妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)・・5
三には羅刹の難。
「若有百千萬億衆生。爲求金銀琉璃車渠馬脳珊瑚虎珀眞珠等寶。入於大海。假
使黒風吹其船舫。飄墮羅刹鬼國。其中若有乃至一人。稱觀世音菩薩名者。是諸人等。皆得解脱羅刹之難。以是因縁名觀世音。」
「若有」より「大海」までは、海に入るは是難の因由なることを明かす。是遠由なり。「假使黒風」等は近由なり。「飄墮羅刹鬼國」は正しく難に遭ことを明す。「其中」の下は善なり。上の難に合して機を明かす。此の中に「稱觀」の下は正しく立行なり。「是諸」の下は應を明かす。「以是」の下は得名を結す。實には難ごとに皆結すべし。羅什略を好むが故に中間に於いて得名を結して初後を兼彰すなり。
「若有」とは上に同じく不定の辞なり。
「百千萬億衆生」とは、通じて海に入りて寶を求る者の多きことを云なり。凡そ商船の海中の寶洲に至て、諸の寶を求めんとするに、伴を結ぶこと定まれる數なしといへども、終に獨往ことなし。故に通途に百千万億と云なり。
「爲求」とは、爲の字は以に訓ず。去聲。
「金」とは、已下は七寶なり。梵語には蘇伐羅挐(そばつだら)或は迦那迦(きやのうきゃ)、此には金と云。説文に、金に五色あり。黄金を長となす。久しく埋ども不生(さびず)、百たび陶せども軽からず。西方の行なりといへり。「銀」とは、梵語には阿路巴。此には銀と云。爾雅(中国最古の字書)に、白金これを銀と謂ふ。其の美なるもの、是を鐐(りょう)といへり(爾雅・釋器に「黃金,謂之璗,其美者謂之鏐。白金,謂之銀,其美者,謂之鐐」)。
「琉璃」とは具さには吠瑠璃、此には青色寶と云。亦不遠と翻ず。波羅奈城を去ること遠からざる山より此の寶を出す。故に名くるなり。藝文類集(624年唐の高祖の勅命で、 欧陽詢 らが撰。)に魏略(280年頃魚拳編)を引て、大秦國より赤白黒黄青緑紺縹紅紫の十種の瑠璃を出すといへり。集韻(11世紀宋代に作られた韻書)には瑠璃火斉珠なりといへり。
「車渠」とは、華厳音義に云、梵語には正しくは、牟婆羅楬婆(ぼうさらぎゃらば)と云。牟婆羅とは此には勝と云也。楬婆は蔵なり。𦾔が「車磲」となるは未詳なる所也といへり。本艸綱目の四十六に曰、李時珍が曰、案ずるに韻會に云、車渠は海中の大貝なり。背上の壟文(ろうもん・小高くなった文)、車輪の渠(みぞ)の如し、故に車溝を名けて渠と曰。鐂積(りゅうせき)が霏雪録(ヒセツロク。二卷。明镏绩 (生卒年不详)撰。镏绩,字孟熙,先世为洛阳人,后徙于山阴 (今山西省山阴县)。其父镏涣,精通《毛诗》,元朝时曾为三茅书院山长。镏绩承其家学,著有 《嵩阳稿》、《诗律》 以及《霏雪录》等。)に曰く、海扇は海中の甲物也。其の形扇の如し。背の文瓦屋の如し。三月三日潮盡きて乃ち出ず。又曰く、時珍が曰、車渠は大蛤也、大なる者は長さ二三尺、濶(ひろ)さ尺許り。厚さ二三寸。殻外の溝壟(こうりょう・溝の高さ)蚶殻(かんかく・はまぐりの殻)の如くにして而して深大にして皆縦文、瓦溝の如くにして、横文無き也。殻の内白析にして珠の如し。沈存中(北宋代の科学者、政治家)が筆談に云、車渠大なる者は箕の如し。以て器を作るに緻(きびしう)うして白玉の如し。已上。
