福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

今日は大師が「十喩を詠ずる詩」を撰せられた日です

2024-03-01 | お大師様のお言葉

今日天長四年三月一日は大師が「十喩を詠ずる詩」を広智禅師に贈られた日です。

大師の「十喩を詠ずる詩」です。

「十喩を詠ずる詩

一、如幻の喩を詠ず
吾、諸法を観ずるに譬ば幻の如し
すべてこれ衆縁の合成するところなり
一箇の無明ともろもろの行業と
中にあらず外にあらず凡情を惑わす
三種の世間は能所の造なり
十方の法界は水蓮城(蓮華蔵世界、仏の世界)なり
空に非ず有にあらず、中道を越えたり(中道にもとどまらない)
三諦宛然として像名を離れたり(即空・即仮・即中の三諦は形像と名目を離れている)
春園の桃李は肉眼を眩かす
秋水の桂光はいささか嬰を酔わしむ(秋の水に映じた月は真理を知らない子供を迷わす)
楚沢の行雲(楚の七沢にわく雲)は無にしてまた有なり
洛川の廻雪(洛水の麗しい女神)は重うして還って軽し
封著(執着)して狂迷すれば三界熾なり
よく観じて取らざれば法身清し
咄き哉、迷者、だれかこれを観ずる
超越して阿字の宮に還帰せよ。

二、陽焔の喩を詠ず
遅々たる春の日、風光動く
陽焔紛々として曠野に飛ぶ
体を挙って空空として所有なし
狂児迷渇して遂に帰らんことを忘る
遠くして有に似たれども近うしては物なし
走馬流川いずれの処にか依る
妄想談義して化名起る
丈夫美女城園に満てり
男と謂い、女と謂う、これ迷える思いなり
覚者と賢人と見るはすなわち非なり
五蘊皆空は真実の法
四魔と佛とまた夷希たり(見ても見えぬ、聞けども聞こえぬ)
瑜伽の境界は特に奇異たり
法界の炎光、自ら相輝く
慢ずること莫れ、欺くこと莫れ、これ仮物
大空三昧はこれ吾が妃なり。

三、如夢の喩を詠ず
一念の眠りの中に千万の夢あり
乍ち 娯み、乍ち苦しんで籌ること能わず
人間と地獄と天閣と
一度は哭し、一度は歌って、幾何の愁いぞ
眠りの裏には實真にして 覚むれば見えず
還って知んぬ、夢の事は虚狂にして優(虚妄でたわむれごと)なることを
無明の暗室の長夢の客
世の中に処て多かるものは憂いなり
悉地の楽宮も愛し取ること莫れ
有中の牢獄には留まるべからず
剛柔気聚れば浮生出ず(陰陽の二気があつまれば生がはじまる)
地水縁窮まれば(体を構成する地水がなくなれば)死して休するがごとし
輪位と王候と卿相と
春は栄え秋は落つ、逝くこと流るるがごとし
深く修して観察すれば原底を得
大日円々として万徳周し

四、鏡中の像の喩えを詠ず
長者の楼の中の円鏡の影(演若達多長者が鏡中の自分の影に頭が映ってないのを見て狂った話、首楞厳経)
秦王の台の上の方丈の相(秦王が四角の鏡に映った姿で善悪を判断したこと、西京雑記)
知らずいずれの処よりか忽ちに来去する
これはこれ因縁所生の状なり
有にあらず無にあらず言説を離れたり
世人思慮するに籌量(思慮分別)を絶つ
言うこと莫れ、自作と共と他起と(自分が原因、共に原因、他が原因)
外道、邪人は虚妄に繞る
心神(心)と衆生と同異にあらず(心・佛・衆生、是三無差別)
因縁にして顕ることなおし響のごとし
閑房に摂念して(静寂な部屋で観想して)無明断じ
蘭室に香を焚いて讃の響きを暢ぶ
三密寥寂(行者の身口意と仏の身口意が一体となり)として死灰(無念無想)に同じ
諸草感応して忽ちに来たり訪う
喜ぶこと莫れ、瞋ること莫れ、これ法界なり
法界と心とは異説なし

五、乾闥婆城(蜃気楼)の喩を詠ず
海中厳麗にして城櫓を見る
走馬行人南北す
愚者は乍ちに観じて実有となす
智人はよく仮にして空なりと識る
天堂と仏閣と人間の殿と
有にして還って無なることこれに同じ
咲うべし嬰児、愛し取ること莫れ
よく観じて早く真如の宮に住すべし

六、響きの喩を詠ず
口中、峡谷、空堂の裏
風気相撃って声響起こる
もしは愚、もしは智、聴くこと同じからず
あるいは瞋り、あるいは喜ぶ、相似たるにあらず
因縁を尋ね覓むれば曽って無性なり
不生不滅にして終始なし
一心に安住して分別することなかれ
内風外風吾耳を誑かす

七、水月の喩を詠ず
桂影(月影)團々として寥廓に飛ぶ
千河万器、各々暉を分かつ
法身寂々として大空に住す
諸趣(六趣)の衆生互いに入帰す(相互に入る)
水中の円鏡(水に映った月)はこれ偽れる物
身上の吾我もまたまた非なり(体の上の自我も実体はない)
如々不動にして人の為に説き
兼ねて如来の大悲の衣を着よ

八、如泡の喩えを詠ず
天雨濛々として(雨がしとしと降り)天上より来る
水泡種々にして水中に開く
乍にして生じ乍に滅して水を離れず
自に求め他に求むるに自業裁す(水本来の性質による)
即心の変化、不思議なり
心佛これを作す、怪み猜うこと莫れ
万法自心にして(あらゆる現象は自分の心のあらわれであり)本より一体なり
この義を知らず尤も哀れむべし

九、虚空華の喩を詠ず
空華灼々として何の実かある
無色無形にして但し名のみあり
染浄は元よりこのかた動ずる事能わず(衆生の仏性は善悪染浄をもって論ずることはできない)
雲霧曀晴(えいせい)するを濁清と名く
実相如如にして一味の法なり
迷人妄りに三界の城を見る
四魔三毒(蘊魔・煩悩魔・死魔・天魔、貪瞋痴)は空が幻なり
怖れ莫く驚く莫くして六情を除け(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識を除け)

十、旋火輪の喩を詠ず
火輪は手に随って方と円となり
種々の変形は意に任せて遷る
一種の阿字は多く旋輪す(阿字の一文字が変化して多くの文字となる)
無辺の法義これによって宣ぶ

これこの十喩の詩は修行者の明鏡、求佛の人の舟筏なり。一度誦し一度諷ずれば塵巻とともんじて義を含み、一度観じ一度念ずれば沙軸(無数の巻物)とともんじてもって理を得。ゆえに翰札(手紙)を揮ってもって東山の広智禅師に贈る。物を観ては人を思う,千歳に忘るることなかれ。上都神護国祚真言寺沙門小僧都遍照金剛。天長四年参月壹日これを書す。」

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