知っている方でも70歳で生涯娶らず清僧のままで修行に明け暮れ、四国徒歩遍路10数回、求聞持も10回近く行じられ、貧寺に住まわれている方がいますが世間はそうした清僧に光を当てることはしません。五濁悪世といわれます。五濁とは、却濁(天災・疫病・戦争などの生起する)、見濁(誤った考え方がはびこる)、煩悩濁(煩悩によって悪が蔓延する)、衆生濁(衆生の資質が劣悪となる)、命濁(短命となる)です、こういう時代となっているのであれば致し方ないことでもあります。昔であれば土地の有力者、幕府、豪商などはこういう優れた宗教者を庇護して自ら陰徳を積んだものですがそういう余裕すらなくなってきているのが現在の日本です。梅原猛にいわせれば「(明治維新と太平洋戦争で)公式には神も仏も死んだのである「歓喜する円空」」ということでしょうか。
4、 『法華経方便品第二』には「舎利弗、十方世界の中には、尚二乗無し、何に況や三有らんや。舎利弗、諸仏は五濁の悪世に出でたもう」とあり、弘法大師は「人法法爾なり。興廃いずれの時ぞ。機根絶絶たり。正像なんぞ別かたん(正像末は関係ない、梵網経開題)。」とおしゃっています。現代日本は五濁の悪世であるからこそ、或いは五濁悪世関係なく、密かに優れた宗教者がどこかに息つ゛いておられるはずです。しかしそれは具眼の人でなければ発見感得できないでしょう。
オウム事件をきっかけにセクトとはなにか?が問われてきました。
国民議会「フランスにおけるセクト(カルト)教団」 セクト調査委員会報告書(1995年)のセクトの基準には
「・精神的不安定化 ・経済的要求に関する抑制の欠如 ・出身環境との断絶への誘導 ・身体的完全性に対する侵害 ・子供の取り込み ・反社会的傾向を帯びた言辞 ・公の秩序に対する揺さぶり ・裁判沙汰の多さ ・伝統的経済制度の悪用の可能性 ・公権力への浸透の試み」とあります。
オウムなど此のすべての基準に当て嵌まるのですがこういう基準があるにもかかわらず、オウムになぜ何千人もの信者が集まったのか?また今でも後継団体に2千人近くの信者が残っているのか?
オウム事件の時、おおくのマスコミは既成宗教の怠慢を批判しました。それは当たってもいますが間違ってもいます、数点整理しておきます。
1、 そもそもオウムは宗教などではない単なる極悪粗暴犯罪集団なので既成教団が特に宗教として批判する土俵などに上げてない。しかし社会現象の一部として世の不幸を増産する仕掛けを批判しないのはおかしいというのであればそれは該当する。
2、 オウムのようなカルト教団に惹かれる迷える子羊が多いということは、それだけ既成宗教の教師が怠慢であるからということは言えます。オウムの幹部が言っていたという「既成宗教は単なる景色にしか過ぎなかった」という言葉は既成教団に対しおおいに反省を促します。ただこういう子供たちの親もマスコミも学校も正当な宗教意識を子供たちにいままで植え付けてきてないことも確かです。幼い頃より家の仏壇神棚に手を合わせ、近くの神社仏閣におまいりし、食事の前後に合掌し、道端のゴミを拾うなどの習慣を植え付けているだけでこういう犯罪カルト集団に入ることはなかったはずです。国や自治体・企業までも過度の既成宗教アレルギーをおこし日本人の宗教歳時記となっていた幼児からの神社仏閣参拝の習慣まで否定してきたつけともいえましょう。
3、 既成宗教の宗教者にも世に隠れた清僧はいます。わたしの知っている方でも70歳で生涯娶らず清僧のままで修行に明け暮れ、四国徒歩遍路10数回、求聞持も10回近く行じられ、貧寺に住まわれている方がいますが世間はそうした清僧に光を当てることはしません。五濁悪世といわれます。五濁とは、却濁(天災・疫病・戦争などの生起する)、見濁(誤った考え方がはびこる)、煩悩濁(煩悩によって悪が蔓延する)、衆生濁(衆生の資質が劣悪となる)、命濁(短命となる)です、こういう時代となっているのであれば致し方ないことでもあります。昔であれば土地の有力者、幕府、豪商などはこういう優れた宗教者を庇護して自ら陰徳を積んだものですがそういう余裕すらなくなってきているのが現在の日本です。梅原猛にいわせれば「(明治維新と太平洋戦争で)公式には神も仏も死んだのである「歓喜する円空」」ということでしょうか。
4、 『法華経方便品第二』には「舎利弗、十方世界の中には、尚二乗無し、何に況や三有らんや。舎利弗、諸仏は五濁の悪世に出でたもう」とあり、弘法大師は「人法法爾なり。興廃いずれの時ぞ。機根絶絶たり。正像なんぞ別かたん(正像末は関係ない、梵網経開題)。」とおしゃっています。現代日本は五濁の悪世であるからこそ、或いは五濁悪世関係なく、密かに優れた宗教者がどこかに息つ゛いておられるはずです。しかしそれは具眼の人でなければ発見感得できないでしょう。