先祖供養の経典・・1
先祖供養に関する経典はあまり注目されてきませんでした。
仏教は理論的には自業自得の世界。なのになぜ善行などの回向で先祖や他者を助けることが出来るのか、という疑問があるからでしょう。
しかし「大乗義章」では「廻とは転なり。向とは趣なり。自の万行を転じて三所に趣向するが故に。一門に三を説く、一には菩提廻向(悟りに向かって回向するもの)、二には衆生廻向(自らの功徳を他者に転じてともに仏道に向かうもの、追善廻向はこれにあたる)、三には実際廻向(実際(真理の世界)に向かうもの)。・・」(この菩提回向も衆生回向も実際回向もつまるところ同じ。回向はつきつめるとすべて自他平等に悟りの世界に向かわせる力をもっているということです。)「仏法は自業を他人受果することなく、他業を自己、受報する事無しといえども、彼我互いに助縁となること無きにあらず。相い助くるをもってのゆえに、己が善根を以って廻して以って廻して他に施す。回向をもっての故に未来世において常によく衆生を利益して捨てず、たすけて修善せしむ。・・・」(これは自己の善根が増上縁(他の物事が生ずることを助ける働きをする縁)となり他人に利益を与えるといっている。故人の追善廻向を思い立つということは故人の遺されたものに仏縁を深めてやろうという還相廻向によるもので、これにより法事を営み仏縁を深めるのが実際廻向(往相廻向)である。)とあり、
・天台四教集解には「回向とは自らの功徳を回らせて他の衆生に向かえ同じく無上の佛菩提に会す、声を回らせて角に入れればその響き必ず遠く聞こえるが如し」とあります。
また印度にも『盂蘭盆経』の元になる『撰集百縁経(avadaanashataka)』と、『餓鬼事(petavattu)』があります。前者では目連が500人の餓鬼と会い、後者では舎利弗が4つ前世での母だったという餓鬼と会い、そして救うための供養が行われています。『餓鬼事経』には特に「餓鬼道に住む者には、布施の功徳はためになる。この餓鬼道が、布施の功徳が役に立つ適切な境遇である」とされています。『増支部』ジャーヌッソーニ章でも、「天人・人間・畜生・地獄にはそれぞれの食べ物があり、布施の功徳は届かない、餓鬼も餓鬼の食べ物があるが、友人知人・親族縁者が人間界から「かれらのために」と布施することによっても生き長らえるので、布施の功徳が役に立つ」と説かれています。
先祖供養に関する経典はあまり注目されてきませんでした。
仏教は理論的には自業自得の世界。なのになぜ善行などの回向で先祖や他者を助けることが出来るのか、という疑問があるからでしょう。
しかし「大乗義章」では「廻とは転なり。向とは趣なり。自の万行を転じて三所に趣向するが故に。一門に三を説く、一には菩提廻向(悟りに向かって回向するもの)、二には衆生廻向(自らの功徳を他者に転じてともに仏道に向かうもの、追善廻向はこれにあたる)、三には実際廻向(実際(真理の世界)に向かうもの)。・・」(この菩提回向も衆生回向も実際回向もつまるところ同じ。回向はつきつめるとすべて自他平等に悟りの世界に向かわせる力をもっているということです。)「仏法は自業を他人受果することなく、他業を自己、受報する事無しといえども、彼我互いに助縁となること無きにあらず。相い助くるをもってのゆえに、己が善根を以って廻して以って廻して他に施す。回向をもっての故に未来世において常によく衆生を利益して捨てず、たすけて修善せしむ。・・・」(これは自己の善根が増上縁(他の物事が生ずることを助ける働きをする縁)となり他人に利益を与えるといっている。故人の追善廻向を思い立つということは故人の遺されたものに仏縁を深めてやろうという還相廻向によるもので、これにより法事を営み仏縁を深めるのが実際廻向(往相廻向)である。)とあり、
・天台四教集解には「回向とは自らの功徳を回らせて他の衆生に向かえ同じく無上の佛菩提に会す、声を回らせて角に入れればその響き必ず遠く聞こえるが如し」とあります。
また印度にも『盂蘭盆経』の元になる『撰集百縁経(avadaanashataka)』と、『餓鬼事(petavattu)』があります。前者では目連が500人の餓鬼と会い、後者では舎利弗が4つ前世での母だったという餓鬼と会い、そして救うための供養が行われています。『餓鬼事経』には特に「餓鬼道に住む者には、布施の功徳はためになる。この餓鬼道が、布施の功徳が役に立つ適切な境遇である」とされています。『増支部』ジャーヌッソーニ章でも、「天人・人間・畜生・地獄にはそれぞれの食べ物があり、布施の功徳は届かない、餓鬼も餓鬼の食べ物があるが、友人知人・親族縁者が人間界から「かれらのために」と布施することによっても生き長らえるので、布施の功徳が役に立つ」と説かれています。