「馬脳」とは、華厳の音義に曰、馬脳は梵音に阿湿嚩掲波(あしつばぎゃらば)と云。阿湿嚩、此には馬と云也。掲波とは脳也蔵也。若し阿湿摩掲波と言は、此石蔵と云。按ずるに此の寶、白石の中より出つ。故に言ふ應し、石蔵寶と也。古来馬の聲、石に濫じ蔵の聲の脳に同じきを以ての故に、謬て馬脳と云也。已上。本艸綱目の八に曰、陳蔵器が曰、赤爛紅色にして馬之脳に似たり故に名く。又曰、南馬脳は大食等の國(イスラム諸国)に産す。色正紅にして瑕なし。西北の物は色は青黒也。寧夏瓜沙羗の地の砂礫中に得る物尤も奇なり。柏枝馬脳は花柏枝の如し。夾胎馬脳は正見せば瑩白也。側より視れば則ち凝血の如し。一物二色也。載子馬脳は黒白相間(まじはる)。合子馬脳は漆黒中に一の白線有りて之を間つ。錦紅馬脳は其の色錦の如く、纏絲馬脳は、紅白の絲の如し。此皆貴品なり。馬脳を試みる法、木を砑(す)って熱からざる者を真とす。已上。
「珊瑚」とは、華厳音義に曰、珊瑚、梵には正しくは、鉢羅摩禍羅と云、名義集には禍を福に作る。謂く寶樹の名なり。其の樹、身幹枝條葉皆紅色(已上)。本艸綱目の八に曰く、蘇頌が曰、海中經に云、珊瑚を取るに先ず鐵網を作り水底に沈めば珊瑚中に貫きて而て生ず。ことに高さ三四尺、枝有って葉なし。李自珍が曰、珊瑚は海底に生じて五七株林を成す。之を珊瑚林と謂ふ。水中に居る時は直くして軟かなり。風日を見る時は則ち曲がって而も硬し。紅色に変ずる者、漢の趙他(南越王)之を火樹と謂也。又黒色の者あり、佳らず。碧色の者も亦良し。昔の人碧なる者を謂て青琅玕(青い砥石)と為す。許慎・説文に云、珊瑚色は赤し、或は海に生じ、或は山に生ず。此の説に據るときは則ち海に生ずる者を珊瑚と為す。山に生ずる者を琅玕と為す。
「琥珀」とは、同三十七に曰、李自珍が曰、虎死する時は則ち精魂地に入りて化して石と為る。此の物の状、之に似たり。故に是を虎魄という。俗文玉に隨ふ。其の玉に類するを以て也。陶弘景(中国六朝時代の医学者・科学者、道教・茅山派開祖)が曰、𦾔説に松脂淪(しず)んで地に入り、千年にして化する所也。今之を焼くに亦松氣を作す。又中に一峰ありて形色生者の如くなる有りて、博物誌に乃云、蜂の巣を焼いて作る所なりと。恐らくは實に非ざる也。此或は蜂、松脂の為に沾され、因って地に堕ち淪没するのみ。時珍が曰、其の伏芩(ふくれい・アカマツやクロマツの根に寄生するサルノコシカケ科の菌類)千年にして琥珀に化するの説、又誤り傳る也。按ずるに曹昭が格古論(格古要論かっこようろん. 明代の曹昭が撰述した美術工芸品の評論書)に云、琥珀、西番南番に乃ち楓木の津液多年にして化する所也。色黄にして而も明瑩なる者を蝋珀と名く。色松香の如く、紅にして而も且つ黄なる者を明珀と名く。香有る者を香珀と名く。高麗倭國に出る者、色深紅なり。蜂蟻松枝有る者尤好し。已上。
「真珠」とは、同四十六に曰、李珣(唐末期の文学者・本草学者)が曰、真珠は南海に出るは石決明(貝殻を洗浄・乾燥したもの)の産也。蜀中西路女瓜に出る者は是れ蚌蛤産、光白甚好。已上。
「等寶」とは、七寶真珠の外の寶を等ずる也。凡そ七寶には異論多し。佛智論の一、無量壽經の上に、大論の十起世の一、長阿含の十八、増一の三十三、恒水經等是也。今の所説は亦前の所説に異んぜり。増一には金銀水精瑠璃虎魄馬脳車渠といへり。今の經は珊瑚を以て彼の水精に換へたるなり。自餘の諸説には多くは真珠を加へて餘の珠を除けり。故に知ぬ、今は真珠を七寶の外とすといふことを。
「入於大海」とは、正しく難の遠き由を明かす。但し今は遠の中の近なり。何となれば珍寶を貧ずるに由て海に入る、海に入るが故に風に遭ふ、風に漂はさるるが故に羅刹の難に逢ふ。故に尒示せり。
「假使」とは、此亦不定の辞なり。
「黒風」とは、たとひ風のみなりとも恐るることあるべし。況や更に黒色なるをや。是は極て怖しき風を云はんが為なり。若し秘密趣に約せば、風は本来黒色なり、故に風甚だしき時は其の本色をあらはす也。請観音經には黒風波を廻すと説き(請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪經「入於大海黒風迴波。水色之山夜叉羅刹之難。毒藥刀劍臨當刑戮。過去業縁現造衆惡。以是因縁受一切苦極大怖畏。應當一心稱觀世音菩薩名號。并誦此呪一遍至七遍消伏毒害」)仁王般若の下巻には、黑風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風の七難の風を説き(仁王般若波羅蜜護國經受持品第七「大風吹殺萬姓。國土山河樹木一時滅沒。非時大風黒風赤風青風天風地風火風。如是變時亦讀此經。爲五難也」)長阿含の二十一には、大黒風有り、暴く起て、海水を吹く、と云へり(佛説長阿含經卷第二十一第四分世記經三災品第九「佛告比丘。以是當知。一切行無常。變易朽壞。不可恃怙。有爲諸法甚可厭患。當求度世解脱之道。其後久久有大黒風暴起吹大海水。海水深八萬四千由旬吹使兩披。取日宮殿置於須彌山半。去地四萬二千由旬安日道中。縁此世間有二日出。二日出已。令此世間所有小河汱澮渠流皆悉乾竭」)
「船舫」とは、舫は甫妄の切、両船を並べる也。両船をもやひして行く也。
「飄墮」とは、風に吹かれて船の飛ぶこと落葉の空に飄るが如くなれば飄と云。
堕とは上より落ると云をあらはす。羅刹鬼の手に入るは堕るが如くなれば堕と云也。
「羅刹」とは梵語。此には速疾鬼と云。又可畏とも、暴悪とも、護士とも云。梵文には「あらきしゃ(梵語)」、是則ち擁護の義なり。又「きしゃ」字に食の義、盡の義あるが故なり。
「鬼」とは、爾雅(中国最古の字書)に曰、鬼の言は歸なり。説文に曰、人の歸る所を鬼と為す。禮記の樂記に曰、幽には則ち鬼神有り。鄭玄(2世紀後半の後漢の儒学者、訓詁学の大成者)の曰、然らば則ち聖人の精気之を神と云、賢知の精気之を鬼と云(已上)。佛教には夜叉、羅刹、乾闥婆、緊那羅(きんなら)、薜茘多(へいれいた)、毘舎闍、鳩槃荼(くばんだ)、富単那(ふたんな)等の類を総じて鬼と云なり。
「其中乃至一人」とは、たとへば船中の人、千二千人あらんに、其中に唯一人なりとも観音を専念する者あらばと云意なり。
問、後の怨賊難の中には「俱發聲言」と云て同音に念ずるを勧む。今は何ぞ「乃至一人」と云ぞや。
答、陸地には逃れるべき方もあるべし、故に其の衆人の意一に同じ難し。これに因て同く唱よと勧む。海中にはたとひ船ありとも、羅刹に通力あれば遁れ難かるべし。今は已に吹き放されたる船ならば、別船あることも希なり。故に口には同く唱へざれども難を恐るること切なるが故に、意には同じく念ずる理なり。ここを以て「乃至一人」と云。「乃至」の言には多人をも含ぜり。「稱観世音」の下は文明なれば註せず。應験傳に曰、外國に百餘人あって師子國(現在のスリランカ)より海を渡て扶南國(現在のカンボジア)に向ふ。忽ちに悪風に遭て鬼國に著く。鬼喜で盡く食はんとす。船中の衆人をそれをなして、観音を稱念す。其の中に一人の小乗の沙門あって、観音を信ぜず、稱念を肯はず。時に鬼此の沙門を食んはんとす。沙門狼狽して同く観音を念ずるに、俱に皆脱れたりと。若し観心の釈ならば亦二あり。一には果報の風。謂く、地獄の中には熱風等あり。正法念處經の六に曰く、活地獄の第五の別處・暗冥處の罪人はかしこに大力の風あって、金剛の山を吹いて罪人を磨砕くこと沙を散らすが如し。熱風に吹るること利刀を以て割くが如くして、其の身を分散せしむ。昔し人中に生じて羊の口鼻を塞いで而も殺し、亀を瓦と瓦の中に入れて圧殺せし者、此の地獄に墜つ。偶ま人中に生ずれば常に縛られ命短し(已上)(正法念處經卷第五・生死品之三「又彼比丘。觀活地獄第五別處。名闇瞑處彼業果報。衆生何業生於彼處。彼見聞知。衆生邪見。顛倒業果。所謂方時外道齋中。掩羊口鼻如是屠殺。置龜塼上。上復與塼壓之令死。彼人以是惡業因縁。身壞命終。墮活
地獄。生闇瞑處。闇火所燒。以惡業故。有大力風吹金剛山。合磨令碎。猶如散沙。間無暫樂。彼處罪人各不相見。熱風所吹。如利刀割。令身分散。」)
又第八に曰、叫喚地獄の第十四の別處煙火林處には刀の如く火の如くなる熱風罪人を空中に吹挙げて、互に打合わせせて砕くことすなの如くす。無量百千年苦を受く。偶ま人中に生ずれば項の肉三ところ高く出、常に痤病(吹き出物)をやむ。若し人多く殺生し偸盗し邪婬し、或は怨敵を悩さんが為に酒を飲しめ、若しは官人に酒を以て饗じて怨家を苦しましめたる者、此の中に堕す。又同十五の別處雲火霧處には、火の満ること厚さ三十六丈なり。獄卒罪人をとらへて火の中を歩ましむるに、足より頭に至るまでことごとく洋消ゆ。引き挙ればやがて活る。又火風起て罪人を吹散らすこと木葉の散るが如く、十方に轉回すること縄を捩るがごとし。かくの如く焼かれて灰の如くも残ることなし。而も又還て生ず。かくの如く無量歳の間苦を受く。昔殺生し偸盗し邪婬し、或は酒を以て持戒の人に與へ、或は外道に飲ましめ、酔しめ已って調戯し弄て辱めて、自ら喜べる者、此の中に堕す。已上。又曰く、妄語の業の故に大叫喚地獄に入って風其の齗(はぐき)を散じて砕くこと沙の如く、刀風其喉を削裂。已上。同第九に曰、人中にして殺生偸盗邪婬し、酒を飲み、又妄語して他の田地を奪ひたる者は大叫喚の第四の別處随意圧處に入る。二の鐵の槖籥(たくやく. ふいご)あって風其の中に満てり。獄卒罪人を執へて鐵の鑪の中に在て、槖を以て極めて吹き、鐵の鉗を以て鉗(はさん)で鐵の砧の上に在て、鐵鎚を以て打つ。かくの如く無量邊を經て暫くも息むことなし。若し人中に生ずれば常に渇して瞋ること多く、人其言ことを信ぜず。已上。餓鬼をいはば、罪業報應教化地獄經に曰く、一の鬼あり、常に雪山の中にあり。寒風に吹かれて皮剥げ肉裂けて死せんことを願へども得ず。是は前世に人と為て道路に横行して人の衣を剥で凍死せしめ、或は生きながら牛羊の皮を剥いで痛堪難からしむるを以て、斯の報を受と。已上。(佛説罪業應報教化地獄經「第十復有衆生。常在雪山中寒風所吹皮肉剥裂。求死不得。何罪所致。佛言。以前世時。坐横道作賊剥脱人衣。使冬月之日令他凍死。生㓟牛羊痛不可堪。故獲斯罪」)又。雑經に曰く、一りの鬼あり、目蓮に白さく、常に旋風あって我身を迥轉して不自在ならしめ、心常に悩悶す。是は何の業の報ぞや。目蓮答て曰く、汝前世に常に卜師として人の吉凶禍福を占ふに、或時は實語し或時は妄語して人の心を惑せり。其罪に由りて此の報を受けたりと。已上。(佛説雜藏經「復有一鬼。白目連言。常有旋風。迴轉我身。不得自在隨意東西。心常惱悶。何因縁故爾。目連答言。汝前世時。常作卜師。或時實語。或時妄語。迷惑人心。不得隨意。是故受如此罪。此是華報。」)又正法念處經には食風鬼あり。是亦例すべし。畜生をいはば、鳥は大風に遭ては巣を傾られて卵を破る。蟲の羽有る者は風に吹飄されて死を致す。人中の風難は上の如し。或は風火偏増なれば百病を起す。故に醫書(『黄帝内経素問』(前漢))にも風は百病の長為り云へり。若し劫末に風災起る時は第三禪に至るまで悉く吹き壊られて砕けて微塵となる。(『阿毘達磨倶舎論』によると、住劫で寿命が10歳に減ったとき、刀兵・疾疫・飢饉の小三災が起きる。また壊劫の末には火・水・風の大三災のいずれかが起き、64劫ごとに循環する。四禅天のうち、火災では初禅天、水災では二禅天、風災では三禅天までが破壊される)已上の風難にも、若し観音を専念すれば、菩薩の不思議力を以て解脱せしめ玉ふ。二に悪業の風は能く五戒十善の船舫を吹壊て(戒善は能く三途の生死を越ゆ、故に船舫と云)三途の鬼國に漂ひ、愛(思惑)見(見惑)の羅刹に害せらる。(愛見は因に約す。宿業に由て愛見を起こすが故に。)。若し菩薩を念すれば王三昧(念仏三昧のこと。 すべての三昧のなかで念仏三昧が最もすぐれていることからきた呼称)の力、能く宿業を滅せしむ。(観音の真言を誦して重罪を滅する事、密經に往往に説けり。)(例えば、十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経には「如是に我聞く、一時、佛、補蛇落山にいまして、衆の為に説法したまふ。其の時、観世音菩薩は仏に白して言さく。我に神呪あり。もし衆生有りて受持するものあれば、一切の病患憂苦を除却す。一切の悪業煩悩を消除し身口意の業を皆清浄ならしめ、心中百千萬億等の事、成就せざることなからしめん」。)三には煩悩の風。謂く、二乗は聞信戒定進捨慚の七聖財の寶(法華文句記卷第八之四唐天台沙門湛然述釋見寶塔品「七寶爲塔者。即七覺七聖財。七聖財謂聞信戒定進捨慚。隨其教位明七深淺。既是佛塔之七又證實經。並用無作七覺七財」。)を採るに、煩悩の風の為に慧行の船、行行(福徳を行行と云)の舫(もやひぶね)を吹かれて愛見の境に堕し、見愛の羅刹に害せられ、縁覚及び四教の菩薩は煩悩の海に入りて、一切智の寶を採るに、八倒(凡夫の常・楽・我・浄、二乗の無常・苦・無我・不浄なり。)の暴風に吹かれて、二邊(空・有)の鬼國に堕す。若し中道正観の観音を念ずれば、三観一時に圓に感じて二邊の鬼難を免るる也。(入空の観は常等を以て倒とし、假中の變易は無常等を以て倒とす。)